第一部

イメージの消去を踊る

髙山花子





1. イメージの消去を踊る?

1-1. QUADとの出会い

去年の夏にたまたまShyに訪れる機会があり、そこではじめて室伏鴻さんのアーカイブを知り、彼がブランショを読み込んでいたことを知り、Webサイト上で彼のパフォーマンス等を見るようになり、とりわけ音の使い方に衝撃を受け、興味を持っておうかがいするようになってから、もうすぐ1年が経ちます。去年はなにも知らないまま、『真夜中のニジンスキー』というイベントに参加させていただいたのですが、その後、今度はベケットの企画をやるらしい、と今年のはじめにうかがいました。そのときは、どうしてベケットなんだろう、と思ったのですが、いろいろと聞いているうちに、どうも「消尽」というテーマの現代的な有効性や可能性を再考すること、それから21世紀というこの時代において「収容所の愉楽」を考える問題意識から企画が生まれたと理解しました。

それで今回も参加させていただくことになり、QUADをめぐって、ということが大切な点になっているということで、YouTubeではじめてQUADを見たのですが、そのときは、ゲームみたいだな、という印象をもちました。4人のプレイヤーが正方形の四辺を、あるいは対角線を移動していく動きをする。それがゲームみたいだと思う一方で、なんなのかよくわからないという印象をもちました。それが4月のことですが、いまもよくわからないと思っています。

しかし、ジル・ドゥルーズのベケット論、それも晩年のベケットのテレビ作品を論じた『消尽したもの』――QUADの台本とあわせて一冊になっています――、これを読んでみると、どうやら可能なものをくみ尽くすことが問題になっており、なおかつ、晩年のベケットのテレビ作品は、どうやらイメージの問題と重なっているらしいことがわかってきました。

そのようなわけで、ドゥルーズの『消尽したもの』をよく読んでみるとおもしろかった。ドゥルーズは、そのようなイメージはプロセスであるとか、いろいろなことを言っているのですが、言語の外部というのはイメージであるだけではなく、広大無辺な空間なのだ、ということも言っていました。QUADでつくられる正方形は、イメージが完全に限定されながらも無限というものに達するようにつくられた無用の空間、役に立たない空間とされている。これはわたしもまだよくわからないのですが、どうも読んでいくと、QUADはイメージではなく空間であるということが言われている。どういうことなんだろう、と強く思うのですが、ひとまず、ドゥルーズによるとQUADで消尽されるのは空間であり、4人のプレイヤーが正方形の対角線の交点で消尽することが関わっている。

1-2. 室伏さんの日記の言葉との同期

最初に収容所というキーワードを聞いていたので、そこからはミシェル・フーコーの思想が想起され、まずはフーコーを読みながらQUADについていろいろと考えていました。それと並行して、今年の春から室伏さんの日記を読んでいるのですが、するとそこにイメージについての言及があるのが気になってきました。1991年4月の日記にはこんな言葉が書かれています。

ダンスはイメージで踊るのではない
イメージになるのでもない
イメージの消去を踊るのだ

わたしは室伏さんの生の舞台を見たことはなく、映像でしか見たことがないのですが、彼にとっての言葉の問題は、非常におもしろく興味深いです。もちろん彼のパフォーマンス舞台で完全に言葉が排除されているかというとそれはなく、言葉はやはり最後まであった、そういう人なのですが、しかしはっきり言ってしまうと、いわゆる言葉を伴う身体表現、たとえば戯曲であるとか、そういったものとは対極にあるようなパフォーマンスをしていました。言葉をはじめとするいろいろなものが極限まで削ぎ落とされて、それでもなお残る身体そのものの条件であるとか、そこからさらに進んで生の条件の追及のようなテーマが、美的と呼んでよいのかさえわからないなにかひとつの生のあり方の追及としてあらわれている。

ところが、その一方には、このアーカイブの蔵書、資料群からもわかることですが、彼が非常なまでに言葉のひとだったという事実があります。膨大な日記をはじめとするエクリチュールが過剰なまでにあった。このときの「踊る」の定義はまるで一筋縄ではいかないのですが、「踊る」ことと「書く」ことの両方が彼の生というものを成り立たせていた。

