ロンドンにおける室伏鴻──アントナン・アルトーの遺作と反抗する身体性を探る
今年7月にウィーンで開催された室伏鴻を記念したイベント、そして今回カフェ・シャイでのプレゼンテーションにご招待くださった渡辺喜美子さんに深く感謝申し上げます。
今から20年以上前の2004年3月、ロンドンで三夜にわたり室伏鴻さんとお会いし、対話したことについてお話をさせていただきます。
この対話では、フランスの芸術家であり理論家でもあるアントナン・アルトーの作品に対する私たちの共通の関心、室伏鴻氏自身の作品、そして1960年代末の土方巽との交流、特に室伏が、1970年の大阪万博で土方巽のソロパフォーマンスを目撃したことに焦点が当てられました。そして後に、私はこのパフォーマンスを、大阪の万博アーカイブで調査することになりました。
私はこれらロンドンでの対話を、音声録音ではなく、手書きのノート複数冊にまとめました。というのも、三夜にわたる会合は、ロンドンの、ザ・カットという通りにある騒がしいアルメニア料理レストラン「タス」で行われたからです。そのレストランは、室伏鴻が1週間のワークショップを行っていた場所のすぐ近くにありました。
今年7月、私はウィーンのオデオン・シアターで開催された室伏鴻シンポジウムのために、20年ぶりにそのノートを探し出しました。その内容は、非常に示唆に富んだ、ユニークなものでした。ノートには、室伏鴻がアルトーの作品について私に語った言葉を書き留めていたのですが、それは断片的な形で、短い対話や考察の断片として記録されていました。また、翻訳自体が重要な要素でもありました。というのも、私は日本語が話せないため、室伏鴻はアルトーの作品についての考えを、話しながら日本語から英語へ、直接翻訳しなければならなかったからです。
この翻訳という要素は、これらの対話を将来どのように出版するかという点においても、極めて重要です。というのも、ベルリンを拠点とする出版社ディアファネスは、2026年から室伏鴻の作品に関する、それぞれ約100ページの英語の短い書籍を5~6冊、順次出版する予定だからです。渡辺喜美子がプロデュースする最初の書籍は、『Fierce Unworking(NYD)』と題され、日本ですでに出版されている、室伏鴻のノートや日記の内容を編集した『室伏鴻集成』から再編集されます。私の著書は英語版シリーズの第2巻となり、ロンドンで室伏鴻氏と行ったアルトー作品に関する対話、特に1947年から48年にかけてのアルトー最後のラジオ作品『神の裁きと決別するため』に焦点を当てます。この作品の最終章では、ダンスの本質の再発見が論じられており、「器官なき身体(corps sans organes)」――という有名な表現が喚起されています。また、ロミナ・アハツ氏も、室伏鴻との対話とカフェ・シャイでの広範な調査とを基に、このシリーズに新たな一冊を寄稿する予定です。近々刊行されるこれら英語版の小冊子シリーズの目的は、ヨーロッパにおける室伏鴻の作品への理解を深め、新たな対話と研究の糸口となることです。
そこで今回のプレゼンテーションでは、まず、室伏鴻とロンドンとの関わりが、彼にとってどの様にして重要な拠点となったのか、つまり、2001年から2015年にかけて、ヨーロッパやメキシコといった国々を旅していた振付家が、どの様にしてロンドンで頻繁にパフォーマンスやワークショップを行うようになったのかについてお話しし、次に、2004年、三夜に亘って行なわれた会談についてお話しします。この会談は、私が室伏鴻と行った唯一の濃密な対話であり、それ以外では、彼が亡くなる前年の2014年、ベルリンのトレップタワー・パークでパフォーマンスを行った時のように、ごく短い時間しか話したことがありません。先程申し上げたように、三夜に亘る対話は、彼が若きダンサーとして土方巽と仕事をしていた頃の思い出から始まり、その後、アルトーの作品に焦点を当てた対話へと移行していきました。
三番目に、1990年代初頭にパリで行ったアルトー作品に関する私自身の調査について簡単にお話しします。当時、私はアルトーの他の作品要素と並んで、室伏鴻が私たちの対話の中で、特に関心を寄せていたと思われるあのラジオ作品を調査しました。パリでの調査の間、私はあのラジオ作品の共同制作者数名と作品のプロデューサーにも会いました。
