まず、『ベケットのほうへ』を読ませていただき感じたことを述べさせていただきます。ほとんどの章は、以前拝読していたのですが、今回は、最初の二つの章を新たに読ませていただき、ベケットの本質的なところが論じられていると感じ、共感を覚えました。とくに私が共感を覚えたのは、以下のように書かれているところです。
「フィルム」やその後のテレビ用ヴィデオ作品は、まさに沈黙のための作品であったかのようだ。ただ黙るためではなく、沈黙を設計し、計量し、構成し、言語に覆われて知覚できないものを知覚し、知覚させようとするかのような試みだった。
ここでは「フィルム」やその後のテレビ用ヴィデオ作品について述べられていますが、私も「言語に覆われて知覚できないものを知覚し、知覚させようとする」という試みがベケット作品の核心にあると思います。そしてこの試みは、帯に書かれている「ベケットは言語の呪縛にどのように立ち向かったのか」という問い、ベケットが生涯にわたって続けた言語との執拗な闘いと不可分だと思います。
また、「言語に覆われて知覚できないものを知覚し、知覚させようとする」というベケットの試みは彼の「思考」とつながっていると考えられます。103、104頁で、宇野さんは、1937年のベケットの手紙の中の言葉、とくに、「言語に次々と穴をあけること、その背後に潜んでいるものが何であれ、無であれ、滲み出てくるまで」という言葉に言及しながら、「これは言語哲学などではなく、言葉の肉を引き裂く体験にうながされる思考である」と述べられています。また別の箇所で「ベケットは決して『手法』によって目覚ましい作家ではない。むしろ、どこまでも『思考』の作家なのだ。書くことを、言葉を、意味を、どこまでも思考せずにはいられない」と書かれています。私も、彼の芸術のマニフェストを示しているともいえる1937年の手紙は、単に芸術のテクニック、彼がめざす芸術を達成するための方法や手段ではなく、彼自身の芸術や生の根幹に関わる「思考」を示していると考えます。
最近の英語圏のベケット研究、とくに思想に関連する分野では、アーカイブを利用してベケット作品のsourceを突き止めるような研究やベケットが読んだであろうと考えられる思想家との影響関係についての研究が多くなっており、私自身もそれらから多大な恩恵を受けています。しかし、同時に、彼の作品が示す「思考」、すなわち、概念的レベルでとらえられる思考ではなく、いわば、思考の中心にある思考の不可能性の体験から生まれる思考そのものを受け取り、それとともに考えるというベケットの読み方もベケット研究において重要なのではないかと思います。それは、ベケットの経験した思考の不可能性の中に一緒にとどまり、そこから生まれてくる言葉をなんとか書き写していくということかもしれません。
私はベケットのこのような「思考」、「言語に覆われて知覚できないものを知覚し、知覚させようとする」という試みについてattunementということを通して考えてみたいと思っています。attuneという言葉には、 <楽器などを>調音[調律]する、⋯の調子を合わせる、適応させる、慣れさせる等の意味があります。今、考えたいと思っているのは、ベケット作品において「知覚できないもの」の次元への、あるいは言語に覆われて見えなくなっている、聞こえなくなっている何かへのattunementがどのように描かれているのかということです。実際に、ベケット作品には、視聴者や読者に、tuneすることを要請する言葉が認められます。例えば、テレビ作品の『幽霊トリオ』では、第一部で女の声が「こんばんは。わたし、声が小さいんですの。恐れいりますが、音量、合わせてくださいね。」と言うところから始まります。そしてこの声は、のちに灰色の部屋の床、壁、ドア、窓、ベッドを撮影するようにカメラに指示します。英語ではこの冒頭の台詞は、‘Good evening. Mine is a faint voice. Kindly tune accordingly’となっています。この言葉は、視聴者に対して発せられる言葉と考えられますが、それは彼女の faint voiceにtuneしてほしいという要請であると同時に、この声が説明する色のない灰色の幽霊的次元にtuneしてほしいという要請でもあると考えられます。