この会の主題は『クワッド』ですが、『クワッド』自体について語るのは私の手に余るので、別の話をします。ベケットを撮った写真にはいいものがたくさんあります。被写体がよかったからということもあるでしょう。一人で写っているのもいいですが、ジャコメッティと一緒に撮られた写真も好きです。でも、この場合の被写体とは何なのでしょう。まあ、それはいいとして、後ろを向いたベケットを写した写真があります。とても好きな写真です。男の背中などということが言いたいのではありません。後ろを向いていてもすぐにベケットだとわかるベケットの実存らしきものが感じられます。だけど、それだけでなく、彼の実存はその消滅といつも釣り合っているように見えます。ベケットには現前と消えることが同時に起こっているかのようです。言うまでもなく彼はいまにも立ち去ろうとしています。彼はいつも我々の前から姿を消すのです。これがベケットの特徴です。ベケットは我々に何の関心も示しません。つまりあらゆる点で媚を売らないということでもありますが、このことは皆さんもすぐに同意されるでしょう。小説の登場人物もそうです、例えば、モロイを説得することはできません。
実際にベケットの姿を見たことはないですが、彼の後ろ姿を思い浮かべると、彼の作品からも同じような印象を受けます。つまりベケットの文章と人となりは釣り合っています。このことはそのままベケットの作品の形式と内容という観点に移行させることができると思います。ベケットの身体と釣り合っているのは、内容だけではなく、文体もです。これは古今東西世界中を見渡してもかなり稀なことです。身体らしきものが書いているということにおいて、これによって内容と形式の一致はほぼ完璧なものと化すのです。ベケットは、「ダンテ、ヴィーコ、ジョイス」というエッセイのなかで、内容と形式、つまり内容と文体は一致しなければならないと言っていたように思います。いや、厳密に言うとそうではなかった。ベケット自身の言葉はこうです。「ここでは形式は内容であり、内容は形式である」。イタリック体で強調されていたのは、「である」です。形式は、即内容であり、内容は即形式でなければならない。そして内容と一致した、あるいは内容にほかならない形式は即座に別の形式を生み出します。ベケットを一行一行追っているとそんな感じがします。そのことによって突然そこに現れることになる内容は、今度はその形式と一致しなければなりません。『名づけられないもの』においてそれは顕著です。こんな風にして文章が次々と繰り出されます。これが『モロイ』から始まり何百ページも続くのです。壮観というほかありません。
ついでに言っておけば、まだ漠然とした、ただの萌芽のような考えですが、ベケットと舞踏を結びつけるとしたら以上の点は見逃せないと思います。この一致において生命の最も微細で貧しいもの、かそけきものが現れるように思います。それ自体は「暴力」の一形態だと私は思っているのですが、例えば、動と不動が同じ平面にあるだけでなく、ほとんど同じものとなり、見分けがつかなくなります。それが暴力の一形態であるのは、この身体と文体の一致が読者にある種の沈黙を強いるからです。ところで、仕草の意味が大きくなればなるほど、それは取り返しがつきません。次々と新しい仕草が必要になります。だが仕草とともに何かが言われるとしても、仕草が贖われることはない。仕草もまた瞬時に消えてしまうからです。実際のベケットの手が美しければ美しいほど、そう思えばそう思えるほど、彼の文章は貧しさの核のようなものを示し始めます。何かがもはや拭い去れないくらい削ぎ落とされます。