そして最後に、室伏鴻と私が、アルトーの作品、特にラジオ作品『神の裁きと決別するため』の要素について議論した点に、焦点を当てたいと思います。この作品は、人間の解剖学的構造を変容させるような、再発明されたダンス形式の創造を要求し、アルトーを1937年から1946年にかけて9年間監禁した社会的・精神医学的実体や権力に対して「償い」を要求しています。
2004年、ロンドンで室伏鴻と対話した当時、私はこれらの出会いを本にまとめるつもりは全くありませんでした。ですから、私のノートに記された手書きの痕跡は、脆く、断片的で、儚いものなのです。しかし、もしかしたら、そうした痕跡こそが、ダンスの本質と解剖学的な再構成を想起させる、理想的な記憶の媒体となるのかもしれません。
さて、ここにいらっしゃる皆様は、室伏鴻が放浪する振付家であり、パリでの長期滞在を含め、常に旅を続けていたことをご存じでしょう。そして、2015年にメキシコシティで亡くなったのも、まさにその旅のさなかでした。ですから、こうした絶え間ない旅が、室伏鴻の作品にとって極めて重要な要素であったことは間違いありません。 7月にウィーンで開催された室伏鴻シンポジウムでは、室伏鴻の旅を企画・推進した多くの研究者や振付家たちに出会いました。例えば、彼を何度もイタリアに招待したカティア・チェントンツェや、ブダペスト、ウィーン、その他の都市に招いた人々などです。こうした旅の成果の一つとして、室伏鴻が数々の都市で行ったパフォーマンスを収録した映像作品が、ここカフェ・シャイにアーカイブされています。もう一つの成果として、室伏鴻の日記やノートには、彼が訪れた都市について綴られた断片が数多く残されており、そこには、しばしば現在進行中の読書として、マラルメ、ニーチェ、ブランショ、ドゥルーズといった作家や哲学者の著作が、直接的に引用されています。
しかし、ここではロンドンに焦点を当てます。なぜなら、ロンドンは室伏鴻の旅の目的地として頻繁に利用され、私たちの対話もそこで行われたからです。
今年7月、2001年から2015年にかけて、室伏鴻を何度もロンドンに招聘した人物にロンドンで会い、当時の思い出を語ってもらいました。マリー=ガブリエル・ロティという方です。当時、彼女自身もダンサーとして舞踏に取り組んでいましたが、現在はダンスを辞め、長編映画の振付家として活躍しています。例えば、2024年に公開されたロバート・エガース監督の映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』では、室伏鴻との豊富なコラボレーションを直接的に活かした振付を手掛けています。そして現在、同じくロバート・エガース監督と共同で『狼男』という映画を振付中です。室伏鴻との共同作品を長編映画という媒体に直接伝達することについて、マリー=ガブリエル・ロティは「動物と人間の変容を描いた室伏鴻の作品は伝説的で、他に類を見ないものです。」と語ります。
さて、マリー=ガブリエルが室伏鴻を何度もロンドンに招いた経緯を簡単に説明しましょう。彼女はこう語ります。「室伏鴻と出会ったのは2001年、彼が私の団体「Butoh UK」の講師として初めて来た時でした。これがきっかけで、私たちの間にはクリエイティブな関係とプロデューサーとしての関係が生まれ、それは彼が亡くなるまで続きました。ロンドンのプレイス・シアターでの初演は2003年で、劇場のディレクターは私が劇場を二晩貸し切るのは(大きな)リスクを冒していると確信していました。私は会場費をクレジットカードで支払いました。結局、両夜とも完売し、つまり、私は間違いなくお金を取り戻したのです!私たちはブリストル(イングランド西部の都市)のコルストン・スクールにもツアーに行きました。 12歳から16歳までの若い観客たちが、室伏鴻にすっかり魅了されていた様子を、私は決して忘れません。特に、彼のエネルギーの力が身体的な存在感を変容させる力に。ある小学生が言ったように、室伏鴻の足は本当に魔法のようで、触覚的で感覚的でした。