2005
私は自身の限界について知ることができない。その〈わからなさ〉の面前に出て、死体のように無力に、立ちつくすのみである。肉体とは、個別で、切り離されて、〈共有することの不可能なものの共有〉だ。共有しているのは、その〈誰も知らない、わからなさ〉への類推の地帯、その〈切り離し〉、〈エカールecart〉の地帯の分厚さと薄さだということ。
ダンスがとどまるべき、踏みとどまるべき地点、境界、界面、それは肉体の〈わかりやすさ〉と〈わからなさ〉いやむしろ〈わからないもの〉のわかりやすさと言ったほうがよい。
他人の苦痛を自分の苦痛を通して類推はできるが、それは類推というフィルターを媒介にしている。
愛とか、幻想とか、そのためには踊ることができない・・・。
すべて、その前では無益だと知ること。無益なままの有益であること。
室伏鴻 チラシより