ところで、文章と身体ということでは、アルトーがすぐに思い浮かびますが、アルトーのケースは少しニュアンスを異とするかもしれません。アルトーの身体は、ご存知のように、振幅や振動、膨張や吸収 激しい断続性や、粉砕をともなっています。アルトーの話はまたの機会に譲るとして、ともあれ、ベケットの文体は身体的に言っても彼自身にそっくりなのです。前々から私にはそういう印象が強くありました。これはどういうことなのか。誰かが内側で書いています。外側にもベケットがいます。誰かがいて、何人もの誰かがいて、同時に内側には誰もいないかもしれない。それとも誰かが書きながらそれを消しているのでしょうか。消しては書き、書いては消している奴がいるのでしょうか。それを外側のベケットがもう一度書いています。しかもそれらは同時に起こっています。そこが他の作家たちと違うところです。ベケットを読むと、「誰が書いているのか」という問いが頭を擡げるだけでなく、いつも不思議な感じがします。誤解を恐れずに言えば、神秘的でさえあります。
写真のなかでこちらに顔を向けたベケットは知的です。しかも鳥を思い出します。一種の猛禽類。しかし眼差しからは穏やかさも感じます。つまり猛禽類それ自体とは少し違います。まだ全部読めていないのですが、今日ご一緒している高山花子さんの新刊は「鳥の歌」についての本なので私の関心と重なるところがあるのですが、小説『モロイ』にもたくさん鳥が出てきます。そして鳥のようなベケットを実際に知っていた人は、彼は美しかったと証言しています。写真を見る限り、私もそんな風に思います。ベケットは痩せているけど、長身だし、それなりに目立ったと思います。強い印象を人に与えたのではないかと想像します。ベケットを知っていた人の証言によると、彼がカフェにやって来ると、誰もがそれがベケットだとわかっていても、ベケットの孤独の邪魔する人はいなかったそうです。観光客などが話しかけようとすると、カフェのギャルソンがそれを静止したそうです。私も彼に会ってみたかった。いや、実際には会わなくてもいい。話しはしないでおく。彼の住まいの近所、パリのカルティエ・ラタン、リュクサンブール公園近くのカフェかどこかで店を出て行くところをちらっと見てみたかった。私としてはそもそも生きている作家に会うのはどこか気が引けます。その人の作品、文章が気に入っているとして、生身の彼に会ってみてすごく幻滅することがきっとあるからです。作家の文体、その内容と、彼の身体は普通はそれほど一致しないのです。ところで、ベケットが猛禽類的だけでなかったのは、平安や穏やかさだけではなく、彼には独特の笑いもあるからだと思います。鳥は笑ったりしません。しかし彼の作品のなかに見出されるこの笑いは残酷で凶暴かもしれません。少なくとも残酷さや凶暴さの背景が垣間見えるように思います。さきほどアルトーとの身体の違いについて述べましたが、ベケットにおいて、人生、生きること、死ぬこと、つまり人間の生自体が残酷な様相をしばし見せるのですから、ベケットの残酷さはアルトーの「残酷」と通ずるところがないとは言えないと思います。
私は自分が何歳なのかわからなくなるときがあります。十代でないことはわかっていますし、実際、体もぼろぼろで、自分を見捨てていると言えばいいのでしょうか。見捨てる。見捨てられる。これもまた「晩年様式」かもしれません。それでいて、見捨てられている、と私は自分から言いたくないのかもしれません。ベケットははっきりと「見捨てられている」と言っているかのようです。最近とくに感じるのですが、生きていながら、死んでいればいいと切望することもあります。自殺のことが言いたいのではありません。全然、違います。
「見捨てられている」というのは「死んでいる」という状態に近いのかもしれません。ベケットの小説を読むとそれを感じるときがあります。「結局のところ、自分が死ぬのを感じなくても、もう死んでしまったと思うことができる」、ベケットは『マロウン死す』のなかでそう言っています。さらにベケットはこうも言います、「つまり私はすでにまじめさにがんじがらめになっていた。それが重病にまでなっていた。私は他の梅毒やみと同じように生まれつき大まじめだった。大まじめな自分を大まじめにやめようとし、生きて、何かを考えだそうとした。そんな自分のことはわかっている。しかし何か新しくやってみるたびに混乱し、救いを求めるように暗闇のなかに身を投げ、他人のこんな見世物は体験するのも我慢するのもいやだという連中の膝下に飛び込んだ。