北龍峡Night──舞踏派背火及び北龍峡関係者によるお話

岡本 進行を仰せつかりました岡本です。ずっと昔、室伏さんと踊っていた人間がつどって思い出話を、との趣旨にしばらくおつきあいを願いますが、ひとつお断りしておかなければなりません。室伏さんの傍らで密度の濃い時間をすごす幸運に恵まれたわれわれは皆、敬意をこめて、室伏さんのことを本名の「木谷さん」と呼ぶのが習いでした。よってこれからの話のなかで「木谷さん」とあったら、それは室伏さんだとご承知おき願いたい。いや、いっそ今夜に限って木谷さんで通すことをお許しいただきたく存じます。
初めに大先輩の稲生さんに口火を切っていただきます。稲生さんは1974年に大駱駝艦に加わり、当時、制作のトップとして辣腕をふるっていた木谷さんの下に付き、木谷さんが舞踏派「背火」として独立したのちは木谷さんから大駱駝艦の制作を受け継ぎ、ご自身の退団後もずっと木谷さんを支え続けてこられた。木谷さんからの信頼がとりわけ厚く、ここにいる全員もたいへんお世話になりました。
ではまず、大駱駝艦に参加することになった経緯からお聞かせください。
稲生 私は1950年に九州の博多で生まれ、上京後は大学の哲学科に進みました。ちなみに私が受験した年、東京大学の入試はありません。だから東大に行かなかったという話ではなく(笑)、高校の頃、佐世保に原子力空母エンタープライズが寄港して大騒ぎになるなど、たいへん荒れた時代が続いていたんですね。大学に入ったものの、ストライキとロックアウトでほとんど授業がないような有様で、私もアルバイトに明け暮れるほかなかった。そんな状況での楽しみは映画や芝居を観ることぐらいで、そこで出合ったのが、たとえば麿さんが土佐の絵金(以下、註。高知県に生まれ、江戸末期から明治にかけて活躍した浮世絵師で本名・弘瀬金蔵。歌舞伎や浄瑠璃の、とりわけ陰惨な場面を二ツ折りの屏風に描いた芝居絵や絵馬提灯で知られる)役で主演した映画「闇の中の魑魅魍魎」(71年)でした。監督は中平康。カンヌ国際映画祭に出品してるはずです。秋田弁で喋る、真っ黒に日焼けした土佐の漁師が出てくるんですけど「この役にふさわしい奴、誰かいないか」と中平監督に持ちかけられ、麿さんが土方さんを引っぱりだしたと聞いています。まあ、そういった鮮烈かつ斬新な表現が街じゅうに溢れていた時代で、大学を出てすぐ大駱駝艦の門を叩きました。もちろん踊りをやりたかったわけですけど、どういうわけか木谷さんに可愛がられて、制作部に属すよう促され、あれやれこれやれと次から次に難題を持ちかけられた。(笑)
岡本 同期はどなたです?
稲生 1カ月前に入団したのが同郷の宇野三津夫(のちに萬)、2週間前が鳥居夷、半年後に原田南店。練習生で古川あんずが来てました。田中陸奥子、蛭田早苗は私より前です。
そういえば、入ってすぐ木谷さんから、今度、池田(カルロッタ池田)さんを中心とした女性だけの会を立ち上げるから手伝えと命ぜられました。アリアドーネの會と命名したのは木谷さん。私は団員募集のチラシを作り、それをあちこちに配布したものです。
岡本 初舞台は?
