第一部

言葉の外の言葉に出会うこと

宇野邦一





昨年末にベケット論と言えるかどうか分からない『ベケットのほうへ』という本を出すことができて、その後では、ベケットについて何も考えられなくなるという時間が続いていますので、まずお二人に、僕の観点と全然違うところからベケットのイメージを話していただいて、それで初めて何か話が始められるんじゃないかと、そういう策略でお二人をお呼びすることにしたわけです。

まずエピグラムとして引用します。「頭は裏切る目を暴き、裏切る言葉はそれらの裏切りを暴く、靄だけが確か」。『見ちがい言いちがい』というベケット晩年の作品からです。頭は目を裏切る。言葉はそれらを全部裏切るっていうことです。靄だけが確か。いつまでたっても執拗に頭から消えない言葉です。もう一つ、ベケットの『プルースト論』の中にあります。「習慣と記憶は、時間という癌に属する」。ベケットは時々殺し文句風なことを言いますが、そういう言葉の一つです。

まずこの機会と思って、対馬美千子さんからいただいていた『The Space of Vacillation』という本を紹介したいと思います。Vacillation「揺らぎ」と訳せばいいでしょうか、振動とか揺らぎとか動揺とか。、サブタイトルは「The Experience of Language in Beckett, Blanchot, and Heidegger」。「ベケットとブランショとハイデガーにおける言語の経験」ということについて論じられている、大変な奥行きとスケールを持った論文で、対馬さんの博士論文が本になって公刊されたものです。これをいただいてからもう20年近くになるんですけど、時々いろいろなところを読んできたんですが、英語の長い本は、よっぽど決意しないと読み通せないので、今回ようやく通読して、昨日「今ごろになって、すみません」というお詫びのメールを書いたんです。

この三人のあいだに、どういう関係があるんだろうと思われる方も多いかと思うんです。ブランショとハイデガーについては、ブランショのことをある程度読んでいる方なら、ブランショとはフランスにおけるハイデガー哲学へのたいへん本質的な応答という面ももつ、ある意味ではハイデガーのフランス版というようなところもある書き手と思われてきたでしょう。同時に、僕は昨日こんなことを思ったんですね。埴谷雄高はドストエフスキーを高く評価した。しかし埴谷の作品には、ドストエフスキーの生々しさ、肉体性というものがほとんど臭わない。無臭の貧血のドストエフスキーみたいなもの、そんなことがいわれてきたはずです。そこで貧血したハイデガーがブランショ、そういうイメージかな、とちょっと夕べ思っていたんです。これは決してネガティヴな意味でいうわけではありません。

ブランショとハイデガーは大いに関係があるわけですけど、端的に言って存在問題というもの、存在と存在者が違うという、そういう存在問題はブランショが、独自に掘り下げていったことだと思います。この二人の隣にベケットが来ると、どういうことになるんだろう。ブランショはいちはやくベケットの小説を評価して、非常に本質的、先駆的な作品論を書いています。最初にベケットの核心をちゃんと見抜いた人のひとりです。

ところで、ブランショ、ハイデガー、ベケットにとっての言語の問題を横断的に考察した対馬さんの発見は、その三人には全く共通したvacillation、揺らぎというものがあるという指摘なのです。ベケットにおいて、さっきの引用でも示されたように、見ることが思考によって裏切られる、あるいは見ること、思考が、言葉によって裏切られる。それぞれの裏切りを通じて何が起こるか、そこに見え隠れする、見える、あらわれるもの、あらわれるということは隠れるということでもある、こういう両義性がずっとベケットの作品についてもあります。この両義性が、揺らぎでもある。ある限界状況の揺らぎが問題になっています。

『わたしじゃない』というような作品では、舞台の暗闇の中の唇だけにスポットライトが当たっていて、その唇だけが演者であるという不思議な作品で、「この声は私の声なの? 私の声じゃないでしょ」という自問自答を延々と続けるという作品なわけです。ベケットの作品の、特に晩年のビデオまでに至る展開を見ていくと、声、思考、言葉というものが、声と言葉、思考と言葉、思考と声が、たがいに全然溶け込まない、一致しないという状況が執拗に描かれていて、これがオブセッションのように、ベケット的問いとしてずっと繰り返されます。