最後までまだ1回しか読めていませんが、彼の日記を読み、結果として、注意しなければならないこととしてわかったのは、必ずしも彼が書いていたことが、彼の踊りのそのままの言語化ではないということです。もちろん、日記には、いままさにやろうとしている舞台のための構想メモがよくあったりはするのですが、大半のものは、直接的に具体的な踊りの動きに結びついているかというとそうではまったくない。結びついているわけではない。そのような不思議な日記が残されている。書いて、それから舞台でパフォーマンスして、というプロセスが延々と、2015年6月の亡くなる直前までつづけられていたということを、ひとまずいま把握しています。

「イメージの消去を踊る」という言葉は印象に残るのですが、それではそれが具体的な同時期のなんらかの作品の身体のありようと決定的に結ばれているかというと、そうことではおそらくないだろうということです。

ほかの例を挙げると、たとえばすこしさかのぼって、1986年夏の日記にもこんな言葉があります。

imageは退化してゆく
もはやそこに人物は必要とされない
踊りだけがもんだいで
あるいはそれは霧のような

句読点もなしに書かれている、謎めいた走り書きです。謎めいた、というのは、このころの作品は映像が残っているので、これにかんしては、ユネスコで踊られた『PANTA RHEI』という作品をつくっていた時期のものとわかるわけです。しかし、『PANTA RHEI』には、白いドレスを着た女の人をはじめとする人物たちが間違いなく存在しており、もしも室伏さんが彼女彼らを人物としては考えていなかったのであれば結びつくのかもしれないのですが、『PANTA RHEI』は踊りというよりスペクタクル的な要素が強く、言葉との直接関係を考えてみると、謎めいた感覚をおぼえざるをえません。

しかしだからこそ、あえて「イメージの消去を踊る」というこの言葉、この室伏さんの走り書きを受け取って、それがどういうことなのかというのを、どうもイメージの問題が絡んでいるらしいQUADと一緒に考えたいと思い、タイトルをまず決めました。これが出発点になります。

1-3. 中心点の大切さとブランショの思考との重なりあい

今回、記録映像の制作に関わっている都合で、2回ほどQUADの上演と撮影のための練習に参加する機会をもちました。実際にやってみると、慣れるのには練習がいる、時間がかかるものでしたが、非常にシンプルなルールで運営されており、ルールに則ってやってゆくと、まるで自分がゲームの駒になったかのような気分を味わいました。

きのうも多少議論になったことですが、中心点、正方形の真ん中の対角線が結ばれた点で、どうやってほかのプレイヤーとぶつからないように身をかわすのか、についても、そこまで難しいことではなく、すぐに難なくできるようになることを、おそらく練習に参加した人たちは体感したのではないかと思います。というよりもむしろ、ぶつかるほうが大変だという印象さえもちました。街の交差点で他の通行人とすれちがうときに、ぶつかりそうでぶつからない感じです。スマホを見ながら歩いていると、もちろんぶつかったりすることはありますが、たいていはぶつからない、ということです。そこから思われたのは、このQUADが指示書にしたがって、単調とはいえ、終わることなく続いてゆくためには、中心でぶつかることが徹底して避けられていることにこそ、重要性があるのではないかと思い至った次第です。

(ところで余談ですが、きのうフレデリックが、マルセイユの空になったプールで学生たちと行ったQUADの映像を見せてくれました。それは、正方形からだんだんと長方形に形を移していく実験的なものでした。それを見ていて、あっ、と思ったのは、QUADは四角形の枠に閉じ込めてられているイメージから、なんとなく収容所と結びつけてしまっていたのですが、よくよく考えてみると、枠の中に入ったり枠の外に出たりという動きができるようになっている。空になったプールには四方に壁があり、映像の最後、4人のプレイヤーのそれぞれが四隅に向かうのですが、出ることができない、そんな動きがありました。本当に監獄から脱出するような強い動作をしないと空のプールからは出られないことが示されていたと感じたのですが、同時に、QUADの枠というのは、じつは出たり入ったりできるようなものになっていると強く感じました。そうすると、ますますベケット自身が、この中心点を危険地帯と呼んでいたこと、ドゥルーズがこの中心点で彼らが消尽する、と言っていたことが大切だったように思われてきます)

そうした流れのなかで思い出されたのは、自分がこれまでゆっくり読んできたモーリス・ブランショのことです。ベケットはもちろんブランショと強く結ばれていますから、「ベケットとブランショ」というテーマにはいろいろな可能性がそれこそ無限にあると思います。最初、ブランショでなにか話すとはまったく思っていなかったのですが、結果的にブランショについてきょうは話すことにしました。