生きること。それが何を意味するかわからないまま、それについて喋っている。何を試しているのかわからないまま試してみた。結局のところ、たぶん私は生きたのだ、自分では気づかないまま。なぜこんなことばかり喋っているのか自問する。ああ、そうだ、退屈をまぎらわすためだ。生きること、そして生かしてやること。言葉を糾弾してみてもはじまらない」(『マロウン死す』、宇野訳、032ページ)。ベケットは登場人物が死にかけていることを絶えずほのめかしますが、私は、必ずしも「死」が何であるかというようなことではなく、そのことによって「死んでいる」という、言ってみれば、生における「新しい状態」のようなものを考えてしまいます。
こんなことは別の世のお伽噺のように思われるでしょうが、「死」が何なのか誰にもわからないのですから、「死」そのものや「死んでしまった」結果とはまた別の、「死んでいる」という状態は、生のなかにも見つけることができるかもしれません。「死んでいる」と「死」は重ならない。それは生が生を逸脱する契機かもしれないし、「死んでいる」状態があるだけで、「死」そのものはないかもしれないとまで私は思ってしまいます。「死んでいる」、それが生きているときから続きます。私は死んではいないが、私の内と外で、何かが死んでいる。そして「死んでいる」状態は何かが失われるのではなく、「生きている」のと同時に起きている。「死んでいる」状態は、何もしない自由のことなのでしょうか。言葉の次元では、ほんとうの意味での「絶句」に近いかもしれない。喋り続けることによって絶句すること。沈黙は絶えず破られます。沈黙と喋り続けるというこの二つの問いには何か関連があるのだろうか、とベケットは問いかけています。シュトックハウゼンはベケットのこんな言葉を引用しています、「一度途切れた沈黙はもはや決して完璧ではないだろう」(『名づけられないもの』、143ページ)。ついでに言えば、「死んでいる」ことによる沈黙は、音楽的でもあるのです。
楽しみにしていた宇野邦一さんによる小説三部作の新訳が完結しました。『モロイ』、『マロウン死す』、『名づけられないもの』を私も読み返しました。僭越ながら、とても素晴らしい訳だと思いました。最初にこれらの小説の邦訳を読んだのはずいぶん昔のことで、そのときの読書がどんな風だったのかもうほとんど覚えていません。ところどころですが、何が書かれているのかは何となく感知できていたかもしれません。しかしこの作家が何を考えているかまでは理解していなかったと思います。私は英語がだめなので、拙いフランス語力でパラパラ原書を見た覚えもあります。私はたぶん何もわかっていなかったと思います。だけどベケットを読むことに関して、「理解」というのは少し違うかもしれない。当時は、ベケットの文章を前にして盲目になることができなかったと言ったほうがいいかもしれません。ベケットを読むには、時代の風潮も我々の置かれている状況も無関係なのではないかと思えるときがあります。もちろん、誰もが『ゴドーを待ちながら』をそのように読んだ時期もありましたが……。小説に関しては、とにかくどんなバイアスも要らないのです。ところが、ベケットは「根本的なことを理解する歓びが損なわれるわけではない」とも言っています。これは伏線なのでしょうか。とても複雑なことをベケットはさも簡単そうに単純な言葉で述べています。私にはこれはほとんど名人芸に近いのではないかと思われます。ずいぶんな余興です。まあ、それはそれとして、何かを理解したにしろ、しなかったにしろ、そのつど、ベケットを読むことは新しい「経験」であることに変わりはありません。これはとても本質的なことです。我々には新しい経験が必要です。だけどすべての読書が「経験」であるかといえば、そんなことはありません。あんな風に書くことのできる作家、読者にこんな強度の印象を与える作家はそうざらにはいないことはご承知のとおりです。悲しいかな、うんざりするくらい、絶望的なくらいいないのです。そう断言できると思います。