こういうベケットの両義性、断裂というものには、当然揺らぎというものがあらわれるわけです。こういう体験の中で言葉も視覚も限界状況を呈し、意味も知覚も絶えず揺らいでいる。ブランショについても、小説や『文学空間』のように特異な批評的作品の中で、どういうふうに彼が揺らぎvacillationを問題にしていたかということを対馬さんは取り扱っておられます。例えば死刑宣告『L’arrêt de mort』という小説があります。ブランショが死とは何かということを突き詰めて書いた、きわめて密度の高い小説です。arrêtというのは停止、宙吊り状態を意味すると同時に、arrêtというのは宣告であり、決定ということ。つまりそれは決断であり、決断不可能であるというんです。宙吊りなのですから。こういうタイトルにもあらわれたような、きびしい揺らぎの思考があった。

ハイデガーでは、やはり存在が露わになる、そして隠されるというふうに、アレーテイア(真理)がどういう両義的な様相をとってあらわれるか。ハイデガーのZwiefalt二襞、二つの襞というもの、──襞というのは当然一つのものとしてイメージすることは難しいわけですけれども──『モイラ』というハイデガーの本の中にこの襞について書かれたところがあって、ドゥルーズのライプニッツ論である『襞』という本も、ライプニッツだけでなく、ハイデガーの「襞」を念頭に置いている。対馬さんの考察では、こういったことが、彼らに共通の限界的体験におけるvacillation、揺らぎとして浮かび上がってくる。ほとんどこのことだけに的を絞って、ブランショとベケットとハイデガーの思考の核心を考察して、そこに問いを集中させていることで強い印象が結ばれます。日本語でハイデガーを読むと誰でもやはり大変な思いをする。ドイツ語で読んだほうがはるかに楽なんだそうですけれども、それだけドイツ語を勉強する時間が要ります。ハイデガーの問いを、的確に絞り込んで、ほかの二人とつきあわせることで、ハイデガーの思想もとても明晰に把握されていると思いました。

僕にとっては英語の本を読みとおすことも、よっぽどその気にならないとできないことなんですけれども、その英語の遠さというものが、ある遠い位置に、フランス語、日本語で接してきたハイデガーやブランショやベケットと違う言語空間にvacillationの形を描いているというふうに読めて、とても納得がいったわけです。是非この本を日本語にされたらいいのではないかと思っています。

対馬さんの本の結論のところでは、ハイデガーの後期の思索を凝縮した『言語への途上』という本がとりあげてあります。ヘルダーリン、それからトラークルのような詩人を読み込んで、詩とともに思考したものですが、『存在と時間』よりも、むしろこちらのほうに焦点を当てておられることも印象的です。ハイデガーは、それこそ西洋哲学史を総括するような広大なスケールで「存在」という言葉に、大変な重量を込める思考をした人で、その重さが今では、彼のナチの肯定、ナチへのアンガージュマンとどうしても結び付いてしまうので厄介なのですが、しかしこの『言語への途上』を読むと、ハイデガーがちょっと別の顔をしているわけです。そのように僕には見えます。

そのハイデガーからの対馬さんの引用を、ちょっとこんなふうに訳してみました。

「どんなときに言語はみずからを言語として語るのだろうか。実に興味深いことにそれは、われわれが自分にかかわり、自分を夢中にし、自分を抑圧し、あるいは奮い立たせる何かについて、適確な言葉を見出せないときなのである」

これ自体、非常に逆説的な思考です。言葉が見つかりません、どう言っていいか分かりません、というまさにそんなときに、われわれは言葉の正体に出会っている。言葉と出会えないときに、われわれは言葉と出会っているという。これもvacillationです。この逆説、もう聞いたようなことでもありながら、少し違うようです。言い得ない何かに出会ったとき、われわれは言語に出会うとは、言語の何に出会っていることなんだろう。われわれの内にあった親密なものであった言語が、もはや親密ではない。あるいは親密でありながら、外に出てしまった。言語のそういう存在に出会ってしまった。「言語存在」に出会うというか、ドゥルーズはそういう言い方をしたことがあります。無意味なものに直面しているようだが、このときわれわれは言語存在に出会っている。ただ意味とともにあるとき、われわれはいわば言語存在を忘れているとも言える。

このこと自体を掘り下げていくこと、こういう問題の立て方は、ちょっとデリダ的でもあります。デリダこそ、まさに現れるということは隠れるということだというような両義性を論理化していた。デリダの「脱構築」がハイデガーから来ていることは否定できないし、デリダ的な逆説的論理を、対馬さんも踏襲しているように見えないことはないんですが、やはり違うと思います。これはデリダとドゥルーズの思考法について、僕がどういうふうな印象を持ってきたかという話になるんですけど、ドゥルーズはほぼ一貫して、こういうものの言い方をしないわけです。時々するように見えるときもある。そのときにも、現れつつ隠れるとしたら、もう一度そこで、現れているものは何で、隠れているものは何でというふうに、その先を概念化しようとします。脱構築という手法は、その逆説を、vacillationの論理として、論理の水準にとどめておいて、その先の実践を考えようとしない。もちろんデリダの問題提起の仕方からも刺激を受けたことがあります。しかし脱構築が論理の水準で、どんな対象にも、同じように適用できる手法と見えてくるようになりました。

