外の体現──ピエル・パオロ・パゾリーニと室伏鴻の交差
わたしのリサーチは二つの軸のあいだを動いています。博士課程では、書き手でありダンサーでもある室伏鴻の作品における「外」の思考に取り組みました。現在は、Reaktion Booksから刊行予定の本のために、詩人でありフィルム・メイカーである、ピエル・パオロ・パゾリーニの政治的身体を検討しています。
この二重の視点は、シンプルですが、生産的な問いへとわたしを導いてくれました。ともに、周縁の身体についてたえまなく考えていたこの二人の芸術家と作家を交差させると、なにが起こるだろうか? きょうは、二人のラディカルなアーティストが、どうやって社会的には拒絶された身体を美学的かつ政治的な反逆の現場へと転じたのかを探りたいと思います。メディウムと文化的なコンテクストには距離がありますが、二人とも周縁にいる人物に惹かれていました。彼らを表象するためではなく、アウトサイダーである条件そのものに身を置くために。ピエル・パオロ・パゾリーニは、ローマの下層プロレタリアート――泥棒、売春婦、生命ある若者(ragazzo di vita)――の身体に聖なるものを捜し出しました。詩人-聖人伝作家の眼差しで撮影することで、パゾリーニは彼らを現代の聖人の地位へと上昇させました。小説、詩、映画の中で、パゾリーニはこうした者たちが体現する失われつつある世界――その方言、身振り、消費主義以前の生命力――を保存するために戦いました。パゾリーニ作品は、彼が「文化的ジェノサイド」と呼んだもの——消費資本主義によってこうした社会的アウトサイダーを抹消すること——を嘆き悲しんでいます。1964年に共産党のリーダー、パルミーロ・トリアッティが亡くなると、パゾリーニのマルクス主義ユートピアへの信仰は崩れ、神話の映画、聖性の映画、最終的には黙示録的絶望の映画へと向かってゆく傾向を深めました。
室伏鴻は、土方巽における社会的反抗の身体化された遺産を受け継ぎました。パゾリーニと土方巽は、どちらも田舎で育ちました。戦争で荒れ果てた社会、戦後の瓦礫の中で育ちました。パゾリーニは電気のないイタリアの田舎で、土方は食糧難の戦後日本で育ちました。北方の、辺境の一帯から、はじめて大都市へと移ると、二人はいずれも、飢餓と軽犯罪の世界での、厳しい貧困状態を生きました。
元藤燁子が言うように、土方は泥棒として生きていました。土方はマニフェスト「刑務所へ」(1960年)において、自分にとってのアイドルであるジャン・ジュネのような刑務所経験がないことへのある種の失望を表明しています。これはまさしく、室伏鴻が受け継いだ、犯罪アウトサイダーの系譜です。土方の、犯罪性と不安定さの生きられた体験は、舞踏の身体的な基盤になりました。
パゾリーニと土方は、たった数年のうちに、モダニティの中へときわめて速く、粗暴で、方向感覚を失わせる跳躍を成し遂げ、それゆえに、実存的に苛まれました。
土方は、ダンサーを「生産ベースの世界における犯罪者」としてとらえました。この犯罪的な芸術の資金繰りのために、室伏はエロティック・キャバレーやファイヤー・ショーで、自分自身の肉体のスペクタクルを売り、土方の実験や自分自身のパフォーマンスの資金を調達しました。
室伏が土方と制作したいくつかの長編映画において、その主題は犯罪性と犯罪集団でした。二人は、グロテスクなホラー映画にも取り組んでいました。土方は、ある島に暮らし、人間をすべて怪物にしたいと望む、孤立したアウトサイダー、マッド・サイエンティストの役を演じています。ここで犯罪的なものや怪物的なものとは、たんなる概念ではなく、映画的な解剖学となっています。
室伏の実践全体は、アウトサイダー性のキュレーションとして見ることができます。1974年から1978年までのあいだ、彼は舞踏新聞『激しい季節』(La saison violente)を編集していました。新聞のタイトルはランボーから取られています。舞踏集団、大駱駝艦の象徴的な集合写真で、室伏はメンバーに、芸術家としてではなく、ヤクザの殺伐とした、形式的な美意識のポーズを取らせました――白シャツに、スーツ、ネクタイを締めた男たち、その手は隠されていて、表情は謎めいている。室伏にとっては、新聞そのものがダンスであり、生成変化の出来事でした。
室伏は排除についての、個人的な分類法に深く取り組みました。鬼、山伏、ダンサー、ジュネの小説の犯罪者、怪物、アセファル、バタイユの無頭の身体などです。これは単なる理論ではありません。彼の実践は、まさに「外」の文学の体現であり、テクストを震える肉体へと変容させるものでした。彼は怪物的で魅惑的な外部性に溶け込もうとしていました。「おぞましくありながら、同時に魅力や誘惑としても働く拒絶である怪物。わたしは拒絶されながら魅惑する怪物になりたいのだ」。
彼らの作品を交差させると、二つのはっきりとした政治的な体現の様式が見えてきます。パゾリーニは、消えゆく聖なる形として歴史的アウトサイダーを記録し、悼みました。室伏は、アウトサイダー性を抵抗のダンスとして実践し、武器としました。 両者ともに、周縁とは単なる排除の場所ではなく、差し迫りつつも内在する変容可能性のテリトリーなのだとわたしたちに思い出させてくれます。そこでは、怪物、聖者、犯罪者、ダンサーが、社会は拒絶する身体において出会うのです。
翻訳 髙山花子
Profile

ロミーナ・アハツRomina Achatz
研究者、エッセイスト、映画製作者、ダンサー、ラジオプロデューサー。身体政治、フェミニスト理論、視覚文化により、疎外された身体的実体、パフォーマンス的実践、非主観化、非人格の美学、等を通して、パフォーマンスと批判理論の交差点にあるテーマに焦点を当てる。室伏鴻のダンスに関する論文で、博士号を取得。