稲生 多摩川の河川敷の土を慣らして畳を持ち込み、望月澄人さんが大きな龍の絵を描いた戸板を背景にして踊った野外公演、1974年の「皇大睾丸」ですね。4週間、週末のみ全8回の上演予定だったのが、7回目の土曜に記録的な豪雨に見舞われ、大洪水と化して舞台用のジェネレータ(発電機)など一切合切が流された。たしか赤字が7、800万円ありました。畳って濡れると重いんですよ。大雨に打たれながら水に浸かって重たい畳を運んでいるうち、助かりたいのか、ありとあらゆる虫が体にタカってきて参りました。翌日、氾濫した川にピアノが流されてゆく光景を今も鮮明に覚えています。それに同情したのか、その年の舞踊批評家協会賞を貰いました。駱駝が初めて授かった公的な賞じゃないでしょうか。私と田村哲郎が金粉を塗って麿さんに付き従っている授賞式の写真が残ってますよ。
そのあとが「男肉物語」(74年。命名は土方巽)、「蘭鋳神戯」(75年)、「嵐」(76年)、「象牙令」(77年)。次の「風さかしま」(78年)を最後に辞めました。ちょうど駱駝が大森・山王から練馬の豊玉伽藍に移ることになったのを潮に「私はもうこの辺で失礼します」と。残るよう麿さんにしつこく説得されましてね。結局、6年あまり踊った勘定ですが、私が知っている限り、たった5、6年の間で大駱駝艦の稽古場に足を踏み入れたのがざっと80人ほどおりました。
岡本 制作から情宣活動、舞台の大道具・小道具作り、それから学校や盛り場に出てポスターを貼ったりチラシを配ったり、と多忙を極めるさなか、当時はまだキャバレーが健在でしょう? 当然、ショーの仕事もこなしていらした。
稲生 それがわれわれの原資ですから。当時、ショーの仕事は勝木プロダクションの差配で、もっぱら金粉ショーを中心に全国を旅しました。大切な仕事でした。5人組が「カーマスートラ」、3人組が「エロスパンドラ」か、そんなチーム名で、金粉ショーは頭数さえ揃っていれば誰でもいい、メンバーチェンジ自由な点も非常に面白いんです。あの頃、磐光パラダイス(福島県郡山市にあった磐光ホテルの大広間の愛称)という、舞台で使う松明の油が引火した火事で土方さんのお弟子さんが亡くなる悲しい出来事があったスペースが「磐光名物・金粉ショー」を看板に掲げ、不幸にもめげずに呼んでくれて、経済的にずいぶん助けられました。当時のスポーツ新聞が「天賦典式」(大駱駝艦の公演の総称)について「年に一度のキャバレー芸人のお祭り」みたいな書き方をしていて、実際、自分は舞踏をやっているのか、キャバレー芸人なのか、わからなくなってしまった人間も何人かいました。
岡本 じつは、稲生さんは日本の舞踏史に燦然と輝く貢献をしておられる。木谷さんが起こした背火、天児さんが率いた山海塾、そのどちらもの名付け親が稲生さんなんですね。
稲生 一応、麿さんということになってるんだけどね(笑)。麿さんは座長大会、旅芝居の座長さんが年に一度集まって盛大にやる、あれが好きで、皆、座長になって、ひとり一派で独立するよう発破をかけていたんですね。最初はグラン・カメリオと名乗っていたけれど、一平(ビショップ山田の本名)さんが北方舞踏派として分派し、北に行くんだと言い、山形県の鶴岡に拠点を移した。それが最初です。わざわざ九州から出てきた身としては、なぜわざわざ北の田舎に行くのか不思議でしょうがなかった(笑)。後付けですが、もとより土方さんが秋田出身、日本の根源には田園地帯、農村があって、そこから汲み取るものがたくさんあるんだろうなというふうに理解はしましたけど。