対馬さんの書いていることをずっと読んでいくと、それが論理的両義性という水準のことではなくて、何がそこに結晶するか、何が起こり、どんな形を取るかということが書いてあるように思います。

一番印象的だったのは、ハイデガーが、トラークルの詩の中に「石」という言葉が頻繁に使われていることに着目して、この石とは何か書いているところ。石は、ある種の両義性である。石とは何かを保持し、保存している状態です。この石は石になったもの、石化(pétrification)とは何かが何かの形を取ったということでもある。保存するということでもあるけども、それはいつでも解体し得るというニュアンスが当然あると思います。ちょっと僕が勝手に展開していますけど、そういうふうに石といわれたものが一つの具体性として、単に揺らぎじゃなくて、その揺らぎがどういう形を取り、また解体させていくかというところまで進んでいくという一つの例だと思います。ブランショ、ハイデガー、そしてやはり中でもベケットは、この限界的な両義性とともにある、いろいろなイメージを与えてくれるわけです。

ベケットは、ある種の大変ユニークな哲学者でもあったんです。

少し寄り道になりますけど、ベケット研究にとって最近の事件とも言えるでしょうが、『Philosophy Notes』という、とんでもなく分厚い本が出たことです。ベケットは若いとき──ほぼ1930年代、『マーフィ』などを書いていた時期にこういうノートを作成していた。『マーフィ』の至るところにライプニッツ、あるいはスピノザの影響が感じられますが、ベケットはこの時代にヴィンデルバントというドイツの哲学者の本など、哲学史の本を精読していて、じつに大真面目に哲学の学習に打ち込んでいたようです。この『哲学ノート』が出てきたときには、どんなものだろうと胸騒ぎがして、とにかく読まなきゃと思いましたが、手に取って拍子抜けしたのは、ほとんどがヴェインデルバントの哲学史を書き写した覚え書なんです。コピーなんかない時代ですから、ベケットは勉強もかねて、自分用の哲学便覧みたいなものを作っていたわけですね。それぐらい哲学に関心を持っているわけですけど、これはちょっとおかしな話で、ベケットは本格的に哲学者になろうとしていなかったという証拠でもある。哲学をしようという人がそんなに哲学史の教科書的な本を書き写したりしますか。むしろ尊敬する刺激的な哲学者を踏まえながらも、自前の思索を書こうとするでしょう。ところが、ベケットは、ただ生真面目な学生のような作業をやっているわけです。

そういうふうにして哲学史の図式をしっかり頭に入れていたが、しかし本人は哲学的な文章をほとんど書かない。若いベケットは文学的評論のほか、絵画や音楽についても書いていますけども、本格的に書くのはやっぱり特に小説なわけですね。『マーフィ』『ワット』、やがて戦後すぐにはベケットのコアと言ってもいい三部作『モロイ』『マロウン死す』『名づけられないもの』にのめりこんでいくわけです。今ではそういうノートも出てきたせいもあって、ベケットの作品を逐一、ここはライプニッツ、ここはパスカル、ここはデカルトというふうに哲学的表現として精密に読みこんでいく研究も出ています。

 今日、皆さんにコピーをお渡ししたのは、『How It Is』(英)、『Comment c’est』(仏)、邦訳では「事の次第」と訳されている作品の新訳を試みた冒頭の部分です。『事の次第』とは、how it isですから「どんなふう?」と題を変えています。あの三作を訳した後に、性懲りもなくもう一冊何か訳したくなってしまったんですね。やはりその後の一番難しい作品を訳すしかないだろうと決めて、今ほぼ訳し終えたところですが、これも怪物的作品で、自分の訳稿を見直すたびに狼狽します。

こういう作品にいたるまでの哲学的軌跡を振り返ってみれば、ベケットは特に17世紀の哲学にかなり造詣が深かったようで、たとえばデカルトをからかうパロディーみたいな詩を、修業時代に書いているわけですね。デカルトは腐った卵─ゆで卵ですか─を好んで食べていたというような詩を書いたりしている。それ以上に頭に入っていて、好んでいたのがライプニッツですよね。恐らくライプニッツが一番だったんじゃないかと思います。『マーフィ』などは、確かにモナド論の発想が下敷きになっているようなところがあります。

