Shy

1981

from Invitation

福井に舞踏の拠点劇場・北龍峡を1976年夏ひらいて、舞踏派・背火を主宰し一方アリアドーネの會のプロデュース・演出も手掛けてきた室伏鴻が、80年よりlotus CABARET’80sとして展開してきた舞踏活動の場をパリを中心として1年間欧州に置くことになりました。背火・アリアドーネの會にとって78年の「DERNIER EDEN」について二度目の欧州公演となります。

今秋、10月下旬には日本を離れ既に、アリアドーネの會「ZARATHUSTRA」のベルギー・ブリュッセル公演、同じくフランス・ボルドー/リヨン/コルマール公演、そして12月にパリ・ポンピドー・センターで6日間舞踏派背火「常闇形/木乃伊」、アリアドーネの會「SARATHUSTRA」のスケジュールが決まっています。さて、欧州遠征に先きがけ室伏の木乃伊/常闇形は、自ら柩に入る所作をもって都心にLOTUSの根を掘る意味も込めて東京・南青山に「Shy」なる棺室/酒場をひらきました。かって[墓場が見えます・・・・・・居酒屋]という詩のフレーズが世紀末にフランスの詩人によってはかれましたが、Shyは青山墓地下につづくキラー通りの地下B1の墓場・酒場そして劇場として室伏の思い込みのなかでは多分、福井山中の北龍峡から彼の木乃伊の巡幸するアジア・アフリカ・欧州各地に抜ける冥界歴程への入口/出口であり、神曲の耳鳴りするバーということになります。

Shyが東京というマンモスの足裏で静かにネアンのネオンにひたれる珍奇な店となることを祈って──Shy!

1981 Tokyo
室伏鴻

Description

地下鉄「外苑前」駅下車、南青山三丁目交差点を青山墓地のほうに折れて、すぐ。重たい鉄の折戸を開けて階段を降りると、すぐに、奥に向けて細長い三角形の頂角をスッと横に切ったような台形の空間。コンクリート打ちっぱなし。漆黒の木製の椅子と、それを集めて上に鉄のテーブルをいくつか置いただけの簡素きわまりない狭小スペース。ジャズバー「ロボネグロ」を手に入れ、改装したそれは、オーナー室伏によって実験的キャバレー「Shy」と名づけられた。普段はバー。のちには貸スペースも兼ね、進取の気性、無軌道、無節操大歓迎のライブスペースとして広く知られるように。パパ・タラフマラ(当時、タラフマラ劇場)が旗揚げ公演を、ヒカシューが別名義でアコースティックのライブを、まだミュージシャンだった町田町蔵(現・町田康)が、近藤等則、梅津和時、片山広明が、石井満隆や飯村隆彦といった60年からの先駆者たちが、その他たくさんのインディーズの雄たちが賑わした中、ヨーロッパに活動の軸足を移したため、結果、室伏の唯一の出演作となったのが本作。完全なソロ。連日別のサブタイトルを冠して催されたが、たとえばスティーブ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」が流れる冒頭30分。前面を和紙で覆った鉄板を背景に白い着物姿で佇む室伏。その頭部は、ある夜はガーゼで、別の夜はそこに葡萄の耳飾りをつけて最後にガーゼを果汁の紫で染め、またラテックスで型を取ったデスマスクで覆われ、と、日によって細部が異なっていた。圧巻はクライマックス。地鳴りのSEで空間がグラグラ揺れる中、消防法なぞ知らぬ存ぜぬで、木乃伊でよく使った棺桶(木箱)の中で火を焚き、燔犠大踏鑑「四季のための二十七晩」第一作「疱瘡譚」中の土方巽のソロ「癩者の踊り」で有名になった「バイレロ」を使っての危険なフィナーレ。それまでで一番近い距離で──何しろ40人も入れば超満員だ──室伏のパフォーマンスに接しえた少数の観客は、とびきり幸運だった。各日のサブ・タイトルは以下の通り。23日「炸─ひび ひびわれる ひのうちどころのない日々」、24日「裂─ひかげの好きなひなたの子・ひなたの好きなひかげの子/CABARETの聖なる種子」、25日「点─梭・菱形に走る常闇形」、26日「NEONあるいはNEANT」、27日「Y・Shy  in/out」。
(Y.O)

本公演を持って日本での活動を休止、フランスに拠点を移す。
 移動スルコト!! Fukui─Aoyama─Parisへ脱ッ

All works

常闇形Ⅶ
「NEONあるいはNEANTの炸・裂──SiLENCEあるいは炸・裂・点」 

常闇形Ⅶ 「NEONあるいはNEANTの炸・裂──SiLENCEあるいは炸・裂・点」 

1981
NEONあるいはNEANTの炸・裂・点 1981