木谷さんについては、稽古場にいた際、麿さんからどんな名前がいいか相談されて、木谷さんは火と戯れて踊るのがとてもよく似合っていたんで「火が付いてるのがいいんじゃないですか」と。それで拝火教(ゾロアスター教、ドイツ語でツァラトゥストラ!)を連想させる、背中の火、背火でいいんじゃないか、フランス語でもセ・ヴィ(C’est〔la〕vie )って言うし(笑)って話になって、「じゃあ木谷に電話せい」と。最初は変な顔をしてましたが、木谷さんも「ま、いいか」みたいな調子でした。
天児さんの場合、最初は稽古場の地名にあやかり山王塾と付けたがっていると聞きました。大駱駝艦・山王塾と。そこで私は「せっかく独立するのだから大駱駝艦はいらんでしょ」と言って、山王より山と海で、山海塾。踊りのネタに困ったら「山海経」(せんがいきょう。前4世紀から3世紀頃に書かれた古代中国の地誌・博物誌)を開けば、ありとあらゆる化け物が出て来るし、とか何とか並べ立て、麿さんも納得して決まりました。
岡本 続いて西川さんに伺います。西川さんは鷲見翔の名でもって背火の北龍峡での2回目の公演「常闇形」(77年)から木谷さんと踊り、背火の制作も担っていらした。
西川 今チラッと名前が出た北方舞踏派の、山形・鶴岡での旗揚げ公演「塩首」(75年)を学生時代に観、衝撃を受けたことできっかけした。その後、アスベスト館にも通うようになって、そこで背火の合宿のチラシを貰ったのがそもそもの始まりです。
稲生 そのチラシを作ったのが私(笑)。背火の旗揚げ公演「虚無僧」(76年)を終えて北龍峡に残っていたとき、舞踏集中合宿を10日間やって人を集めようという話になり、私が任されることなった。そこに西川君とか7、8人が参加してくれて、一所懸命シゴキました。
西川 シゴかれました(笑)。あのときの断髪式とかを朝日新聞などがけっこう取り上げてくれたものだから、これは辞められん、抜けられなんぞ(笑)と。そして東京に戻るなり、木谷さん、池田さんが本当にいい加減に作って、あとアダージョが上手だった鳥居さん、稲生さんにも手が空いた時間にちょっと見てもらう程度で、音楽も構成もなかなか決まらないまま、民(中嶋民枝)と僕と、あともうひとり女の子の3人、さっそくショーに飛ばされました。北方舞踏派が鶴岡から小樽へと移した拠点「海猫屋」に泊まらせてもらって稽古をして……真冬でしたね。
ですから僕は北龍峡を作る過程には参加していません。一から北龍峡を作ったのは稲生さんたちです。
稲生 76年の夏に木谷さんから「ちょっと手伝ってくんない」と頼まれ、九州の高校の大先輩で、土方さんなり駱駝なりとも関わりが深かった建築家・商業デザイナーの矢野眞さん一党、そのとき参加してくれた足立(政司。矢野眞一門の建築家)が(席を指さし)そこにいますけど、私も友人や後輩を引き連れて福井県の五太子に赴きました。廃屋に寝泊まりしながら無住の養蚕農家を自分たちの手で劇場兼稽古場に改装するためです。なので翌年「虚無僧」でこけら落としをした際、3日間で1000人くらいのお客さんが観に来てくれたときはうれしかったですね。
西川 稲生さんたち先輩方には全部自分たちで一から作り上げた生々しい記憶があるから、よく言うんですね。「そろそろ冬だから(北龍峡を)雪囲いしてこい」と。そこで隣にいる加藤とふたりして行くんですが、基本的にお小遣い、くれないんですよ。お金がない、食べるものもない。裏に大根があったのと、あと、なぜか焼酎の大瓶だけがあったので、ふたりして大根を齧って焼酎をあおり、寒さをこらえて眠る。怖いから夜は小便にも立てない(笑)。ただ、僕らの活動を応援してくださる女性、越前陶芸村の方がときおり「生きてるか」みたいな感じで差し入れしてくれたり、隣のおばちゃんに御飯を食べさせてもらったり、お風呂を借りたりして何とか生き延びました。そうこうするうち北龍峡に愛着が湧くじゃないですか。ところが、木谷さんはいつも「西川、いいんだよ、こんなモノ。ここを拠点にするわけじゃない、どこに行ったっていいんだ。あくまでひとつの手段なんだから、ここに縛られるな」と言う。
