1975
たとえば、商店会の籤引きなどでおなじみの、六角ないし八角形の木箱に付いたハンドルを回すと球が出、その色で景品が決まるガラガラポンという奴。あれを舞台で再現し、回転するたびに舞踏手が落ちてくる等々。いかにも大駱駝艦らしいケレン味たっぷりの祝祭だが、駱駝艦の活動だけでは充たされなかった室伏は、この年あたりに独立の意向を固めていた模様。
駱駝の分派は麿さんが許したんですよ。ヤクザ的なんだけど、条件は三割を本艦に入れることだった。…(中略)…福井、東北と、東京の中心を外そうという意図は確かにあったよ。センターを外していくことは世界的動向だったね。ヨーロッパの演劇祭ならパリからズラしていこうと。そういうムードはヒッピー・ムーブメントを含めアート全体にあったんだね。いわゆるポストモダニズムというけど、ちょっと前はピーター・ブルックとか、文化人類学が混ざっている。混成だよ。一つの演劇のかたちではなく、異言語でお互いを出会わせる。シェイクスピアをアフリカ系の男性に演らせてみたり、混成させるわけだね。一つのカテゴリーではダサい、もっと雑種=ハイブリッド。そういうものがモードとなっていた。私の木乃伊もそうだと思うけどね。日本語の桶を掘っていくと、インド哲学なのか、お経が出てくるのか知りませんけど、その奥には日本語を突破しちゃったものがあるんじゃないか。それが身体と結びついて伽藍体=フラスコみたいになってるんじゃないか。山伏も即身成仏も、空海がどこからか持ってきたものだろ。つまり、空海なのか、インド、東洋の何に何語が混成しているのかわからないようなもの、はぐれた身体になっている。土方さんの東北歌舞伎の場合、そのルーツを探っていくと、東北のはぐれた農民のからだが出てくることになっているけど、じゃあ、そこが根拠? そこが絶対的な根拠ではないよな。そうすると根拠なんてないじゃない。私は福井に行って、拠点を置いてシッカリやろうというタイプではないから、一漂流拠点としての福井の穴を掘っていたらスペイン出ましたっていう話をデッチあげたかったわけ。福井の村の人たちは、いったいこんな山奥まできて何をするんですかと思っていたみたいだけど。ウチのを嫁に貰ってくれないかと(笑)。
室伏・談
(Y.O)