1981
フランス招聘の話は、室伏によると、初めはやはり土方巽に打診されたらしい。ところが飛行機嫌いだった土方はニベもなく拒否。大駱駝艦にも声がかかるが、麿は40人くらいの大所帯で行きたいと。当時、駱駝の制作も請け負っていた室伏は、1977年、調査の名目でパリへ。その際、パリのキャバレーで踊ってみたいとリクエスト、シャンゼリゼにオープンしたばかりのキャバレー「Jardin」が受け皿になるというので、カルロッタ池田、ミゼール花岡を伴い渡仏した。その後の経緯は『Dernier Eden』の項を参照。2月の深夜の上演にも関わらず、同作は連日満員のロングラン。この成功が、暗黒舞踏を直訳“Danse de tenebere”から“Butoh”へと定着させる画期をなす。そして満を持し、室伏はアリアドーネの芸術監督として彼女ら全員とスタッフを引き連れ、パリに降り立つ。
カルロッタ(池田)さんは成功したんですよ。室伏のほうがコレオグラファーだった。アリアドーネの『ツァラトゥストラ』がヒットして、山海塾もテアトル・ドゥ・ラ・ヴィルに入るところで、相乗して、パリは舞踏ブームに火をつけた感じになった。私は演出家だったけど、メゾン・デ・キュルチュール・モンドなどでソロの活動もやっていた。舞踏も前衛じゃないですか。エクスペリメンタルなものでフェスティバルをやらないか、とエスパース・キロンという小劇場に呼ばれて『BUTO´85』をやりました。『ツァラトゥストラ』はフランスだけでなく、ドイツ、イタリア、ロンドン、北欧とヨーロッパ全域、イスラエルまで回った。
室伏・談
渡仏にあたって、本作アンコール上演版に大きく手が加えられた改訂版として位置づけられるヴァージョン。2005年には新ヴァージョンも。
(Y.O)