加藤 そのわりにすぐ「雪囲いに行け」って(笑)。
西川 作ったものは守れ、みたいな。そういえば、木谷さんは本が大好きでしょう。それで、公演のタイトルが決まるまでアパートで本を読んだりしている姿には凄まじいものがありましたね。ポスターのデザインを手がけていらした田村(正治)さんが訪ねてきて「まだ決まりませんか」と催促するのが常で、アリアドーネの會の「刺青」(78年)とか、決まるまで四苦八苦する姿が本当に凄かったです。近所の喫茶店に5時間くらい粘り、煙草を2箱空にして、僕が煙草を買いに行って。いつも言うんです、「そこに思い出や思想が込められていないなら、やってもしょうがない」と。「お前は何がやりたいんだ」と正面きって尋ねられると、困っちゃいますよね、若造は。
加藤 よく聞かれましたね。
稲生 背火のメンバーを募集する際、「こんなことやりますよ」というのを木谷さんと僕とで適当にでっち上げたんです。「山岳跋渉(さんがくばっしょう)」とか「七里術(ひちりじゅつ)」とか。
岡本 大駱駝艦系の募集には、その手の奇怪な文言が満載でしたね。「ベルメール体」とか。ハンス・ベルメールらしいんだけど。
稲生 そういうのをいろいろ提案して、そこからイメージを湧かせて形にしてゆく作業を稽古でやらせる。そういう発想なんです、僕たちの踊りは。アダージョの中で「マンボ」と言ったらこういうふうにやるとか、ショー絡みにはノウハウが確立されものもあるんだけれど、基本はそのつど煮詰め、形にしていく作業がすべて。土方さんはひとつひとつの振りが言葉と厳密に対応していますが、僕たちとそこが違います。
とにかく知的でインテリジェンスの塊、強靭な人でした。私が木谷さんから読むよう薦められたのが、まず吉田一穂の「極の誘い」。難解な詩論集です。それから、シオランの「生誕の災厄」。「実存の誘惑」だったかもしれませんが、これ読めと。生まれたこと自体を否定しているような思想で、読むのがとても辛かったです。そのほか鉄門海上人という即身仏になった先人のこと、土方さんに弟子入りしたときのこととか、面白い話をたくさん聞きました。
木谷さんと一平さんは早稲田の同期で、ともに土方さんに入門を願い出たんですね。そうしたら土方さんから「乱交パーティ用の肉体がほしいので、お前ら入るか」と。そのあと映画「温泉ポン引き女中」(69年。荒井美三雄監督作品)に出演したんじゃないかな。「恐怖畸形人間」(69年。石井輝夫監督作品)では、ぶら下がって回されるゴムマリ人間を演じていた。私はたまたま観ていて、凄い身体の持ち主がいるなという印象が強く残っていました。
岡本 西川さんが木谷さんと最後に踊ったのは何になりますか。
西川 たぶん、モダンダンスの竹屋啓子さんの会に客演して草月ホールで踊った(79年「安達原」)のが最後だと思います。竹屋さんのご主人(河野潤)の発案で、あの頃は木谷さんのほかに男がまだ4人くらいいて、福井でこしらえた蓑に隠れ、そのまま吊るされて。
加藤 開場30分くらい前から、客席からは姿が見えないようぶら下がって。
西川 いつ始まるのかわからないまま吊るされて、「暗転して音が変わったら、とにかくドーンと落ちろ」と。落ちてようやく踊りが始まるんですが、これがけっこう高い。でも山海塾はもっと厳しい。足を吊って逆さのまま10分は平気で待機してましたから。僕、山海塾でなくて本当に良かったです。あ、そのあと豊玉伽藍のこけら落としで駱駝がやった舞台にも、僕、木谷さんと出てました(79年「貧棒な人」)。そのときは山海塾も出演していて、逆さ吊りのシーンがあったのを、今、思い出しました。