もちろん理由のひとつには、『消尽したもの』のなかに、ブランショの眠りと夜の話が直接言及する形で出てくることがあります。それにくわえて、これは感覚的かつ印象的なものですが、ベケットの同じく晩年のテレビ作品『夜と夢』――シューベルトの歌曲が途切れ途切れに聞こえるモノクロで幻想的な作品です――を見ていると、とてもブランショっぽい、と思いました。というのも、ブランショは、シューベルトよりすこし後のシューマンを愛していて、『望みのときに』という1951年のレシ(中篇小説)には、シューマンの歌曲が出てきて、歌曲集『詩人の恋』の「わたしは恨まない」という曲が出てくるので、ロマン主義的なイメージが似ているという印象をもちました(室伏さんのいろいろなテクストを読んでいると、室伏さんをとおしてドゥルーズやフーコーを読んでいる気がしますが、ドゥルーズやフーコーを読んでいるとブランショと重なる部分が出てくるのもおそらく影響していると思います)。

それからもうひとつは、これは中心点の話に関わってきますが、『消尽したもの』の訳者あとがきで、宇野先生がドゥルーズと電話したときに、ドゥルーズが「あの本はいまのわたしの状態そのものだよ」と言ったエピソードを書かれていて、死と向き合っていたドゥルーズが、死の直前に書いていたのがこの『消尽したもの』というテクストだったことが思われました。

そうすると、1955年に出版されたブランショの評論集『文学空間』に、イメージの話がたくさん出てきていることはもちろん、禁じられた中心点という問題系、ある一点が禁止されていることが、この評論集に収録されている「オルフェウスのまなざし」というテクストに書かれていることが思い出されました。

これはギリシア神話のエピソードです。死んでしまった妻のエウリュディケーを、冥界から地上に連れ戻すために吟遊詩人のオルフェウスが冥界くだりをして、竪琴で歌を聴かせ、素晴らしい演奏をしたということで彼女を地上に連れ帰ることを許される。しかしそのとき条件があり、それは、けっして地上に出るまで後ろを振り返ってはならない、というものだった。しかし、オルフェウスは耐えきれずに、後ろを向いてしまう。振り返ってしまう。はたしてオルフェウスは永久に妻を失ってしまいます。これについて書いたブランショの論考が想起されました。なにかまとまった答えや結論があるというわけではないのですが、『文学空間』を読んで、そこからQUADをもう一度考えるということにつなげていきたいと思います。

2. ブランショの『文学空間』を読む

2-1. イメージについて

じつはブランショは1940年代から晩年に至るまでイメージについていろいろなことを書いています。しかし、よくあることですが、使い方は変遷しており、たとえば1940年代前半には、文章における比喩表現といった意味をあたえられ、諧調(nombre)といった言葉と並べられるかたちでイメージという単語が使われていたりしています。そうしたなかで、『文学空間』におけるイメージの説明は大切です。そこでは、イメージというのは距離のある接触によって、距離のあるコンタクトによってわたしたちにあたえられる、と説明されています。さらには魅惑というのはイメージのパッションなのだと書かれていたりします。

そのほかにも、その魅惑というのが孤独のまなざしだったり、絶え間なく終わることがないもののまなざしであるとされていて、そのまなざしのなかでは、失明はそれでもなおヴィジョンであるという、自分で見ることができる能力ではもうないようなヴィジョンについて、かなり抽象的ではありますが、説明があります(ベケットやドゥルーズと直接関係はしないのですが、ブランショのイメージ論については郷原佳以先生の『文学のミニマル・イメージ』という本があります。彼女が書いているようにブランショにはしっかりとイメージの問題系がある。それは否定的な意味でのイメージではまったくなく、むしろ肯定的なかたちで、最小限のミニマル・イメージとしか呼びようがないようなものが文学にあるという、その驚異をブランショから抽出している本です)。

2-2. オルフェウスについて

それでこの「オルフェウスのまなざし」というテクストには、オルフェウスが振り返ることを禁じている掟に背くことは避けがたい、振り返る(se retourner)ことが禁止されているけれども、それを無視することは避けがたい、不可避である、というのも彼は闇へと向かう第一歩からしてすでにその掟を破っていたのだから、と書かれています。死者たちの世界へと向かう一歩目からして、その法というか、掟に違反していたのだということが言われています。違法性の問題が大きくあると思いますが、振り返ると訳されるフランス語のse retournerというのは、自分の体の向きを変える、そういう動作を意味するもので、自分の身体の向きをぐっとひねって変え、それで後ろの彼女を見るという、そういう動作が禁止されていることになります。そのようにして死んだ妻を見るという振り返りの一瞬、一点というものが、不可能だと言われている。