私が室伏鴻に最後に会ったのは2015年5月でした。それは、ロンドンのテート・モダンで、彼が、ボリス・シャルマッツのイベントで即興パフォーマンスを披露していた時のことでした。彼は私に「死に直面している」と言いました。私はそれを比喩的なレベルで受け止めましたが、でもこの時、彼の身体が動こうとする苦しみはあまりにもリアルに感じられました。彼は自分の死期が近いことを自覚していたのか、その数週間後に亡くなりました。2014年、ロンドンのベスナル・グリーン地区にある仏教芸術センターで、私が彼のためにプロデュースした最後のワークショップでは、彼を長い喫煙の休憩から、無理やり引きずり出さなければなりませんでした。そのワークショップで、彼は舞踏と指導について真の危機に瀕しているように見えました。彼は何度もこう言いました。「私は舞踏ではない」「舞踏は死んだ」「私はもう舞踏家ではない」。20人ほどの熱心な参加者でいっぱいの会場で、彼を説得して教えてもらうのは、辛くもあり、また滑稽でもありました。…そして今、ついに私は鴻の記憶を幽霊のように背負っているのです。」(これがマリー=ガブリエル・ロティが最後に言った言葉です。)マリー=ガブリエル・ロティが室伏鴻のロンドン訪問について記した記述から私が得たのは、ロンドンでは若いダンサーたちが彼のワークショップに熱心に参加していたこと、そして彼のロンドン公演には多くの観客が集まっていたということです。私自身もプレイス・シアターという非常に大きなホールで行われた2回の公演を観ましたが、そこでの室伏鴻の作品に対する反応は、極めて強烈な集中力と深い感謝の念に満ちていました。
さて、次に室伏鴻が1960年代末のある時期、土方巽の協力者、あるいは付人として活動していた頃について語ってくれたことを少しお話ししたいと思います。当時、室伏鴻は22歳くらいでした。彼は初めて目黒区にあるアスベスト館の土方を訪ね、ダンサーとして土方のもとで修行させてもらえないかと尋ねました。ところが、土方はすぐに室伏鴻に「他の仕事」をする準備ができているか尋ねたのです。そして、エロティックでグロテスクなホラー映画で共演し、また、キャバレー公演にも出演しました。室伏鴻は、1970年の大阪万博のペプシコーラ館で、土方の一回きりのライブパフォーマンスを目撃したことも話してくれました。2004年に、ロンドンで室伏鴻から1960年代末の土方との映画での共演について聞くまで、私はこのことを全く知りませんでした。私が知っていたのは、土方の未亡人である元藤燁子さんが、彼のキャバレーや映画の「マネージャー」としての役割について、以前私に話してくれたことくらいです。しかしその後、慶応義塾大学アート・センター土方アーカイブの所長とスタッフのおかげで、室伏鴻が出演した当時の映画をすべて見る機会に恵まれ、大阪の万博研究センターも訪れることができました。土方巽のパフォーマンスに関する記録はほとんど残っていないため、室伏鴻の目撃証言は貴重なものだったようです。
さて、土方巽のソロパフォーマンスは、万博開幕直前の1970年3月11日の夜、ペプシコーラ館の‘プレビュー’イベントとして行われました。室伏鴻は、観客の体が反転して映る、全面が箔張りの鏡で覆われた客席の脇からパフォーマンスを観たこと、特に、パフォーマンスを観る間、背骨をパビリオンの壁にしっかりと押し付けていたと具体的に話してくれました。
1970年の大阪万博で行われた土方巽のパフォーマンスについて、室伏鴻から聞いた話に大変興味をそそられ、もっと詳しく知りたくなりました。しかし、それが実現したのは14年後の2018年、土方アーカイブのディレクターである小菅さんと森下さんのご厚意で、当時は研究者には公開されていなかった「万博アーカイブ・リサーチセンター」を訪問する機会を得られた時です。2018年のことなので、室伏鴻が2015年に亡くなった後であり、室伏さんとこのことについて話す機会はありませんでした。しかし、土方の仕事という広い文脈の中で、このパフォーマンスは非常に異例なものと思われるので、ここで簡単にお話ししたいと思います。この研究成果は、2019年に出版した土方と映画製作者たちのコラボレーションに関する本に収録しました。