稲生 高田(悦志)君も同じ福岡出身で、私が作ったメンバー募集のチラシを見て、森田(蝉丸の本名)、川上(滑川五郎の本名)とともに山海塾に加わってくれました。その高田君が(逆さ吊りの最中)シアトルの不動産屋のビルから落ちて亡くなったときは本当に悲しくてやりきれませんでした。
西川 まだ稲生さんも駱駝の、僕も背火の制作をやらせてもらっていた時期、高田も山海塾の制作に携わっていて、何となく仲が良くて、よく飲んだりしました。それだけに、僕も途方にくれるほかなかったです。
稲生 勝手な話ですが、この間たまたま「落下の王国」という映画を観ながら考えていたのは、落ちていった数秒間、20メートルくらいですか、その瞬間、高田君は何を思っていたんだろうということ。それが今でも気になってしょうがない。嘆きの壁でも吊るされていた。今ではとても信じられませんが、テルアビブでも逆さ吊りをやった。同時代人として、山海塾の偉業には頭が下がるばかりです。
岡本 加藤さんは当初、富一虎という名で「常闇形」から背火で踊り始め、そのあと加藤一虎と表記され……。
加藤 そうそう(笑)。ヨーロッパに行ったときは本名の加藤俊明になっちゃった。大学を卒業したらどうしようと思い悩んでいた時期、あそこにある(会場内を指さし)チラシ、北龍峡を降りたところ、「ニジンスキーの岩」と呼んでいた岩をあしらった2回目の合宿のチラシが学食に貼ってあって、卒業してすぐ働くのも嫌だし、何か面白そうだなと思って参加したのが発端です。3月のまだ寒い時期、集合場所は大森の稽古場。いきなり麿さんとか(古川)あんずさんが出迎えてくれた。「どんな奴が来るんだろう」って、きっと興味津々だったのでしょう。そして「行ってらっしゃーい」のあとハイエースに乗っけられ、夜中、いきなり北龍峡まで。
稲生 さらわれた(笑)。
加藤 豪雪地帯にさらわれた。すでに西川さん、それから木谷さんも掃除なんかして待機してました。それから唐突に頭を剃られ。
岡本 頭を剃られ、眉を落とされ。その瞬間、人非人になっちゃう(笑)。もう元には戻れない、突然社会から脱落して、そりゃヤケッパチにもなりますよ。
竹内 喧嘩、売られたよ。「人をふたり殺してる」って奴に絡まれたときは焦った。
岡本 僕も、夜遅く山手線の吊り革につかまっていたら、前に座ってたチンピラふうの兄ちゃんがすぐにどいて、「いつもお世話になってます」って深々と頭を下げられました(笑)。眉なし坊主頭には凄まじい効果がある。
竹内 剃る前まで普通につきあっていたのが、剃ったとたんに眼を背ける、逸らす。あれは困ったもんだよね。
加藤 家にも帰れないし。
竹内 人格変えないと家族にも会えない(笑)。眉がない自分の容姿を把握しきれていないから、相手の反応への理解が遅れるんだよね。
岡本 玉野(黄市)さんを除き、土方さんのお弟子さんたちは坊主ではありませんよね。
稲生 そうだね、和栗(由紀夫)君にしても雨宮(光一)君にしても坊主ではないね。少しだけ髪を残したモヒカン崩れみたいなのはいたけれど。
岡本 かねてより、男衆イコール坊主というイメージを定着させたのは大駱駝艦ではないか、と、にらんでいるのですが。
稲生 それはどうかなあ。まあ雑念を払って外界と縁を切る、精進潔斎みたいなことですよね。長髪でいる状態よりも、髪を剃ったほうが頭のあたりがスッキリして周囲の気配まで感じられるようになりますから。踊るにはふさわしいと思いますけど。