しかし、ほかにスピノザはもちろん、同時代のフランスの哲学者マルブランシュ。それからゲーリンクスというオランダの哲学者に関心を持った。特にゲーリンクスが大好きで、この人の書物を読んで詳細なノートを取っていて、一冊本を書こうとしていたようですけど、これは実現していないんです。ゲーリンクスは、デカルト主義者であっために大学を首になったりしたようで、デカルトの影響を深く受けながらも、デカルトの心身問題について疑いをもったわけです。デカルトは典型的な二元論者として、心身を分割する。頭のなかの松果腺という部位を通じて精神と身体はつながっているというのですが、デカルト自身も、じつはこのことに関しては非常に曖昧な態度を示しているというふうにいわれています。

マルブランシュとゲーリンクスにとっては、精神と身体は結び付きようがない。どこで結び付くか分からない。結局神が心身を結び付けているのであって、全ての事象の原因は神なのだから、全ての事象の機会となるのは神なのだから、というふうにして、いわゆる機会原因論(オカジオナリスム)を唱えるようになった。デカルトから神学に後退したようにもみえますが、こういうふうに考えていくと自由意志は完全に否定されるわけです。さっき自由という言葉が松田さんから出ましたけれど、ベケットの自由、そしてもちろん不自由の問題について、松田さんが論じたわけですけど、おそらくベケットの哲学の最大の問題はこれなんじゃないかと思います。不自由、自由、自由意志はあるかということです。自由意志を否定するからと言って、もちろん自由を否定するとは限らない。ベケットにも頑固な機会原因論者のようなところがありますが、そもそも自由に強い関心がない人が、こんなことを考えるはずもないでしょう。

スピノザ『エチカ』では、スピノザは心身並行論ともいいますけれども、心で起こったことは全部身体で起こったことである。逆もそうである。ですから、心が身体の原因になるとか、身体は心の原因になるという考え方はスピノザにはありえない。だから、意志が身体を自由に動かすということはあり得ないわけで、自由意志がないという考え方はベケットに適合するわけです。

機会原因論者ゲーリンクスの文章は、ベケット的ユーモアがあるという感じがするので、僕の本の中でも引用していますけど、どこかベケットと相性が良かったようです。たとえば、この世界の人間は船に乗っているようなもの、船の甲板の上を歩いているかぎりは、自分の意のままに東にも西にも行くこともできる。しかしそもそも、船がどこにむかうかは神が決めること、人間はその船に乗って運ばれていくだけである。船が西に向けて運行していれば、それに逆らうことはできない。そんな比喩を持ち出して、とにかく自由意志はない、人間という主体は行為の原因ではありえない、ということを徹底的に言っています。そのように発想すれば、『ゴドーを待ちながら』の人物もそのような状況を生きている。一番、自由意志がないように見えるのは奴隷のようなラッキーかもしれないが、ラッキーだけではない。

そういう状況を切り詰めていって、強制収容所のような場所で人がうろうろしているだけの『人べらし役』という、ベケットの奇妙な散文があります。巨大な円筒の中に200人ぐらいがいて、食べるものは、どこからくるかなんて全然書いてないんですけど、何もすることがない。ただ梯子があるだけで、壁の中には所々穴が空いて、その穴に登って休んだり、瞑想したりできる。それで梯子に上る番を待っている、競っている、諦めている。それ以外にすることはないという、そういう仮想世界を執拗に描いた50ページぐらいの小さな作品です。

もう一つは、もちろん「待つこと」というテーマでしょう。待つという状態それ自体を演劇のテーマにする。待ちながら何もしないということ、その時間自体をテーマにすること。待つということは誰かを待つことであろうけれど、待っているうちに誰を待っているかも、何をしているのかも忘れてしまう、とにかく誰を待っているかはこの戯曲の中には全然提示されない。ベケットの『神曲』「煉獄篇」の中で煉獄前域という――煉獄そのものが天国の前域なのですけど――その煉獄の前に入り口があって、そこの前庭みたいな所でずっとうなだれて坐ったまま、これはベケットの人物の典型的ポーズなんですけど、膝を抱えて間に頭を埋めてしまっている。ベラックワはダンテの近所の楽器職人だったらしいですけど、死ぬ前に悔い改めなかった罰にここでしばらくもう一生分の時間待たされている。『人べらし役』の中の人間たちは、みんなベラックワみたいなものなんだという一節もあるんです。

