2012
室伏は、土方巽の頂点を“衰弱体”に見、生産性からどうしても逸脱してしまう過剰なもの、余り、他所をいかに組織するかに挺身した。加齢によって踊れなくなることもあるのでは、と問われて、
できなくなるようなダンスが成立すれば、それこそ願ったりだと思うんです。衰弱体を演技するのではなくて、衰弱そのものになっていけばいい。…(中略)…衰弱体の立体化みたいなことがあるんだよ。三次元か四次元か知らないけど(笑)。そのときに指針になるのは、土方さんの物との交流、恋愛みたいなことのなかで、衰弱体の一番いい時間が流れるわけ―実際人間と人間が恋愛する場合だっていいけれど。衰弱という問題は、単に土方さんが踊ったディサビリティー(不自由性/不具性)の問題だけではなくて、もっと広げることができる。たとえば、片手が動かないと、もう一方の手が可能性をアピールすることがあるわけ。それはもっと読みかえが可能で、衰弱体はすごくいいものを提出している。たとえば、ベケットの『ゴドーを待ちながら』で、待っているしか時間がないと。そうするといくら何かやっても待っている。ああいうアイデアに非常に近いんだけど、ちょっと違うというか。そこのところが面白いよね。徒労っていうの? いくら努力しても無駄ですというようなことが、人間あるじゃないですか(笑)。そういうものを体が一番知っている。それが馬鹿だねーって。それだけが偏っちゃうと、狂気なんでしょう。そういう狂ったようなものなんだ。
室伏・談
(Y.O)