第一部

ドキュメンタリー・オブ・ベケットパーティー──きたるイメージのために

齊藤颯人



1 はじめに

このドキュメンタリーは、サミュエル・ベケットとその周辺について各々が考察し、言葉を交わし、舞台『クワッド』を上演するという一連の「ベケットパーティー」を記録する目的で始まった。

まず初めに、今回ぼくを撮影者として任命してくださった監督の髙山さんは、撮影方法や撮影対象について、かなりの自由を与えてくれ、また、こちらからの提案にも常に話し合いの機会を設けてくれ、そしてよいものがあれば積極的に採用してくださったということを述べておきたい。そのため、この映画の中のカットについて、その撮影の意図をここに記していくことは、誰にもまして撮影者の義務であると考えている。

当初、シャイで行われたトークの撮影は、スペースの問題もあり固定で行われ、二回目以降からは、たくさんの参加者に恵まれたこともあり、より行動範囲を狭め、一脚を用いての手持ちで行われた。また、シャイ以外で行った撮影に関しても、基本的に固定で、必要な場合には動きのあるカットを足していった。
特にトークセッションにおいて、おのずと単調になってしまう撮影環境のなかで、その空間をドキュメンタリー映画として再構成していくことが、より意義のあるものになるような素材を集めなければならないことを意識していた。単に客観性を求めた記録であれば、対象を始めから終わりまで撮影すれば済むからだ。
そもそもドキュメンタリーは、切り取り方や編集の段階で作り手の演出が無意識あるいは意識的に加わり、時には撮影される対象もカメラを前にして演じることさえある、という状況は改めて確認する必要もなく、むしろ、それをいかに逆手に取るかということが課題になっているような印象がある。だから、初めにこの撮影のお話をいただいたときから、常に考えていたのは、単なる記録映像にならぬように、できる限りその場にいた参加者とは異なる視点を見つけ、ドキュメンタリー映像という枠の内と外(切り取った部分だけでなく、その外側の画面に映っていない事情にまで意識を向けさせるようなドキュメンタリーが優れていると考えているから)をどれだけ効果的にみせることができるかということだった。ここでは、その課題に対して行った制作方法を、特に意識していたシーンを挙げながら振り返ってみたいと思う。

2 向こう側からこちら側へ

もちろん、それは第一に記録映像であるべきだ。しかし、単なる記録に終わってはならない。事前構想については、完成した映像にはナレーションが乗るかもしれない、ということだけだった。
そのため、空間から切り抜かれたイメージの断片から、シーケンスとして組み立てていく時に新たな可能性が生まれるように、常に先だって素材を集めていく必要があった。
撮影方法やその対象は、ベケットやクワッドについて語る言葉、交わした会話から生まれるキーワードやそこから派生するイメージに反応する形で決めていった。
例えば、クワッドに印象的な、ライトに照らされて浮かび上がる四角形の舞台は、絵画における額や窓などの枠を想起させる。一方で、四人それぞれは、一連の動きの始まりと終わりには四角形の外の闇にいるということから、髙山さんがトークセッションでも触れていたように、そこには内と外を隔てる境界線など無いようにも見える。
トークの合間、シャイの向かい側の歩道からガラス窓を通して中の様子を撮影することがあった。それは、四角形に切り取られたガラスの向こうで、声のしない人々が何やら動いているイメージが、表層的ではあるがクワッド的なものを感じさせたからだ。先ほどまでガラスの向こうにいた自分が、いまは枠を隔ててこちら側の反対から見ている。その運動は、ガラス窓のあちらとこちらの行き来を意味するだけでなく、ガラスの向こうには奥行きがあることも再確認させてくれた。舞台化されようとしているクワッドの空間と、ガラスを通して見えるイメージの向こうに広がるシャイという立方体の世界が重なり、クワッドパーティの始まりの空間であるシャイで、クワッドの世界へ誘うための象徴的なシーンを撮りたいと思い始めたのはこの時だ。
このシーンは、作中で唯一カメラワークを事前に決めて撮影したシーンであり、ドキュメンタリー的な要素をもたない。つまり「記録」という観点から言えば、必要のないシーンである。さらに言えば、このドキュメンタリーの監督の主観にもとづいたカットであるならまだしも、ひとりの撮影者の主観を発端として「創作」した映像である。それでも、一連の出来事を観察してきたカメラアイが、夢遊病的に作り出した世界観として何か感じていただける「ひらかれた」シーンとなっていることを願う。