他の作品にも、似たような要請が認められます。『伴侶』の英語版は、’A voice comes to one in the dark. Imagine.’となっていますし、‘Imagination Dead Imagine’という短編作品の冒頭でも、‘. . . imagination dead imagine.’とあります。これらの言葉は、作品の受け手に「知覚できないもの」の次元へのattunementを求めている言葉であると捉えることもできます。また、これらの要請はベケット自身が受け取っていた、あるいは作品自体が内包している要請であるとも言えると思います。『ベケットのほうへ』の263頁に、「彼の関心はあくまで人間の知覚や思考によって覆われた拡がりの間隙にあり、そこで振動し、生成し、消滅するものにむかった」とありますが、まさにそのような次元にtuneするattunementの空間をベケット作品は開いていると言えます。
言い換えると、ベケットの作品は私たちに、次の引用で彼が「説明不可能なもの」と呼んでいるものの次元にtuneすることを求めていると言うことができます。シャルル・ジュリエの本『ベケットとヴァン・ヴェルデ』のエピグラフとなっている言葉を引用します。「闇と光を同時に持つとき、わたしたちは説明不可能なものをも持つ。」フランス語の原文は、≪Là où nous avons à la fois l’obscurité et la lumière, nous avons aussi l’inexplicable. ≫となっています(英語では、‘Where we have, at one and the same time, darkness and light, we also have the inexplicable.’と訳されています。)ここで、ベケットは闇と光が同時に存在する次元のことを「説明不可能なもの」の次元であると言っています。これは、存在と非存在の同時性があらわれる次元と言ってもいいかと思います。これからお話しするベケットのラジオ劇All That Fall(『すべて倒れんとする者』)はまさにこの「説明不可能なもの」の次元を示していると思われます。
ここから具体的にAll That Fallにおけるベケットの試みについて、この作品が描いている「日常」に焦点をあてながら見ていきたいと思います。筑波大学出版会から刊行予定である論文集『日常のかたち――美学・建築・文学・食』に掲載される論文「日常のサウンドスケープ―ベケットのラジオ劇『すべて倒れんとする者』」の内容を部分的に紹介させていただきます。この論文集は日常と文化がテーマになっており、私が書いた論文はベケットにおける日常について考えようとしたものです。このテーマに関してよく言及されるのは『しあわせな日々』という演劇作品ですが、今回、私は日常について考える上で『すべて倒れんとする者』を取り上げてみました。
その時、参照したのは、モーリス・ブランショの『終わりなき対話』に収められた「日常の言葉」(≪La parole quotidienne≫)という論考です。ここでブランショは、アンリ・ルフェーヴルの『日常生活批判』に言及しながら日常についての見解を示しています。彼は、「日常は容易く把握されはしない。日常は逃れ去る」と述べ、日常を発見することの困難さを繰り返し強調しています。またブランショは日常が街路(la rue)にあると考えています。なぜブランショは日常が街路にあると考えたのでしょうか。彼は「街路は何かを公共のものにする」という特徴を持っており、それは「隠れたもの」、「秘密裏に起こったこと」を公にすると説明しています。また、ブランショは、「街路は通行人たち(les passants)」の場であり、「人間の無名性」の場であると述べています。街路でひとは、「真にそこに存在していないという軽さ」を持ち、「主体も客体も欠いた」経験の次元を通過していくと書いています。このように、ブランショは街路が、暗闇に隠されたものが公にされる場であると同時に、「人間の無名性」が支配する場であると語り、そのような意味での街路においてこそ、接近不可能で、私たちの把握を逃れる日常なるものが現われるのだと考えています。