ブランショはそのあと、歌のなかでだけ唯一オルフェウスはエウリュディケーに対して力を持っていたけれど、歌のなかではもうすでにエウリュディケーは失われており、オルフェウス自身ももうばらばらになってしまっていて、無限に死んだ者になっているのだ、という書き方をしています。オルフェウスが結果的にエウリュディケーを失ってしまったのは、歌の限度を越えて彼女を欲望しているからなのだというわけです。そして、オルフェウスは自分自身もまた失うのだけれども、歌にとっては、彼女への欲望と、失われたエウリュディケーと、ばらばらになったオルフェウスの三者が、作品に永遠の無為の試練が必要であるのと同じように必要なのだと説明されている箇所があります。

抽象的で、難しくてよくわからないといつも思うところですが、しかし、ブランショ独特の、作品、制作、創作の起源に抱えこまれている不可能性そのものという問題が表れており、なにかを書いたりつくること自体のはじまりが、冥界くだりに重ねられている非常に大切な一節です。

それではオルフェウスのなにがいけなかったのかというと、ブランショは性急さという罪があると言っています。待ちきれなかったのが罪であったということです。要するに、地上に出るまで待てなかったということです。それがいけなかったと書かれているのですが、そのあと、極めて興味深いことにこういうことが書かれています。彼の過ちというのは、終わりなきものを消尽しようと欲した、望んでいた、終わらないはずのものに終止符を打とうとした、みずからの過ちの運動そのものを絶え間なく終わることなく保とうとしないことにあるんだ、と(Son erreur est de vouloir épuiser l’infini, de mettre un terme à l’interminable, de ne pas soutenir sans fin le mouvement même de son erreur.)。

つまりオルフェウスの振り返り、まなざし、後ろを向くという禁じられた行為違反が、無限を、終わらないはずのものを消尽しようと欲望することとイコールにされている。ここで「消尽する(épuiser)」という単語が使われています。もちろんほかのテクストにもépuiserという単語は出てきますが、なにかQUADと一緒に考えられるのではないか、と思った箇所です。

2-3. 軽さについて

ブランショはこういった瞬間に霊感(inspiration)が告げこされる、という話をしており、それが欲望に結ばれていると言っており、その後、簡潔な表現ではあるのですが、作品の気がかりのなかに、無頓着さ、のんきさの運動が導き入れられ、作品が犠牲になるという不思議なことを言っています。犠牲の運動が伴っていて、それが軽いものだと言われています。おそらくは過ちなのだけれど、軽さを、物質としての無垢さをもっているということです。このように、ここに重量にかんする表現が出てきます。

ブランショにとっての「軽さ」といいますと、『私の死の瞬間』という自伝的な短い作品のなかで、ブランショは自分が第二次世界大戦の終わりに銃殺されかけたエピソードを告白しています。撃たれて死ぬかもしれないというそのときに地下運動グループのマキが森で物音を立てたことを契機として、銃殺のプロセスが偶然中断され、それで助かった、命拾いをしたという1944年の出来事が記されている。そのときブランショは、あのときのことで唯一自分のなかにとどまっているのが軽さの感情なのだと言っていて、それは死そのものでもあると書いています。

それからもうひとつ想起されるのは、室伏さんが2014年に発表した作品のタイトル「墓場で踊られる熱狂的なダンス」のもとになっていると思われる『文学空間』の「作品とコミュニカシオン」の終わりの記述です。そこにも「軽さ」の話があります。読者はあるテクストのまわりで素早いダンスを完遂するとされ、その読者は軽いと説明されている。その軽さとはおそらくは真の軽さではないのだけれど、読書の幸福とか無垢さを渡してくれるものであり、読書とはおそらくはわかたれた空間における目に見えないパートナーとのダンスであり、墓石との狂ったようなダンスであり、その軽さに対してはそれよりも深刻な気がかりの運動を願ってはならない、なぜならばそこでわたしには軽さがあたえられているのだから――そういうことが書かれ、さやかな軽さということが言われている。