さきほどちょっと触れたように、ベケットには「笑い」があります。「私だけが人間で、他は神様だ」(『名づけられないもの』、022ページ)。ベケットはそう言います。これには大笑いしてしまいますが、大げさに考えれば、大変重大な帰結をともないます。「私だけが人間で、他は神様だ」。想像してみてください。なかなか面白い光景です。そうであれば、大文字の他者などいないかのようです。しかも、他者の他者は存在しない、と言っていたラカンは間違っていたことになる。あるいはこんなのもあります。「しっかりしろよ、息子よ」。このベケットの言葉にも笑ってしまいます。「息子」という言葉にはびっくりします。イエスのことを言っているとも思いますが、そうでもない。ベケットは、通りすがりに、イエスを思わせる人物のことをほんの少しかすめるときがあります。これもまた一種の余興なのでしょうが、と同時に、笑いを誘うだけでなく、何か過激なものも感じます。そして先ほど述べたように、ベケットには音楽も感じ取れます。「クワッド」のシナリオの俳優の動きを見ると、それは最小限に切り詰められていて、たしかにミニマルなところがありますが、でも、「沈黙」という点で考えるなら、いくらベケットの言葉に反復的な要素が多用されているとしても、ミニマルミュージック的なところはないかもしれません。ついでに言うと、ジョン・ケージにはジョイス的なところがありますが、ベケット的ではありません。一方で、「沈黙はどうでもいい」と語るベケット。絶えず「沈黙」の主題に立ち戻り、沈黙するのかと思いきや、そのくせ話者は喋り続けますし、喋ることをやめません。奇妙な「沈黙」です。笑いがこぼれます。私にはベケットの沈黙はやはり「身体的なもの」にしか見えないし聞こえません。この沈黙が身体的なものでなければ、出来事を捕まえることはできないでしょう。
堀千晶さんの訳でロベール・パンジェの『パッサカリア』を読んだときもそう思ったのですが、小説に登場人物は要らないのではないか。人物は必要でなく物だけがあればいいという意味ではありませんが、もはや登場人物は登場人物の役割をもたなくてもいいのではないでしょうか。ベケッットの主人公というか登場人物は、甕の中に住んでいたりします。甕の中に突っ込まれた壺人間マフード、でもそれも嘘だったようです。存在したことがなかったのに存在しているワーム、いろいろいますが、その他の登場人物とはいったい誰なのでしょう。名前のない、名づけられない登場人物たちは、それにもかかわらず読者である私に絶えず審判を下します。まぎれもない「審判」です。我々はつねに審問にかけられている。だけどいつもこの私はそれに対して抗弁することができない。なぜなのでしょう。
宇野邦一さんもベケット論『ベケットのほうへ』で指摘するように、ベケットの文学はベラックワという人物と関係づけることができると思います。ベラックワはベケット的人物と言えます。ベラックワは、ダンテ『神曲』煉獄篇第四歌に登場する実在した人物で、ダンテと昵懇の間柄であったらしく、楽器職人だったと伝えられる人です。彼は終生ものぐさで、臨終まで悔い改めませんでした。死んだあと地獄は免れましたが、煉獄前域にいます。煉獄にはその前域があるらしいのですが、そこはまだ煉獄ではありません。『神曲』によれば、ベラックワは生きているダンテが語りかけても、岩陰に座ったまま、膝の間に顔を埋めてこうべを上げもしません。彼にはここでも何かをしようとする気がありません。できれば何もしたくない。生前と同じくものぐさなままです。それで彼が言うには、煉獄に入るためには、地上で過ごした時間と同じだけそこで待たなければならない……。このベラックワはそのまま横滑りして、舞台裏でベケットの影の登場人物となっているかのようです。宇野さんの言葉を引用するなら、「死と生、煉獄と地上の間にあって、すでに生きてしまった生の夢を怠惰に反復しているベラックワの偶像がいつまでも繰り返されるのだ」というわけです。