ここではこのブランショの考察を参照しながらベケットのAll That Fallにおいて、いかに日常が提示されているかを見ていきたいと思います。ブランショが捉えた日常と同様に、この作品があらわす日常も家の外の道において喚起されます。ただ、ブランショの街路が都市の街路であるのに対して、ここでの道は田舎道です。その道を通り過ぎていく人々、乗り物、風、人々の間で交わされる言葉などが示す〈通過〉という存在様態において日常が現われます。ブランショは、「日常は逃れ去る」と述べて、容易く把握されないことがその本質的特徴であると書いていますが、ベケットはラジオというメディウムを通して、捉えることのできない日常を表現したのではないかと考えられます。
この作品は、1956年にBBCの依頼を受けてBBC第3プログラムのために執筆されたものです。ベケット作品の中では最もリアリズム的要素が多い作品であるといわれます。ほかの作品にはあまり見られない、理解しやすいプロット、人物描写、場所設定などが認められます。実際ベケット自身の生地であるアイルランドのフォックスロックの駅がモデルになっていたり、登場人物の名前の中に地元に実在していた人物の名前や実在の名前を少し変えてある名前が含まれていたりします。マディー・ルーニーという70代の女性が主人公であるこのラジオ劇は二つの部分から構成されています。
前半は、ルーニー夫人がボグヒル駅に視覚障害者である夫ダン・ルーニーを迎えに行くため田舎道を歩いていく場面と、彼女が駅に着いてからの場面からなっています。後半は、ルーニー夫人が汽車から降りてきたルーニー氏と一緒に家路をたどる場面からなっています。このラジオ劇で通奏低音のように響き、作品の基調をなすのは前半のルーニー夫人の足を引きずる音と、後半のルーニー夫妻の足を引きずる音、あえぐ息の音、杖をつく音です。また、それら以外にも動物たちの鳴き声、荷馬車、自転車、自動車、汽車などの乗り物の音、レコードの音楽、人間の言葉や叫び声、鼻をかむ音、それから風と雨の音などの多様な音が混じり合って日常のサウンドスケープが形成されています。少しどんな作品か、お聴きいただいたほうがいいかと思います。最初の3分だけ今から聴いていただきます。
〔ラジオ劇試聴〕
これが冒頭の部分です。このように実生活の雰囲気の中で村の小さな共同体の日常が描写されるのですが、同時に忘れてならないのは音と沈黙のみでできたこの作品には、演劇作品が有するような物理的な現実、あるいは視覚的現実が欠けているということです。先ほどお話しくださった現前空間ということともつながってくるかと思います。ラジオというメディウムにベケットは強い関心を持ってこの作品を書いたのですが、ここで彼にとって重要だったのは、聴き手が聴覚的現前と物理的不在の同時性を感覚的に体験することを通して、存在と非存在の同時性を体験することだったのではないでしょうか。何かがそこで起こっていると同時に、何もそこで起こっていない、誰かがそこにいながら、そこにいない、何かがそこにありながら、そこにない、という論理的には矛盾して聞こえる人間や事物の存在の仕方を体験すること。それは体験することであり、『わたしじゃない』についてベケットが言ったことと同様に、知的に理解することではなかったと思われます。
またベケットは、このラジオ劇を演劇作品として上演してはどうかという提案をことごとく断っています。それに関して彼が知り合いへの手紙で言っているのは、この作品がどのような質を持っているにせよ、それは「闇(the dark)から作品全体が生まれてくることいかんによる」ということです。この言葉は、闇から作品が生まれてくることが彼のラジオ作品の本質にあることを示していると思います。先ほど言ったように、何かがそこで起こっていると同時に何もそこで起こっていないという聴き手の体験を可能にするものが、闇だったのではないかとも考えられます。
ここから、この作品が表現している〈存在の重さ〉と〈存在の軽さ〉について簡単にお話しさせていただきます。〈存在の重さ〉ということで私が考えたのは、このタイトルにもなっているAll That Fallのfallという言葉です。これは倒れるという意味もあるし、落ちる、落下する、雨が降るという意味もあります。落ちるということは重力に関わっています。〈存在の軽さ〉については、それは通り過ぎていくものにおける存在様態を表していると考えました。