3 イメージの少し手前

クワッドⅠの10万年後とされるⅡで、画面はモノクロに変わる。
今回デジタルカメラで撮影するにあたって、撮影前にはグレーカードでホワイトバランスを合わせた。それもあって、グレーといえばどのような色の光の下でも影響されにくく、常に素材の色を統一するための基準となるニュートラルなもの、という印象がある。もちろん、クワッドに登場するグレーは、白から黒の間のグラデーション全体のことであるから、ある一つのグレーの印象を当てはめるわけにはいかない。それでも、Ⅰでは四人を区別していたローブの色をⅡでは白に統一していることからも、このグレーの世界では何かしらの均一化が行われていると考えてよさそうだ。このとき、当時この映像がブラウン管テレビに映し出されていた状況を想像してみたくなる。
つまりそれは、三原色の光の粒が目に見える粗さで組み合わさることでイメージを作り出し、ガラスの向こうに映っているという状況だ。
グレーに均一化された画面は、明るい四つの点が運動するのみで、ただでさえ暗い画面が、より一層黒みを増す。すると、それまでは画面に映し出されていたカラフルな点を追いかけていた目線が、限りなく要素が排除されたイメージの少し手前、つまりテレビ画面そのものの存在に気づきだす。
そこにはそれを見る自分の姿や自分がいる空間が、カラーよりも増して映り込んでいたのではないか。(10万年後の世界?)このように、クワッドという映像作品には、TV放映されることで初めて、映像それ自体には見ることができない曖昧模糊とした別の空間が現れていたのでは。
本作で多く登場する反射のイメージは、こうした想像から生まれた。
窓や、リノリウム、グラスなどに反射するイメージは、映り込んだもとの空間とは全く異なる空間性を持っている。光の当たっている空間が映り込み、光の当たっていない空間は見えなくなってしまう反射したイメージは、見えるものと見えないものの境界線がないグラデーションであり、色彩は反射するガラスやリノリウムの色に依存する。
様々な要素がそぎ落とされ、それでもなお残るイメージは、影よりはよく見えるが、ディテールは闇の中に溶けていく。このように「記録」という絶対的な目的をもつドキュメンタリーでは、本来は出来る限り排除すべきと思われる曖昧な描写を多く取り入れたのは、ディテールが失われていく淡いグラデーションによって、先に述べた、「クワッド」がもつ非境界性と、ドキュメンタリーが潜在的にもつ非境界性を記録映像の中で表現することができないかと考えたからである。

4 イメージ“が”触れることは可能か

編集は髙山さんとの共同で行われる。
まず初めの作業は、ナレーション収録と、収録した音声と映像を合わせる作業である。ぼくにとっては、これまで撮影してきた素材がナレーションという言葉に耐える強度を持っているのかという測定試験でもある。その強度は、イメージが観る者に能動的に触れる力によって決まるのではないか。
映像素材の最終的な処理としては、赤・緑・青・黄という色の要素を感じさせるようなカラーグレーディングと、微細なグレインノイズ、場面に応じて色収差が加えられる。カメラと対象が作り出す画面自体への意識を時折喚起させたいというのが理由のひとつだ。
もう一つの理由は、イメージに質感を持たせることで、クワッドⅠとⅡの切り替わりがもたらす変化を再現することができると考えているからだ。Ⅰのカラー映像から切り替わり、Ⅱで彩度を失ったグレートーンの映像は、光の明暗やちらつき、光の粒子が作り出す質感が強調される。高精細になっていく映像が溢れ、それが当たり前になっていく今こそ、イメージの触覚性のようなものを感じていただけたら幸いだ。

5 おわりに

実のところ、この文章を書いているいま、まだ撮影は終わっていない。
だが、アプローチの仕方に変化があっても、考え方や目指すものは定まっているからこそ、こうして常に未完の言葉として残すことができる。
完成イメージを定めないままスタートするドキュメンタリー制作は、撮影が進むにつれて撮影対象や方法を少しずつ変えていく。そのなかで一貫して意識していることは、記録撮影でありながら、その場で展開されていく出来事の状況説明を超えた何かを記録するということである。
自分の能力にむず痒さを感じながらも、視覚に訴えかけるだけの映像集にならないように、シーンごとの考えにもとづいて素材を撮影していくことができていると思う。
あるディテールに固執し、全体をおろそかにしてしまうリスクを感じながら、それでも常に新しい視点を探そうと動くことができているのは、監督の髙山さんという大船があるからだ。このような刺激的なドキュメンタリー制作に関わらせていただき、感謝でいっぱいだ。

齊藤颯人

青山学院大学総合文化政策学研究科卒業。修士論文はドイツ系アメリカ人女性アーティストのエヴァ・ヘスについて。現在は、イメージに関わる仕事をしながら、身に着けること自体の意味を問うアクセサリーsugaraを制作中。『午前四時のブルーⅣ』(水声社)に寄稿。