土方は、大阪万博の別のパビリオンであるみどり館で上映された映画にも出演していました。その映画は1969年に北海道の火山で撮影され、約800万人の観客に向けて上映されました。そして、そのフィルムは今も、劣化した状態で、ここ東京の土方アーカイブに保管されています。しかし、私は室伏鴻とは映画についてではなく、ペプシ館での土方のライブパフォーマンスについてのみ話したので、この本では、室伏鴻氏から聞いた話、建築家の磯崎新氏を含む他の方との対話、そして私が大阪万博アーカイブを訪れた際に見たものを組み合わせました。また、ペプシ館内部の目撃証言も得ました。例えば、パフォーマンス史家の内野儀氏は、12歳の時に修学旅行でペプシ館を訪れたとのことです。
博覧会には、国内外から多くの著名なアーティストが参加したのですが、これは、報酬が高額だったことも一因です。しかし、ペプシ館自体は、土方の映画作品が上映されたみどり館と共に、各国館が並ぶ博覧会のメイン会場には位置していませんでした。万博のパビリオンのほとんどは巨大な「ドーム」構造で、そのほとんどは、この研究のために私がインタビューした若きイタリア人建築家ダンテ・ビニが設計したモデルを使用していました。ペプシ館は、メイン会場の別館「エキスポランド」に位置していました。多くの来場者はこの別館には入らなかったため、来場者を引き付けるために、パビリオンは非常に壮観でなければなりませんでした。ペプシ館は、当時ニューヨークを拠点としExperiments in Art and Technology (E.A.T.)として知られていた著名な芸術家グループによって設計されました。
博覧会の公式報告書には、土方巽がパフォーマンスを行った空間環境について、次のように記されています。「ドーム内部は、ポリエステルとコーティングの間に挟まれた真空蒸着アルミニウム箔の鏡で構成されていた…/9台のポンプに接続された約2,500個のジェットスプレーノズルが外側の稜線に沿って対称に配置され、人工の霧を絶えず発生させていた。/人工の霧は建物の上に浮かぶ雲となり、キセノンランプから放たれる白い光線に照らされると、夜には幻想的な雰囲気を醸し出した。/来場者が入口からトンネル状の階段を下りてパビリオン内部に入ると、銀色のスーツを着たホステスから小さな受話器が一人一人に渡された。/その受話器は、来場者を新たな体験の世界へと導くために使われた。」そして、この外部の水霧環境は著名な芸術家、中谷芙二子によって創り出され、パビリオン内部の音響環境は音楽家、デヴィッド・チューダーによって制作されたのです。
このパビリオンとそのイベント・プログラムは、ペプシコーラ社が企業芸術政策の推進を目的として、完全に営利目的で立ち上げたものでした。これは、土方のパフォーマンスの3日後、ペプシコーラ社の社長であるドナルド・ケンドールがパビリオンの公式開館式で行ったスピーチからも明らかです。ケンドールは、「ペプシコーラ・パビリオンは、企業による芸術への新たな参加の先駆けとなると確信しています。」と宣言しました。
つまり、土方のパフォーマンスは、ペプシ・パビリオンのプレビュー・イベントであり、パビリオンの開館式典のために大阪に到着した、国際的な企業幹部を含む招待客を対象としたものであり、一般公開を意図したものではなかったのです。私の知る限り、映像撮影や写真撮影は行われておらず、もし行われていたとしても、それらの資料は現在失われています。室伏鴻氏から聞いたところによると、「土方氏のソロ・パフォーマンスは30分間続き、「アダージョ」というタイトルで発表された。土方巽の身体が吊り下げられた金属板に頻繁に衝突する演出は、以前の彼の名演を彷彿とさせた。ドームの頂上からは、フックにかけられた古びた婚礼衣装がぶら下がっていて、葬送歌、雷鳴、カラスの鳴き声といった大音量の音は、パビリオンの周囲に不協和音を生み出し、音量をさらに増幅させる役割を果たした。」ということです。
