舞踏のスペクター的転回と脱創造の方法としての中毒
最近のわたしの、スペクター〔亡霊、specters〕、陶酔/中毒、脱創造に関する研究を共有したく思います。前回、京都で調査中に、安井眞奈美先生に会い、妖怪についての彼女の本を紹介してもらいました。わたしは同時期に、ブラジルのアマゾンでのアーティスト・イン・レジデンスを展開しており、特に先住民医療に関するさまざまな実体を耳にする機会がありました。森の中でも、妖怪が見つかることがあるようなのです。幽霊や精霊、スペクターは、歴史と文化を問わず、口承であれ書かれたものであれ語りにおいて重要な役割を果たしてきました。しかし、別の種類のスペクターがあります。記憶、トラウマ、倫理的・政治的問いを呼び起こすものです。一般に学者は、こうしたスペクターを哲学的・心理学的問題を追求して後から考察します。
しかしわたしはスペクター性の批判的な視座をとおして、踊る身体や動きを考察することを提案したいです。みなさん知っているだろう妖怪の紹介についてのことで恐縮ですが、わたしの研究とわたしが提案する「舞踏のスペクター的転回」、生命と死の境界性(リミナリティ)を扱うためのこれを文脈づけるためには重要なのです。はじめは、土方巽や室伏鴻のことを考えていました、彼らは、いくらか、テキストや振付で幽霊やスペクターについて言及しています。しかし、そのあと、こうしたダンサーがどのように他のアーティストに憑依し続けているかに注目することにしました。これはダンスの技法や美学モデルの伝達/受け渡しではなく、踊る身体を通して隠された問いに向き合う可能性の問題です。一種の「汚染による中毒的伝達」と言えるかもしれません。
では妖怪から始めましょう。
スペクターや幽霊は、異なる文化でいつも存在してきました。多くの場合、神秘的または宗教的実体として認識されていました。ここ日本では、こうした存在にはさまざまな異なる名前がありますが、妖怪として知られています。妖怪はさまざまな形を取り、小さな村、古い街、廃墟の山のあたりの民間伝承やお話に登場します。多くは夕暮れ時に現れ、大きな特徴としては、ある種の境界性になります。つまり、橋やトンネルに取り憑いていて、道の交差するところに住んでいる。妖怪は事実と虚構、信念と疑念の間に棲まっています。興味深いのは、多くの妖怪が言葉の止む領域に現れることです。奇妙な音、墓地に漂う光、暗闇の中でなにかに見られている感覚などです。こうしたスペクターは、精霊、妖精、幻影、悪魔、怪物、幻想的存在、超自然的存在など多様な形を取ります。妖怪は多くの不思議な現象や奇妙な生き物を指すための総称になっています。この文脈で、妖怪は、危険、不確実性、脅威として訳すこともできるでしょう。
20世紀前半、民俗学者の柳田國男(1875–1962)は、妖怪について学術的に論じました。妖怪研究のもう一人の著名な専門家、小松和彦(1947-)は、こうしたスペクターは常に「アウトサイダー」であり、出来事(イベント)、現前(プレゼンス)、あるいはもの(オブジェ)として理解できると指摘しています。ここでいう「出来事」とは、人が感覚を通じて奇妙で、不思議で、異様なものを体験することを指します。そして、その体験には五感のいずれかが関与する可能性がありますが、大半は目や耳を通して知覚されます。第二の領域は「現前(プレゼンス)」です。長らく日本文化に根付いてきた一般的なアニミズム的世界観の中では、すべてのものが「魂(たま)」を持つだけでなく、霊、精霊を具現化することもあります。そのため、霊は怒ったり悲しんだり、感謝したり喜んだりすることができます。小松によれば、自然現象のほとんどは、天狗のようにごく限られた妖怪を原因とされていました。そして第三は「物(オブジェクト)」です。これは「形象」「イメージ」「彫刻されたもの」と訳すことができます。イメージを作り出す創造性によって、妖怪の数は大幅に増加しました。まず巻物や絵画、浮世絵、文学などのメディアで増え、明治以降は映画を含む技術的な装置にも広がりました。