3. QUADの不思議

3-1. オルフェウスとQUADのプレイヤーたちとの比較

戻ってみるという言い方も変ですが、QUADと、それからQUADが空間の消尽であるとした『消尽したもの』に戻ってみると、QUADの場合は、やはり絶妙にプレイヤーたちによって中心点が避けられることがとても大切ですが、それは限度を越えてまで、たとえば死んでしまった人を取り戻そうとするような、そのような強い欲望を満たそうとすることと非常に異なっていると思います。そういうものが強く回避されている側面があるのではないか。それによって、ブランショとはまったく違うかたちで、終わるはずがないものを消尽することがある種のかたちで実現しており、なおかつ生き延びることもまた実現されているのではないかと考えました。

ブランショの場合は、振り返るという身体の向きを変える動作が禁止されており、違反すると、終わらないはずのものをずっと絶え間なく行うことをしなかったとして、ある種、断罪されています。しかしベケットのこのQUADでは、そうではなく、反対に、消尽しつづけるということがふつうにできており、しかもそれによってプレイヤーたちが生きつづける事態が起こっているのではないか……。

ここでそのポイントになってくると思ったのは、『消尽したもの』にも書かれているように、QUADにおいては中心点での出会い――衝突というのは出会いの場です――が、予期はされているのですが、けっして望まれてはいない、その点が、たとえ語彙的な類似であったり連想的なものから似ていると思われつつも、相当に異なっていると思いました。QUADでは、禁止されている中心点での衝突が、ただ避けられているだけではなく、そもそもとしてまったく望まれていない。おそらくこれが、ドゥルーズによる「消尽したものだけが十分に無欲であり、細心である」という表現につうじているのではないでしょうか。

3-2. イメージの消去を踊る

さらに「イメージの消去を踊る」という言葉そのものをQUADに引きつけて考えてみると、言語の外部でイメージを生み出すことはないままに、イメージと同じく言語の外部にあるとされている空間で、軽やかに絶え間なくse retournerすることによって、QUADはイメージのパッションという魅惑を徹底して踏みつぶすように、消してゆくように読み取れるのではないかと考えました。さらに、それは終わらないだけでなく、きわめて強い欲望やその充足などないまま、それでもなおつづいてゆくという、きわめてエンターテインメント的なテレビ作品として見返すことができるのではないかと思いました。ブランショの主著『終わりなき対話』のフランス語タイトルは、L’Entretien infiniであり、間(entre)をたもつ(tenir)、ずっとたもちつづけて終わらないということなので、ラディカルにエンターテインメントそのものについて考え直せる部分もあるのではないか、と今回思いました。

3-3. 恥辱とイメージについて

最後に、イメージにかんして、自分が長らく考えたいと思っていたブランショの記述をご紹介します。1941年に初版が出た『謎のトマ』という小説の本当の最後です。ブランショのフィクション作品については、おそらく1950年代や1960年代のそれこそデュラスであるとか、ときにはベケットだったりに似ている、シンプルに声しかないような、それこそ「レシ」で知られている作家だと思います。

それに対して、1940年代の長篇作品、「ロマン(roman)」は、なにが起こっているかわからないような、複雑怪奇な作品になっており、『謎のトマ』初版の終盤には、なにがどうなっているのかわからない、終末論的な世界が出現します。家のなかにノマドたちがいて、もうどこにも住んでない無数の人間たちが部屋から出ることなく世界の果てまで広がっており、そのひとたちにはもはや身体はないけれどイメージはもっており、彼らはイメージを楽しんでいる……。そんなことが言われています。

そして本当の最後では、人間ではなくなった彼らが、闇の奥から夢の終わりのような叫び声を聞き、すると抗い難い欲望が生まれ、一瞬だけ人間に戻る。そして一つのイマージュを見ると、おぞましい誘惑に身を委ね、裸になる。そして「トマもまた、この猥雑な像(イマージュ)の流れを見つめ、次いで悲しげに、絶望して、そこに飛びこんだ。彼にとって恥辱がはじまったかのようだった」と終わる。

感覚的すぎるかもしれませんが、ここからは、ベケットの晩年であったり、あるいはドゥルーズの思考の最後のかけらに触れるようなものが、ブランショに刻まれていたような心地を覚えます。

髙山花子

東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任助教。昨夏以来、室伏鴻アーカイブカフェShyで調査をしている。いま興味があるのは、非言語・音響によるコミュニケーションと人間の生の条件。著書に『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、共訳書にモーリス・ブランショ『文学時評1941-1944』(水声社、2021年)がある。