室伏鴻は、ペプシコーラ社のパフォーマンスに対する反応について、私に何も語りませんでしたが、反応が否定的だったことは明らかです。なぜなら彼らは、寺山修司の作品や土方による多くのパフォーマンスなど、ペプシ・パビリオンの6ヶ月間の会期中に予定されていたすべてのイベントプログラムをキャンセルしたからです。その代わりに、彼らはパフォーマンスを「ゴーゴーダンス」と「野外ロックダンス」のセッションに置き換えたのです。室伏鴻が見届けた土方の大阪万博への直接参加は成功しなかったものの、実験的な映画投影を用いたみどり館での土方の映画参加は、対照的に大成功を収めました。
次に、1940年代末のアルトーのラジオ作品に関する、パリでの私の研究についてお話しし、その後、ロンドンで室伏鴻と行った議論に、焦点を当てたいと思います。
アルトーのラジオ・プロジェクト「神の裁きと決別するため」は完成し、放送される準備が整っていましたが、フランス国営ラジオ局の検閲を受け、結局当初想定されていた100万人の聴衆に向けて放送されることはありませんでした。以下はその抜粋です。アルトーが叫び声を上げたり、打楽器の音を奏でたりしているのが聞こえます。
1990年代前半のパリでの5年間の研究を通して、私はアルトーの協力者たちの多くと話をすることができました。彼らは1940年代にアルトーと仕事をしていて、当時はまだ20代と若かったのです。その中には、先ほど触れたラジオ作品でアルトーと共演した3人のうちの2人、ポール・テヴナンとマリア・カサレスも含まれています。(もう1人のロジェ・ブランは、当時既に亡くなっていました。)また、アルトーの精神科医であり、ロデーズの精神病院の院長で、アルトーに何度も電気ショック療法を施したガストン・フェルディエールにも何度も会いました。この精神科医は、アルトーのラジオ作品の中で非難され、攻撃されています。パリでは、クリス・マルケルやジャン・ボードリヤールといった、アルトーの作品に心を奪われ、直接交流のあった多くの芸術家や哲学者にも出会いました。
その後、2006年には、パリの国立図書館であるビブリオテーク・ナショナルで丸一年を過ごし、400冊を超えるカイエと呼ばれる手稿ノートを読みました。アルトーは晩年、これらの手稿ノートを主な制作媒体として用いていました。そして、それはある意味で、ここカフェ・シャイに収蔵されている室伏鴻自身のノートや日記と重なる部分があります。つまり、アルトーは、これらノートに書かれたテキストという形で、ラジオ作品の内容を展開していったのです。
アルトーのラジオ作品に関連して私が取り組んだもう一つの研究は、彼のラジオ作品が検閲されてから、翌月、1948年3月に亡くなるまでのごく短い期間に、彼が新聞記者と行った二つのインタビュー記事を探し出すことでした。
『フィガロ』紙と『コンバ』紙への二つのインタビューで、アルトーは自身のラジオ作品が検閲されたことに激怒しています。彼はこう言っています。「悪名高いラジオ放送が行方不明になった」と。これらのインタビューにおいて、彼はダンスと肉体性の向上、あるいは再発明に焦点を当てており、それは彼のラジオ作品でも強調されています。最初のインタビューで、彼は記者にこう語ります。「私が言いたいのは、私たちは人間についてのある種の概念を失ってしまったということです。…重要なのは人間の身体です。…今、私は自分の思考と精神を破壊したいのです。…何よりも、思考、精神、そして意識を破壊したいのです。私は何も想定したくないし、何も認めたくないし、何にも関与したくないし、何も議論したくないのです。…」
ラジオ作品の検閲に関する新聞インタビューの2回目で、アルトーは言語と身体性の間の緊張、あるいは衝突の領域について考察し、そこに自身のダンス観を位置づけています。2回目のインタビューの最後の言葉はこうです。「長い間、私は規範の枠に収まらないある種の書き方に悩まされてきました。文法の枠を超えて書き、言葉を超えた表現手段を見つけたいと思ってきました。そして時折、自分がそのような表現に非常に近づいていると信じてきました…しかし、あらゆることが私を逆戻りさせています。」