安井先生は独自のアプローチを持っており、妖怪と身体の構造との関係について論じています。あらゆる種類の病気は、邪悪な霊や妖怪が身体に入り込むことによって引き起こされると信じられていました。歴史家の黒田日出男(1943-)や栗山茂久(1954-)によると、日本中世の初期形成期まで広く信じられていた民間信仰では、皮膚の孔が病気の主要な侵入経路と見なされていました。しかし、安井先生は特に女性の身体や女性特有の疾患に関心を持っています。彼女はまた、古くから日本にある「古絵馬」や「絵馬」についても研究しています。これはブラジルのエクス・ヴォト(ex-voto)に似たものです。人びとが病気になったりケガをしたりしたとき、民間信仰の習慣として、体の患部を小さな木の板に描き、神社に奉納して治癒を願いました。また、寺院にはお守りも存在していました。妖怪は常に人間の体に入り込んだり出たりすることができる。安井先生は、『大辞林』によって整理された四つの主要な部位、すなわち頭、胴体、手、足を特定しました。耳、鼻、口、膣、肛門もよく挙げられる部位です。体の内部を表現する方法にはいくつかの異なる手法がありました。別のソースは文学です。ラフカディオ・ハーン(1850–1904)は『怪談』(1904)を著し、1964年に小林正樹監督が映画化しました。収録された物語は「黒髪」「雪女」「耳なし芳一」「茶碗の中」です。東京と第二次世界大戦もまた、幽霊の出る映画作品の参考として残っています。大島渚は『新宿泥棒日記』のために、新宿の街頭で実験的なパフォーマンスを撮影しました。また、松本俊夫は『薔薇の葬列』のために、新宿の性の地下世界を撮影しました。一部の舞踏ダンサーは幽霊やスペクターに関心を持ちました。土方巽は数え切れないほど死者を踊り、死者を語り、そして踊る身体としての死体を提案しましたダンスだけでなく、フィルムと写真でも、彼は他のパートナー(ドナルド・リチー、細江英公など)と創作をし、スペクターの問いはいつも現前しているように見えます。アーティストと観客に取り憑いているのです。土方巽は、ドナルド・リチーとのコラボレーションで、身体形象やその環境を通じて死の切迫性についても議論していました。この写真は、1959年にドナルド・リチー(1924-2013)が監督し、土方巽が出演した『犠牲』のものです。また、1962年にドナルド・リチーが監督し、土方とコラボした『戦争ごっこ』もあります。1969年には、土方は石井輝男と共に、『恐怖奇形人間』に取り組みました。この作品は江戸川乱歩の書いた本に基づいています。スティーブン・バーバーは、土方の幽霊に関する研究を行い、彼の映画に焦点を当てています。
では、「スペクター的転回」とは何でしょうか。哲学において、スペクター的転回とは、ジャック・デリダの著書『マルクスの亡霊たち(Specters of Marx)』、1993年出版を指します。この著作は、新たな研究領域の出現を示す契機と考えられており、過去数十年にわたって、亡霊性(スペクトラリティ)についての批評的視座を代表しています。幽霊や憑依現象に対する批評的知覚が変化したのは、人類の文化や想像力に取り憑いてきたいくつかの危機を認識するようになったことにあります。例えば、原子力災害、奴隷制、ホロコースト、環境破壊など、決して解決されないトラウマの痕跡に関連する幽霊的問題です。今日でいえば、ガザと言いましょう。
わたしがみなさんと共有したいのは、舞踏もまた、このスペクター的転回とコラボレーションしてきたということです。土方や室伏が幽霊についていくらか語ったことはありますが、彼らのダンスにおける議論は超越的ではなく、むしろ内在的であり、つまり踊る身体をとおして幽霊的な/憑依的な問題に可視性を与える、より政治的な経験であったと言えます。
舞踏の進化のプロセスにおいて、これは重要な痕跡であり、大野一雄に触発された神秘的表象だけではないと感じます。幽霊的な/憑依的な問題は、必ずしも言説としてではなく、動きを通じて表現されるだろう隠された知の体系として理解することができます。スペクターは比喩としても捉えることができ、マイケル・タウシグ(1940-)が提案したように、死後の何か、すなわち意味作用の死の空間としても理解できます。これは身体的な動きによって表現され、必ずしも言語による表現を必要としません。「ワイルドネス(野生性)」もまた、意味の死や、身体的過剰さや逸脱による秩序の破壊を示す言葉として登場します。ジャック・ハルバースタムやホセ・ムニョスによれば、ワイルドネスは「未知の精神」と理解でき、先住民の文脈に「属する」精神ではなく、他者によって異なる目的で奪われるものでもありません。むしろ、資本とカオス、特権と闘争、神話と反神話の出会いの中で生まれる知覚と不知覚の空間や方法を表しています。ワイルドネスは刻印の欠如ではなく、不在や喪失、死の証拠としてしるし=マークを求める刻印です。スペクターのように、ワイルドネスは未知へのアクセスを可能にします。そして、そこにいることを選んだアーティストは、自らのリスクでこの亡霊的なコンディションに入ることになります。
