アルトーと耳なし芳一
微妙といった人もいる。
そんなに君は明晰な文章を書くなら、どこか思考不可能なんだよ、って思った人もいるわけです。だけど、それは嘘ではなかったのだと思います。嘘か本当かっていうのは…・判断すればいいんだけど。
ひとつには、一つの病を、奇妙な病を、アルトーが発見した。そしてそれを実に生きている。非常に奇妙な心身の状態、思考の過程、思考の素材そのものが裸になるような、そういう分析をしていると言える。
こういう話をすれば、もうひとつ、アルトーの演劇論というのは、ペストと演劇、演劇とペストというテキストで始まっています。非常に印象的なテキストです。それはなぜかペストについての古文書を引用しながらの歴史的な話から始まり、ペストがいかにカタストロフィックなものか、という話から語り始めるんですけれど、だんだんペストの描写が、ペストはアルトーの時代でも、もうペストが細菌によるものだというような認識はある程度あったはずですけど、彼はウィルスという言葉を使っていますけど、ウィルスというものでは全然ないんだということを、確証をもって言う。これは医学の話ではないのですけれど、ペストの死体を見ると、実は器官はどこも侵されていない、オーガニックなil ne pas・・死者は有機的な器官のレベルでは全く損傷を受けていない、ペストというのは非常にスピリチュアルな、霊的な精神的な病だと、そうすると、ペストも気の病みたいな言い方にも読まれかねないのですが、しかし確実に死に至らしめるまで生命を損なうものだ、ということも言っているわけです。
しかし、あたかもペストで何も起こらないのに、器官にも損傷がないのに、この病でみんな死んでしまう。ペストとはなんだろう、ペストとは演劇である、こういう話になるわけです。
そして演劇をペストとして、我々は実践しなければいけないんだという話になって、これが「残酷劇」というようなテーマに通っていくわけです。
いわばペストという病気が確かに存在して、ペスト菌もあるわけですけども、そのペストをréinventionですねフランス語で、再発明するようなことをしっかりやっている。厳密にやっている。自分の思考の演劇の強いモチーフとして病を考えだすということを。
ですからこれは最初の思考の病というものとペストの病というものは切っても切り離せない関係にあって、結局、アルトーのこの姿勢というものは、ずっと後期まで続いていって、いわば分裂症までが、彼が自ら発明したという、というのはアルトーの分裂症ほど奇妙な分裂症はないとも言えるんですね。というのはあれほど創造的に分裂症の症状そのものを素材にして詩を書き続けて、哲学的な思考を続けて、400ページにまでになるノートを書き続けたという、そんな分裂症者はほとんど例がないように思います。
分裂症になった人は、大体そのまま書けなくなって、文学の世界に帰って来られないということがほとんどなのですが、アルトーは、自分はなぜ病んでいるのかという分析を始めて、それは、やはり歴史的に何か人間は間違って作られているんだ、という思考に突入していって、身体を作り直すというようなことを延々と書き続けていくという時間を送るわけですから、分裂症自体がアルトーによって作り直されたというか、再発明されたという、そういう感じがします。
ですから今日、毒というような言葉も出ましたけど、アルトーと病との関係というものは、非常に面白い、ユニークなものです。
それが、ラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」の中に、よく読むとしっかりと、本当に小さなディーテールですけど、出ているということを言っておきたかったわけです。
今日クリスティーネが幽霊の話を、ユーレイとダンスという話をするということだったので、また、ラフカディオ・ハーンという名前もテキストの中に出ていましたので、このお話をしようと思いました。
皆さんにお渡ししたアルトーのもう一枚のテキスト、ちょっと変なテキストでですね、メーテルリンクのことが、これは4ページくらいの短いテキストですが──タイトルを忘れてしましましたが、全集の中では「哀れな楽士の脅威の冒険」のすぐ前にあるテキストです──紹介します。
このテキストの最後の方をコピーしてきたのですが、「死の中を散歩するその方法を、われわれはすでにもう催眠状態という事実において手に入れているのだ。それはわれわれの内部においてガラスの顔をした下意識を解放し、(無意識という言葉と区別して言っているのかどうかわかりませんけど)…・」というようなことが書かれています。
ここでははっきり「死の中を散歩する」というようなことが出てきて、その左ページの3行目、「麻痺状態によって死が魂を身体から引き離すというのも確かではない。そして想像するのだが、死の中には眠りながらこれは本当に夢なのなのだろうかと苦悩に満ちて自問している人の不安があるのではなかろうか。いだろうか。気を狂わすような。」
死の中には眠りながらこれは本当に夢なのなのだろうかと医者が自問している、そういう不安があるのではないか。
「人間が死の幻覚のめくらめく連発を自由にできないのだったら、基本要素の秩序を転倒させられるなぞ、どうでもよくなるのは明白である。エジプト人は魂を生命の辺境に止めおく言葉と能力を心得ていた。」生命のリミットの辺境に…
こういう いわば死の状況、死体の状況というものを、かなり…これはこれだけ読むとある神秘主義的な、霊的体験とかというようなものを考えさせるので、この時代のアルトーには、アルトーを神秘主義者と思って読んでいる人はたくさんいます。
「ヘリオガバルス」という演劇だってそういうふうに読んできた人もいるし、舞踏の世界でもアルトーをどちらかというとミスティックとして、神秘家として扱って読んで影響を受けた人もいるんですけど、僕はやはり、神秘主義とははっきりと区別したいと思います。アルトーの体験は非常に即物的に、死とは何かと問いながら、生をどういうふうに、非常に即物的に、しかし、死と分たれない生として、別の力の形態として、生に力があって死がそれを抹殺する、無力化するという図式ではない、生と死の親和性というものを厳密に考えようとしたところがあったと思います。
それは、生を非有機化するという問題につながるので、これを言うとドゥルーズの哲学とかが僕の頭のここら辺にはいつもくっついているので、それの説明は今日長くなるのでしませんが、非有機的生と呼べるようなインオーガニックな生の相貌というものを考えるわけですけど、アルトーはやはり神秘主義の、いわゆる非常にイメージ豊かな幻想的な世界というものとは違う形で、生の外、ただしこれは外ではないんです、内部でもあるんです、生の内部の外、決して純粋な外ではない生の内部の外、決して純粋な外ではない、内の外であり、あるいは外の内であるというような、生と死のトポロジーという志向がはっきり見えるわけです。
これはアルトーの初期から、死というものが、詩的テキストの中でどういうふうに書かれているかということをずっと読んでみると、見えてくることではあるのですが、ユーレイ、 亡霊というものは、宗教性、神秘性、あるいはアニミズムということと密接に関わるので、これ自体が決して単純な問題ではないのですが、やはりアルトーが、生きた幽霊、アルトーが生きた、生と死の堺の問題というものが、いかにユニークな形で、しかも非常に本質的な形で境界を問うという形で、
今日はそれだけを問題にしてお話ししようと思いした。
Profile

宇野邦一Kuniichi Uno
フランス文学者・批評家・前立教大学映像身体学科教授。身体論、身体哲学を焦点としながらエセーを書き続けている。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『土方巽』(みすず書房)、『ベケットのほうへ』(五柳書院)、『非有機的生』(講談社)、『パガニスム』(青土社)、訳書にドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』、アルトー『神の裁きと訣別するため』(河出文庫)、ドゥルーズ『フーコー』『襞』『フランシス・ベーコン』、ベケット『モロイ』『どんなふう』(河出書房新社)などがある。