ベラックワは待っています。待つこと。そうです、我々はたぶんいつも待っていなければならないのかもしれません。ずいぶん長い待機です。我々は何かが起こるのを待っているのでしょうか。それとも我々は死ぬのを待っているのでしょうか。ベケットはこう言っています、「しかし、死ぬことも、生きることも、生まれることもできないというこの話はいったい何だ、自分のいるところに、死にながら、生きながら、生まれながら留まるという話にも、何か果たすべき役割があるにちがいない。前進も後退もままならず、どこから来るのか、どこにいるのか、どこに行くのかわからず、他のところに、別の仕方で存在するかもしれない、何も仮定することはなく、何も自問することはなく、すべて不可能、そこにいるだけ、自分が誰か、どこにいるかわからず、見たところ、見たところでは、事物はそこにあり、事物の何も、あたりの何も変化していない。終わりを待たなければならない、終わりが来なければならない、そして終わりにはそれは、終わりにはついにそれはたぶん前と同じこと、または終わりに近づかなければならなかった、あるいは終わりから遠ざからなければならなかった……」(『名づけられないもの』、152ページ)。
こんな風にして、ベケットの文学の場所自体が煉獄にあったのではないかと思えてきます。地獄と天国との力関係において、煉獄においては、地獄と天国という相反する二つの力のベクトルから解放された浄罪的過程あるいは非浄罪的過程の力が働いていると思われます。さきほど述べた身体と文章ということで言えば、地獄はまさに「身体」の場所であり、天国は、理想的な形でそれが為されるとすれば、「文」は「身体」から切り離されます。天国は「文」だけが成立する場所です。煉獄はといえば、したがってまさに「身体」と「文」の場所であり、「身体」と「文」が一致する場所であると言うことができるでしょう。ベケットの文学はそれを示しているのだとも私は考えたりします。フィリップ・ソレルスなどは、文学の最高の形は「天国」的言語を語ることだというようなことを述べていますが、私にはそうは思われません。地上に一つの場所があるとすれば、文学に一つの場所があるとすれば、それは地獄と天国に挟まれた、地獄でも天国でもない煉獄なのです。ちなみに宗教的な観点からは煉獄はカトリック的な場所だということができると思います。ベケットは『名づけられないもの』にこう書いています、「それでも彼らの助けを借りて、その場所に、私というものに少しずつなれていき、昔からの問題が、つまり若くても老いても、助けもなしに、案内もなしに、たった一秒をいかに生きるかという彼らの人生の問題が少しずつ浮上してくるだろう」(前掲書、084ページ)、と。生きたまま煉獄に入ったダンテには死者であるウェルギリウスという案内役の先達がつきそっていましたが、ここには、そしてベケットの文学には、しかし先達となる大詩人ウェルギリウスはいないのです。案内役はいないのです。
ベケットの文章からいくつもの声が聞こえてきます。それはひとつの声のときもあるし、多数の声が交錯することもあります。声は発せられたと同時に失われる。しかし声にはたしかに伴侶がいるのが感じられます。伴侶は闇のなかからそっと現れる。伴侶は無言であることもあります。それは身体のことなのでしょうか。身体は声から出てくる。滲み出てきます。それは道化のように悠然としています。素晴らしい声があります。普通の声があります。老人の声、女性の声。雑音。ノイズ。鳴り止まないノイズのような声。不気味な声もあるかもしれません。聳え立つ声があります。かすれて、しわがれて、かすかにしか聞こえなくなる声があります。唐突な声がある。あまりに簡潔な声なので、人は釘付けになります。縁がぎざぎざで不分明な声。声はまたかすれて弱まり、消えてしまう。また声が聞こえてきます。吐息。姿は見えません。息もかすれる。息が切れる。苦しい。プロンプターの声。パントマイムや人形遣いの無言。そして黒衣(くろご)の声。存在するはずのない声。存在してはならない声。それなのに存在しているつもりの声。沈黙しながら語ることのできる声。沈黙のなかで喋り続けることのできる声。そんなことができるのでしょうか。できるかもしれない。声の風が吹きます。天使が通る。そのためにふと沈黙が生まれます。我々はここでもまた待っているだけなのかもしれません。