まず〈存在の重さ〉のほうについてお話します。ブランショは、街路には「何かを公共のものにする」という特徴があるため、そこでは隠れたものや秘密裏に起こったことが公になると述べていました。ではルーニー夫人が歩いていく田舎道では一体何が公になるのでしょうか。そこで日の光の下にさらされる「隠れていたもの」とは何なのでしょうか。一つ考えられるのは、〈存在の重さ〉ということかと思います。それは題名にも出ているようにfallということですが、この『すべて倒れんとする者』という題名は、詩篇の言葉「エホバはすべて倒れんとする者を支え、かがめる者を直く立たしめたもう」から来ています。この題名が示すようにここで明るみに出される〈存在の重さ〉とは、fallという言葉が意味する、倒れる、落下する、転落する、降る、沈むというような重さです。それは人間だけでなく、ほかの生き物や事物も含めて、すべての倒れんとするもの、落ちていくものに属しています。また、このfallのモチーフはキリスト教の原罪にも関わっています。また、この落ちるということですが、この作品では、孤独、老い、死、苦しみ、暴力、絶望、不妊、不毛などの主題と密接につながっています。
ここで、この倒れんとする存在すべての中心にいるルーニー夫人の身体の重さについて考えてみたいと思います。先ほど聴いていただいた作品の最初の部分からもわかるかと思いますが、重いからだを引きずって歩いていく音が象徴的に示すように彼女のからだの重さというのはずっと強調されています。これを聴くとやはり聴いている者としては、ルーニー夫人の重さは紛れもない実在の存在の重さであると感じます。そして、それは私たちが実生活において感じるようなからだの重さやつらさを思い起こさせます。
そして、この重さは彼女の背負っている重荷と切り離せません。例えば自分自身の病とか老い、孤独による苦しみなどですが、それだけではなく、周りのすべての生あるものの苦しみをルーニー夫人が引き受けて背負っているということを示しています。作品の様々な箇所にルーニー夫人が人間以外の生き物や植物の生にも寄り添っているということが描かれています。またルーニー夫人の目は、目を背けたくなるような惨状や不幸を見てきた目であると言われています。このことも彼女が自分以外の存在の苦しみを背負ってきたことを示しています。このような視点から考えると、彼女が足を引きずりながら、あえぎながら道を歩いていく音は、すべての生ある存在の重さ、苦しみを象徴していると言えるかもしれません。ルーニー夫人の重いからだとともに、詩篇の言葉が約束する「支えられる」ということなしに、倒れんとするもの、落ちていくものの〈存在の重さ〉が、田舎道という日常の場で明るみに出され、村の人々の間で共有されます。
このような〈存在の重さ〉と同時に、〈存在の軽さ〉も表現されているのではないかと考えました。ブランショにとって、街路は「通行人たち」の〈場〉、そして「人間の無名性」の〈場〉でした。このラジオ劇においても、日常があらわれる田舎道は、通り過ぎていくものの〈場〉です。この作品が聴き手に音を通して喚起する世界は、ルーニー夫人という中心点を通り過ぎていく光景、動物たちの鳴き声、村の人々、彼らの乗っている乗り物、風、そこで生じる出来事や言葉などで成り立っています。さきほど聞いていただいた冒頭部分ではクリスティという人物が出て来ましたが、この作品では、村の人々が、順番にそれぞれの乗り物とともにルーニー夫人のところにやってきて彼女を一時的に助けようとするがうまく助けられない、そして風のように去っていくということが繰り返されます。例えば、このように通り過ぎていくものが描かれています。