私がパリでアルトーの作品を研究していた1990年代初頭、彼のラジオ作品は一般の人々にとっては、まだ入手しにくいものでした。アルトーの協力者や友人たちは、カセットテープを所持しており、私はラジオ局のアーカイブで、オリジナルの録音そのものを聴くことができました。しかし、それから10、12年後の2004年、私が室伏鴻氏と会った頃には、インターネットメディアの発達によって状況は一変し、ラジオ作品は当時すでに広くアクセス可能となっていました。
この最終発表の部分は、より暫定的で探究的な内容となっています。なぜなら、アルトーのラジオ作品に関する室伏鴻氏との対話はまだ書き起こしておらず、多くの点で謎めいた内容となっているからです。しかし、それは次回行う予定です。そして、私が述べたロンドンにおける室伏鴻氏に関する本書は、願わくば2027年に出版されるでしょう。
さて、私はロンドンで室伏鴻氏とアントナン・アルトーのラジオ作品について話しました。対話を記録したノートから判断すると、彼がロンドンを離れ放浪の旅に出る前の「タス」レストランで行った3日目にして最後の対話の夜、このアルトーのラジオ作品が主な関心事であったようです。室伏鴻は、私が執筆したアルトー研究書『打撃と破砕』(白水社、1995年刊)の日本語訳を読んだようでした。この本は、アルトー晩年の作品と並んで、特にラジオ作品の文脈に焦点を当てています。室伏鴻の日記や、ここカフェ・シャイに保存されている彼の蔵書からも明らかなように、彼はアルトー作品に深く、そして永続的に関わっていました。
アルトーの最後のラジオ作品は、多くの点で「償い」を求める声高な声です。前述の通り、この作品は検閲され放送が禁止されたため、少なくとも予定されていた期間中は、その要求は封じ込められました。では、アルトーは一体どのような「償い」を求めているのでしょうか。まず第一に、彼は明らかに、自身が9年間を過ごしたフランスの精神病院制度の終焉と消滅を求めているのです。そしてそれ以上に、彼は医師に与えられたあらゆる権力の終焉と医師と患者の関係の逆転を要求しました。それに加えて、彼は社会、宗教、そして戦争の終焉も要求しました。彼自身にとって、人生の最終段階における償いの要求は、金銭的なものでもありました。彼はフランス銀行に、巨額の預金がある銀行口座があると妄想して、芸術家のジャン・デュビュッフェをはじめとする友人たちに、その銀行に行って差し押さえられていたアルトーの巨額の金を探し出すよう要求したのです。彼は大量の薬物、特にモルヒネの返還も要求しました。しかし何よりも、彼の「償い」の要求は、人間の身体そのものに向けられていたのです。アルトーは、自分の身体が暗殺者や社会の悪意ある存在から、深刻な脅威にさらされていると感じていました。
しかし、アルトーによる身体の修復は、完全に彼自身によって遂行される身体的な変容となるでしょう。彼は、自分の身体を取り戻すために、誰かに助けを求めているわけではないのです。たとえば、彼のラジオ作品が想定している100万人の聴衆に助けを求めているわけではありません。修復のために、彼は自らの身体を自分の手で奪い返すのです。
そしてその修復の行為はダンスを通して行われるのです。
アルトーは作家、ビジュアルアーティスト、そして演出家でしたが、ダンサーではありませんでした。ダンス公演の演出は一度も行わず、1930年代に、パブリックダンスの公演の照明デザインを手がけたことがあるだけです。しかし、それとは対照的に、彼のラジオ作品の主な焦点は、最後のシークエンスでダンスに特化しているのです。それは、現代の人体解剖学と対立するダンスの再解釈でした。
アルトーのラジオ番組の、特に最後の瞬間において、彼はダンスに焦点を合わせています。ノートをみると、私が室伏鴻氏と話し合った、ダンスに関する特に三つのポイントがあったことが分かりました。
第一に、アルトーは、身体は本来の戦闘態勢、つまり暗殺や抹消に抵抗できる状態に戻るために、後ろ向きに、前後に、反転して踊ることを学ばなければならない、と述べています。では、1950年代末の土方巽の初演から現在に至るまで、舞踏の多くの表現に見られるのは、まさにこの「逆さまの」身体なのでしょうか? 確かに、室伏鴻氏は、この言葉について議論する中で、この言葉に深く関わっているように見えました。室伏鴻のダンスは「逆さまの」ダンスなのでしょうか?