松田さんは「現前」という言葉を使いましたが、この待つということの中で現前するものがある。でも、これは何も現前しないという現前でもあるわけです。現前するものは一つもない。そういう状況の中で現前そのものが別の表情を帯びる。さっき対馬さんが言われた「日常」という言葉は、ひるがえって強い意味を持っていると思いますけど、待つということは可能性を放棄することであり、日常とは可能性の外にある。ドゥルーズが『消尽したもの』で、断乎として、可能性というものを退けるということ、あらゆる可能性を排除し、何一つ可能じゃないという状態を作り出すということを書きましたが、これが「消尽」ということで、可能性ではなく、潜在性が必要なんだという。これは「報われない」ということと関係があります。可能性ではなく、潜在性にかける、というドゥルーズ最晩年のテクストは、諦念のようではなく、きわめて断乎とした立場を示したものでした。

ベケットの人物は、ほとんどがホームレスのようで、まさにモロイは典型的、マックマン、マロウン、名づけられないもの、ますますホームレス状態。ホームレスって何なんだろう。ホームレスって、棲み家をもたないということがホームレスなのか、あえて「乞食」といいますけど、人が乞食になったら、まずどうやって食べる、食いつなぐかということを考えなくちゃならないだろう。最後の可能性の追求。自由意志のことを言えば、乞食になったら、もう自由意志ばかり、自由意志しかないと言えるのかもしれない。いや自由か自由でないかも問題ではない。何一つ約束もない、予定も仕事もない。乞食になるということの理由はそれなんだろう。要するに可能性を放棄したい。誰かと待ち合わせる、ホームレス状態同士が待ち合わせとは、そんなこともあるかもしれないけど考えにくい。乞食が時計を持っていたらおかしいだろう。時間がないなんて。時間がせまっているなんていうことも。自由意志を放棄したならば時間も空間もない。ついでに因果性もない。これはベケットがどこかに書いていたことです。意志というものがなかったら因果性なんていうものもなくなる。何かが起きたから、何かが起きた。何かが起きたら、何かが起きた。さらに別の何かが起きるという可能性の話でしかない。

演劇を通じて、書くことを通じて、そういう状態を追究してみたが、そこにもやはり現前するものが確かにあった。それをまだ時間というか、日常というか。ドゥルーズは、可能性を放棄したところにあるのは潜在性である、というふうに言っているわけです。何かしらそこにあるものが形を取ってあらわれる。石。トラークル、石の両義性。演劇さえもまだあまりにも可能性の空間だけれど、あえてそういう演劇を追究して、潜在性の表現をそこに託したというベケットの試みがあったんじゃないかと思います

もう一つ、最近思っているんですが、『Philosophy Notes』を書いていたベケットの哲学とは何だったかということ。ベケットはハイデガーについてほとんど何も語らないし、ベケットが読んだ哲学史は20世紀初頭でとぎれているせいもあるけど、実存主義なんてちょっと出てきたかしら、現代哲学の話はないわけです。そもそもベケットは、決して新しいもの好きというわけじゃないわけです。おそらく彼の哲学は17世紀で十分なんです。カントやヘーゲルについてもそんなに語っていないわけです。彼が作品の中で扱ったのはあくまで17世紀の哲学者たちで、17世紀は十分複雑で切実で、奇妙な面白い論争に事欠くことはなく、矛盾に満ちて、常に新しく実に古い伝統も保存しているという点で、古びないものです。

そして文学のほうでも最高なのは、知り合いでもあった、お手伝いもした、娘と恋仲にもなった─ベケットのほうはあんまり真剣ではなかったみたいですが─ジョイスがいます。ジェイムズ・ジョイス以外の最大の文学はダンテで、ベケットはそんなに新しいものは好きじゃないんですね。愛読した小説のひとつは、十九世紀ドイツの作家フォンターネ『罪なき罪』、まったく清楚な一女性の結婚生活のメロドラマだったりします。

ベケットは新しさにつかず、その遅れた分だけ新しい。変なことを言いますけど、遅れた分だけ新しい。松田さんが思い出させてくれましたが、ロブ=グリエもとても新しく見えた作家だったけど、あまりに新しすぎて、今ではちょっと忘れられちゃった。ベケットはなかなか忘れられない。ベケットの生きた時間差というものが何か不思議に作用しているような気がします。

宇野邦一

フランス文学者・批評家・前立教大学映像身体学科教授。身体論、身体哲学を焦点としながらエセーを書き続けている。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『映像身体論』(みすず書房)、『政治的省察』(青土社)、『ベケットのほうへ』(五柳書院)、訳書にドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』、アルトー『神の裁きと訣別するため』(河出文庫)、ドゥルーズ『フーコー』『襞』、ベケット『モロイ』、『マロウン死す』、『名づけられないもの』(河出書房新社)などがある。