(前略)1年あまりのつきあいの仕上げとなったのは、1984年7月、『イキ』のイタリア・ツアーだった。「イキ」には息、生き、粋が含まれていて、例によって哲学的なプログラム・ノートがついていて翻訳を手伝った。彼を前から応援していたプロデューサー、ロベルトとヴェリアの企画だった(ロベルトはその後まもなく亡くなり、ヴェリアはずっとイタリア・ツアーに関わったと聞いた)。その最終日、ローマの野外ステージでは前々日に急に言われて舞台に上がった。現在は山海塾のメンバーで当時は大道具係の竹内晶、助手をしていたダンサー志望の島田と3人で、白装束にロウソクを持って水を流した舞台を横断する程度の動きだったが、数百人の観客を前にした「初舞台」は緊張ですくんでしまった。終了後、火が風に飛びそうだったと弁解したが、「お前だめだな」と叱られた。そのときの腰抜けぶりをその後ずいぶんの間、身振り表情つきでからかわれた。
こうして鴻さんとの1年あまりは過ぎていった。舞台作りにかかわった経験は翌年5月ジェノヴァで開催された「日本 未来の前衛」フェスティバルのスタッフとして雇われたときに大いに役立った。しかし長い目で見れば、それよりも彼の素顔と舞台の顔、思想と表現に至近距離で触れたことが、一生の宝物だった。綿密な準備のうえで、彼の舞台は予定の高さを一瞬で越えてしまう。考え抜かれた言葉は蹴飛ばされ、からだがそそり立つ。そしてぶっ倒れる。その緊張した質感は他に代えがたい。そうした超越的な体験はそう何度も知らない。白塗りの半裸体でかがみこみ、西洋的な身体のバネとは違った力学を使ってぴょんぴょんとはねる後姿が今また蘇ってきた。座右のことばとしていた土方巽の「命がけの跳躍」を文字通り体=現していた。
細川周平『室伏鴻追悼文集』より