ルーニー夫人も、先ほど述べたことと矛盾して聞こえるかもしれないですが、「そこに存在していない」という意味で〈存在の軽さ〉を示しています。実際彼女は、「私っていう女は存在しないんですからね(I do not exist)。皆さんご存じのとおりね」や、「わたしゃ半分どころか、もっともっと生きちゃいないんですからね(I’m not half alive nor anything approaching it)」というセリフを述べます。これはベケット自身が感じていた「存在になり損なった存在」(être manqué)とつながっているかもしれません。ベケットが自分の内に感じていた、「生まれたかもしれないが、決して生まれなかった自己の、胎児のような未発達である存在、存在になり損なった存在」についての直感的感覚です。ルーニー夫人はこのような「存在になり損なった存在」としての、ブランショの言葉を借りると、「真にそこに存在していないという軽さ」を持っていると言えます。
また、このラジオ劇全体を作っている音自体も常に通り過ぎていく存在であり、特に風の音は非常に重要ではないかと思います。タイトルが示すようにこの作品に出てくる人物や動物、物、雨など、すべてのものは重さを持っていて、重力に従い、倒れんとする、落ちる、fallする存在なのですが、そのような存在の間を通り過ぎていく〈風〉は軽さを象徴します。〈風〉は重さのある堅牢な存在を吹き飛ばす力を持ち、この作品で〈存在の軽さ〉を象徴するものとして次第に存在感を増していきます。
『すべて倒れんとする者』においていかに〈存在の重さ〉と〈存在の軽さ〉が描かれているかについて簡単にお話ししましたが、この作品が表現している日常は、まさにこの二つの併存にもとづいていると言えるでしょう。言い換えると、この作品が描く日常は、存在と非存在の同時性のうちに、すなわち誰かがそこにいながらそこにいない、何かがそこに在りながらそこにないという生のあり方のうちにあります。田舎の日常を描いたこのラジオ作品でベケットが試みたのは、聴き手がこの二つの次元の同時性という謎自体を体験する、ということであったと言えるかもしれません。これは、最初に見たジュリエの本のエピグラフの「説明不可能なものの次元」にもつながると思います。
「日常の言葉」におけるブランショの議論を通して考えると、この作品はルーニー夫人という主体にとって何かが起こるリアリズム的な経験的次元の奥底に、ブランショの言う「日常における『何も起こらないこと』」の次元があることを示しているとも言えます。ブランショは「日常の危険の本質」について述べ、日常において密かに作用している「破壊力」、「解体の力」を捉え直すことの重要性を強調しています。このベケットのラジオ作品は、まさに日常で密かに働いている「解体の力」を捉えていると言えるのではないでしょうか。
この作品には、至る所に挿入される沈黙や風の音とともに、「生まれたことがなかった」存在、 ‘poor’という言葉とともに喚起される人物たちの主体を欠いた存在(例えば、ルーニー夫人は「かわいそうな娘さん(your poor daughter)のかげんは、その後どう?」とタイラー氏に尋ねます)、死んでしまった子供たちの存在(例えば、若い時に死んだルーニー夫人の子どものミニー、汽車から落ちて死んでしまった子ども)などが、リアリズム的現実を根底から脅かす要素として散りばめられています。
最初に、ベケットにとってラジオというメディウムが本質的に〈闇〉に関係していることに触れましたが、ベケットがラジオ作品を生み出す源泉と考える〈闇〉も、すべてを無化する力、ブランショの言う「解体する力」を持っていると言えます。ベケットはラジオというメディウムを通して、一見のどかな日常の風景と、そこで作用している密かな「解体の力」との緊張を、日常のサウンドスケープとして描いたと言えるのではないでしょうか。
1963年生まれ。筑波大学人文社会系教授。 表象文化論、文学への思想的アプローチ。著書にThe Space of Vacillation: The Experience of Language in Beckett, Blanchot, and Heidegger (Peter Lang),『ハンナ・アーレント―世界との和解のこころみ』(法政大学出版局)、共編著にSamuel Beckett and Pain (Rodopi), Samuel Beckett and Trauma (Manchester University Press) 、共著に『ベケットを見る八つの方法―批評のボーダレス』(水声社)、『サミュエル・ベケットと批評の遠近法』(未知谷)などがある。