この状況に向き合うためには、ある種の「陶酔/中毒」を経験する必要があります。この文脈において、陶酔は化学兵器や金属(たとえば水銀)であり、メル・チェンが提唱しているように、アンラーニング(学び直し)の手法でもあります。毒素は常に身体状態を変化させ、身体に侵入し、汚染します。毒素の作用にはアプリオリな計画はなく、わたしたちは自分が誰であったかを学び直し、別の方法で動き、考え、感じる必要を迫られます。したがって、陶酔/中毒をアンラーニングや「脱創造」の方法として扱うことは、新しい動き、特に微細な動きや見えない動きを試みる戦略となります。
わたしは水銀や他の金属について考えます。金属を感覚として捉え、水銀の影響によって生じた障害者、クリップ・ボディを通じて、身体を未知の現実に開くことで新たな知覚方法を発見する学び直しの方法です。また、室伏鴻の『Quick Silver』も思い起こします。未知の現実に身体を開くことには挑戦があります。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユにとって、脱創造とはエゴと統御を自発的に停止させ、自己を超えた何かに受容的になることを意味しました。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはこれをさらに発展させ、脱創造をシステムの非活性化として捉えました。これはシステムを廃止するのではなく、その潜在可能性を明らかにする行為です。多くの意味で、舞踏は脱創造の道を示してきたと言えます。身体を通して見えないものを明らかにし、陶酔を媒介としてコミュニケーションを試みる、つまり身体を汚染し影響を与える金属のようなものです。そのためには、可視・不可視の物質性に向き合うことが重要です。
ここで、日系ブラジル人の二人の振付家の例を紹介します。ベアトリス・サノは、音と動きの物質性を考え、リズムの変容の可能性を体験しました。それはメロディーと歌詞のない歌です。一方、エドゥアルド・フクシマは別の道を試み、死の切迫性に向き合いました。この作品は『To Fall』と呼ばれています。
ご覧ください。
参考リンク
Funeral das Rosas, Toshio Matsumoto, 1969
https://mubi.com/pt/br/films/funeral-parade-of-roses
Navel and A Bomb, Hosoe Eikoh
https://youtu.be/DlgAqjzT3JE?si=KDYyKikc8M-NIPLl
Hosotan
https://youtu.be/ks8bCtAyRUY?si=U3NnxWrwclc2Cgl3
War Games, from Donald Richie
https://youtu.be/NdsRigD7jAU?si=EG1cMDvtBZ9B65v7
Horrors of Malformed Men (1969)
https://youtu.be/-NQYiNPnHQQ?si=3HYE0G3XI7T4bVdQ
Interview with Imamura Shohei
https://youtu.be/lFr3V2S8avE?si=FF0jv_lhkY3W8tBL
Interview with Masahiro Shinoda
https://youtu.be/kmfIFm8qtqo?si=ESMPoJ7qod2hfSc0
Yoshida Yoshihige, Good for nothing
https://youtu.be/yiByEqmSs6E?si=CSIBgjcMGyrtpSWF
Kwaidan, from Masaki Kobayashi
https://www.imdb.com/title/tt0058279/
Diary of a Shinjuku Thief, from Nagisa Oshima
https://mubi.com/pt/br/films/diary-of-a-shinjuku-thief
Infomation
日時
11月9日(日)17:00〜
会場
Shy室伏鴻アーカイブShy
Profile

クリスティーネ・グレイナーChristine Greiner
サンパウロ・カトリック大学で博士課程終了後、近畿大学、国際日本文化研究センター(日文研)、立教大学、東京大学、ニューヨーク大学などの招聘を受けて研究を行う。2010年よりCNPqのシニア研究員。現在はサンパウロ・カトリック大学身体言語科教授として、同大学東洋研究センターやボディー・リーディングシリーズなど多くのプロジェクトや研究機関のディレクターを務める。