2015
《真夜中のジンスキー》は、2015年フランスのK&AccosieとLa Villetteの共同制作作品として計画された作品である。オーディションを通して選んだダンサーたちとの第一回目の稽古はわずか10日という短いものであったが、彼らと共有した時間が、室伏鴻から若いダンサーへの最後の贈りものであり、また 振付を楽しみにしていた室伏鴻にとっても美しい想い出となったことを祈る。
(K.W)
真夜中は正午なのだ
0=Nothingは
ニヒリズム──すべての意味はないけれど
それは、すべての変革の、結節点
Terminal Pointすべての折れ曲がり
踏み外し Faux Pas
彷徨 Errance の即ち
偶然性 Contingenecyと 不意の出来事
〈不意打ち〉のAccident即ち 出会い=meetingという出来事 eventsの偶然
Accident-contingenecy by chance の
外が内部へ侵入し、屈折させる
生成=becomming=deverseの<力>とは絶えざる 新生児
幼児への回帰である──と幼児とは何か?
未だ人間でない無垢の力
超・人の〈意志―力〉とニーチェは言うだろう。そして マラルメの〈真夜中〉
〈零時〉とは・・・・詩の不可能性
死の永遠とは
絶対的に到達不可能な〈死体〉のことだ
とすれば
〈死体〉となったコトバ
〈死体〉となったカラダが
レッスンされねばならぬ〈レッスン不可能なもの〉について
いかに レッスンできるか?!とりあえず「死んでみることだ」
とりあえず 死体を装うこと
それがひとつの演技であり
ひとつの擬態であり
ミミックであり
表現であるとき、
それを抹殺する力によって
死体の擬態=装い=表現を超えねばならぬ!!それは、演技ではない。
ただ、フィジカルな、物理的、物質的な
〈行為〉=〈エクスペリエンス〉=経験の直接性/特異性の露呈である。
つまり、エクスタシー
トランス
超越をいかに超えるかトランスはなぜ起こる
ニジンスキーにあったトランス
狂気は感染するケイレンだならばそれを〈技術化して〉統制可能なものへと
格下げ、俗化しなければならぬ
それは〈距離化〉、〈批評化〉の作業ではないのか?!positionはpositionだ
無イミとイミの間で
宙吊りの、批評的な、抵抗する、
宙吊りにされた、〈もはや超越しない、複数の神々=もはや神ではない〉を生きることだ。Living dead
〈生きている死体〉とは この事なのだ。
室伏鴻 メモより