第二に、アルトーは、彼が構想するダンスは、彼自身が言うところの「ダンスホールの熱狂」、具体的にはフランス語で「バル・ミュゼット」の熱狂に似ていると述べています。これは、激しいアコーディオンの音楽と激しいダンスを伴う、非常に独特な形式のダンスホールで、アルトーが、1947年から48年にかけてラジオ録音を行った当時、パリで大流行していました。
室伏鴻はパリに住んでいた経験から、この種のダンスホール、あるいは室伏がパリを拠点としていた1980年代のより現代的な形態のダンスホールに精通していたことは間違いありません。アルトーがバル・ミュゼットについて語るとき、彼は間違いなく、100万人の聴衆、つまりこうした人気のダンスホールで常連のダンサーである多くの人々に直接訴えかけているのです。アルトーはこのラジオ作品について友人に宛てた手紙の中で、この作品を「道路補修工」のような肉体労働者を含む、幅広い聴衆に聴いてもらいたいと明確に述べています。つまり、彼は単なる孤独なダンスではなく、「大衆」によるダンスを構想していたのです。
そして、このラジオ作品について議論する中で、室伏鴻を深く惹きつけたと思われるもう一つの瞬間がありました。
アルトーが、彼が思い描くように踊ることを可能にする人体構造の変容、すなわち「器官なき身体」について語る時、彼はその行為を暴力的あるいは根本的なプロセスを伴うものと捉えています。
そこでアルトーは、人間の身体は踊るために「解剖台」の上に置かれ、作り直される必要があると宣言します。
アルトーの描く身体は、悪意ある神によって最初に不完全に創造され、不完全に作られたものであり、踊るためには、暴力的に作り直され、再発明され、抉り出され、内臓を抜き取られなければならないのです。しかし、その「解剖台」の上で行われる、自己主導的な自律的行為、つまり生と死が同時に存在する空間での自己解剖行為を行うのは、ダンサー自身であり、他の誰でもありません。では、その行為は室伏鴻のダンスへのアプローチとも共鳴するのでしょうか?
私が知りたいのは、私たちは今、あるいは将来、室伏鴻の思考の奥底、そしてダンスにおける彼の身体への集中的な取り組みにたどり着くことができるのかということです。アルトーのラジオ作品への彼の反応は、その奥底への一つの通過点、あるいは入り口に過ぎませんが、それは潜在的に深く直接的なものであるように思えます。
そして、ここで私が提示したことは、先ほども述べたように、非常に暫定的なものであり、私が言及した将来の著書のための進行中の研究です。それは、アルトーと室伏鴻の作品群を、探求的な方法で横断的に考察するものです。
最後に、ごく簡単に、私が2014年にベルリンで室伏鴻のパフォーマンスを最後に見た時のことをお話ししたいと思います。それは、すでに述べたあのパフォーマンスです。彼は土方巽の死をテーマにした屋外パフォーマンスを行いました。その舞台はベルリンのトレップタワーパークにある戦没者慰霊碑の外壁でした。この慰霊碑には、スターリンの文章が刻まれた巨大な花崗岩の建造物と石碑が、1945年4月のベルリン攻撃で命を落としたソ連の若い戦没者たちの広大な墓地の上に設置されています。
室伏鴻は即興パフォーマンスを2回行い、それぞれ約20分行い、その合間には、記念碑脇のベンチに座り、静かにタバコを吸っていました。パフォーマンスの周囲には40人ほどの観客が集まっていましたが、撮影する人は誰もいませんでした。おそらく、観客が室伏鴻の姿に親密な感覚を抱いていたからか、あるいはパフォーマンスに集中し、視覚と感覚を研ぎ澄ませていたからかもしれません。室伏鴻は慰霊碑の花崗岩の縁でパフォーマンスを行いながら、時折、英語で叫び、それは死への近さ、すなわち土方巽の死、地下納骨堂に眠る人々の死、観客の死、そして近い将来訪れる自身の死への近さを想起させました。観客たちは彼の言葉を聞き取ろうとさらに近づき、私もそれを書き留めようとしました。(さもなければ永遠に失われてしまうから)。私が書き留めたのはまさにこれです。「室伏鴻は、自らの死、踊りの中で、すでに亡くなった土方を思い浮かべている。そして彼の踊りは、動くことも、姿を現すこともできない無数の死体、あるいは亡霊、幽霊を投影する。それらの亡霊は、彼自身の踊りを通してのみ、普段は無力な状態から解放され、この空間、ベルリンへと、彼の身体という媒体を通して現れる。彼の身体は、同時にそれらの亡霊に抵抗しつつも、彼らが再びこの世界へと戻るための、ある種の開口部、あるいは開口部としての役割も果たすのだ。」
ご清聴ありがとうございました。
翻訳 K

Profile

スティーブン・バーバーStephen Barber
ロンドン・キングストン大学美術学校教授、作家。アートと映画を教えている。近著にWhite Noise Ballrooms、Into the Wastelandsがある。ほかの著作に、1960年代東京におけると土方巽と映像作家の協働にかんするFilm’s Ghostsがある。