西川 非常にシンプルで効果的ですよね。さすがに眉まで剃る必要があるのか、いまだ疑問です(笑)。
稲生 メイクしやすい、それだけだよ。キャバレーで踊るときも一応メイクはするんだが、眉つぶしがいらないから楽。ただ、眉がないと汗や金粉が直接眼に入るのがたまらんですよ。顔を振るときに汗をバシッと飛ばさないと、眼が痛くてかなわない。
さっき「虚無僧」の映像を見せてもらってね。2階の舞台のうしろに棚を作り、その棚に皆が横に這いずりながら行くわけです。北方舞踏派も出てましたし、天児さんもいた。われわれ駱駝の4人組は傘をかぶり、森田、川上、高田の3人は田んぼの泥を塗った泥人形と化し、芸者姿のアリアドーネの會の5人が立体的に交差して、全員が立ち止まって見上げたところで木乃伊姿の木谷さんが入った箱が立ち上がり、火がボッと燃えさかる。熾烈な趣向でした。
岡本 木谷さんが、麿さんに踊らないよう頼んだというのは本当ですか。
稲生 そう、目立っちゃうから(笑)。麿さんは演出に専念した格好です。そういえば、点火するためシンナーを仕込んでおき、火を背負いつつ木乃伊が出てくる段取りなんですけど、木谷さんがシンナーで酔っ払ってしまい、フラフラになりながらいったん上手に引っ込み、気を取り直してから改めて始めるなんてことも、2日目だったかにありました。観に来るよう村の人をお誘いしたんだけど、皆さん遠慮して、なかなかいらっしゃらない。そこで4日目を村の人のためだけの集まりにして、踊りを披露しました。子供たちが前のほうに写ってる記念写真、(この会場の)どこかに貼ってましたよ。東京からインド哲学の松山(俊太郎)さん、土方さんや芦川(羊子)さん、とにかくいろんな方が集まってくださって、昼からずっと飲んでるわけです。私はお世話係をしながら、仕込みもやる、夜は踊らなきゃいけない。たいへんでした。
公演が終わり、残ったメンバー全員が越前海岸まで車で降りて、木谷さん、上島さん、宇野、蝉丸、滑川の5人が裸で向こうの岩、さっき加藤が触れた「ニジンスキーの岩」まで泳いでいって、万歳をしたり、ニジンスキーのポーズを決めたりしたのを、風邪を引いていた私と、あと池田さんが「写ルんです」(当時流行した軽便なレンズ付フィルム)で撮った写真が残ってます。ついこの間のことみたいだけれど、もう50年以上前の話なんですね。
岡本 竹内は、加藤さんと僕が踊っていたとき、最初は裏方として手伝ってくれたんだよね。
竹内 あれは「舞踏病草紙」(80年)のときだったかな。生まれ故郷の高知の友人で茶畑という酔っ払いがいて、茶畑を通じて手伝うよう頼まれただけ。踊ることには皆目興味がなかった。
岡本 僕はそのあと逃げちゃって、その穴を埋める形で竹内が頭を剃られて。
竹内 木谷さんに言いくるめられて。よく「人買い木谷に竹内もさらわれてきたのか」って言われたもんです(笑)。
岡本 そのあと彼は山海塾に加わり、しかも今なお現役なわけですから、僕はある意味、竹内の恩人ではないかと自負しているんだけれど(笑)。
竹内 26、7歳の頃かな。いっときはワークショップなんかで、ほとんどふたりきりでイタリアを回ったりしてたんだけど、3年ぐらいヨーロッパでやって、ふと日本へ帰ってみたら、大道具関係で誘ってくれる人間がいた。そのうち山海塾の大道具もやるようになって、いつのまにか気がついたら山海塾。「竹内さ、お前いつまでも俺といっしょにやらずにさ、ちょっとは自分で考えたら」とか突っぱねておいたくせに、山海塾に入ったとたん「竹内の野郎」って。セコいよね(笑)。でも、たくさんの謎をかけ、まったく未知の世界、全然違う世界を教えてくれたのが木谷さんなのは間違いない。あと刺激的だったのが大森の寮。さっき名前が出ていた松山さんという隻腕の妙な大人がいて、ふたりで連れションしたりして。