もう一度繰り返します。「死んでいる」。生きているのに「死んでいる」状態を想像してみてください。それが否定的な事柄であるとは限りません。人はいつの時代もあちこちで可能性について大いに語りました。この可能性には欲望や野望や嘘がべったりこびりついています。一方、ドゥルーズが言うように、ベケットによって、慎重に、大胆に、可能性が汲み尽くされます。可能性の消尽そのものが生起します。ベケットは言います、「こんな状況で、どうやって書くのか、この苦々しい狂気に、手を動かすという可能性しか見ないというわけか。わからない。わかるかもしれない。しかしわからないだろう。こんどはだめだ。この私が書こうというのだ。膝から手をあげることのできない私が。かろうじて書くためにだけ私は考えている、頭は遠くにあるのに。私はマタイで、私は天使である。十字架の前に、罪の前にやってきた、この世界にやってきた、ここにやってきた」(前掲書、024ページ)口先にでかかった、でも口先だけのすべての可能性が汲み尽くされるのです。素敵な光景です。ベケットはうんざりしているのでしょうか。一方では、たしかにそうであるに違いありません。実際、我々もうんざりしています。こんな時代、文学など誰も読まないし、芸術も何もない、相変わらず戦争をやっているだけの、嘘つきと金の亡者だらけの、馬鹿みたいな悲惨な最悪の時代にベケットを読むことは、したがってとてもいいことだと私は思うのです。
最後に『名づけられないもの』から、他にもいろいろあるのですが、私の好きなくだりを引用して、この話を終えたいと思います。
「空気、空気を。このなつかしい主題が少しでも役に立つか見てみよう。この魔法にかかった円形の外の私のすぐ近くでは、まったく透明な灰色の空気が、浸透しがたい薄い層を重ね、ほんの少しだけ濃い色に染まっている。かすかな光が私の鼻先で起きていることを識別させてくれるのだが、これは私のほうから発する光なのか。いまのところそう仮定する利点が見つからない。底なしの夜は、やがて、ある程度まで明るくなったが、私の聞いたところでは、黒ずんだ空と大地そのものの光の助けだけを借りたのだ。ここに真っ暗闇はない。この灰色はまず闇になり、ついでとにかく不透明になろうとするが、これでもかなり強い明るみを含んでいる。しかし私の視線が、そこになんとか空気を見ようとしてぶつかる障壁は、実はむしろ黒鉛の密度をもつ囲いのようなものではないか。(……)九十九パーセントの時間はそこでは何も起こらない。両目は燃える石炭のように赤いにちがいない。ときどき私は自問するのだ。二つの網膜は向かいあっているのではないかと。そのうえよく考えてみると、あの灰色は、ある種の鳥の羽のようにかすかに薔薇色を帯びている。鸚鵡がそうじゃないかと思う」(前掲書、022ページ)。
ベケットを読むことはこの空気を吸うことです。ここでは鸚鵡はぺちゃくちゃ喋ったりしません。鸚鵡も沈黙し、静寂が領しています。ベケットのページの上を鳥の羽がかすめたのです。
作家、フランス文学、ミュージシャン。著書に、『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『サブ・ローザ 書物不良談義』、『ひとりっきりの戦争機械 文学芸術全方位論集』、『分身入門』、『離人小説集』ほか。訳書に、アントナン・アルトー『演劇とその分身』、『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』、『神の裁きと訣別するため』(宇野邦一との共訳)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』ほか多数。最新刊は、書き下ろし長編小説『うつせみ』、『文楽徘徊』、『芸術破綻論』。『室伏鴻集成』の編者のひとり。