岡本 ご近所の中西(夏之)さんとか飯吉(光夫)さんとか、世間話をせず、やにわに難問をふっかけてくる方々ばかりよくもまあ集まって。
竹内 やるこなすこと全部初めて、とにかく珍しいことづくめ。そうこうするうち、そこから離れられなくなるのよ、あまりに興味深い人間が多くいて。
岡本 木谷さん自身が強力なマグネットめいた人だしね。
竹内 江田三郎の遺志を継ぎ、江田五月と菅直人が始めた社民連の都議会議員選挙を手伝ったことがあるのよ。ウグイス男とかやって、けっこう役に立ったみたいでさ。ただ、選挙ズレした若い奴らが調子のいいことばっかり言ってるのが本当に嫌で、辞めたの。それでぼんやりしてたら、例の茶畑から「きっと面白いと思うから見に来てくれ」と誘われたのが大駱駝艦の「十二の光」(1980年、分派した一党や玉野光市をゲストに招き、月替わりで1月から12月までシリーズ上演)。その最初の頃の公演を観てさ。「いつ台詞が始まるのかな」と思いながら眼を凝らしてたんだけど、いつまで経っても台詞がない(笑)。でもね、面白かった。子供の頃、村の境内でやってる変な芝居を観たような感じ、闇に誘われてゆく感じかな。ウチは田舎で、月が出てないときなんか自分の手すら見えない暗闇があってね、いっぱい想像できたわけ。それと同じような印象にどんどん吸い込まれていって、そこから意識が離れなくなった。
でもね、あの頃は、舞台監督をやってる連中とか、皆いい加減でロクでもない輩だと思った。ウチは林業農家だから、余計「最低だな、こいつら。すぐ逃げるし、心底信用できない」って。「竹内君さ、トラックとか運転できる?」「できますよ」「4トンとかできる?」「はあ」と。こっちもまだ若かったから「できる?」と聞かれたら「できない」とは言えない。「じゃあさ、ロープの縛り方、こうやってやるだけだから」とか言われて、いきなり南京(南京結び)を教えられた。そのとき南京なんか初めて覚えたんだけど、大森からいきなり千葉まで平台を取りに行かされて。
加藤 だいたいが裏方の人たちをさ、いい加減なことを言って使うほうもこき使うし、裏方のほうも手伝ってくれる人をまたこき使うという悪循環。
竹内 全部お酒でチャラにしてしまう。それで、「はい、わかりました」と応じて千葉までひとりで行って、ロクロク(6×6)とかの平台があるのに大雨になっちゃって、水溜まりにコケながら全部積み、南京でしっかり縛って帰ってきたら、誰からも何も言われない(笑)。そのときアリアドーネのミゼール(花岡)、吉岡(由美子)さんだけが「竹内さん、お疲れさま」とか、ねぎらいの声をかけて、焼酎を飲ませてくれた。それで騙されたっていうか。
岡本 若気の至りだね(笑)。
竹内 「ご苦労さま」のひと言でそのまま居着いちゃったわけだから、あれで良かったんだよね。吉岡さんなんかとは今でもつきあいがあるしね。
西川 ロクでもない世界の話を続けると、北龍峡の近くの畑に丸太がたくさん置いてあって、どれだけ拝借したことか。「50本ぐらい取ってこい、ひと晩じゃいかんぞ、1週間ぐらいかけてな」と命ぜられ、こっそりと夜、出かけていく。けっこう辛いものがありましたよ。公開不可能な話がまだまだ山ほどあります(以下いくつか実例に話題がおよんだものの、いくら時効が成立していようと、怖しくて、とても再現できない)。
岡本 突然「調達してこい」と。なのに、結局は使わなかったりする。
加藤 当時、背火には岡本と僕しかいなくて。いったい何を言い出すやら、ビクビクしながら木谷さんの一言一句に耳をすましていました。
岡本 たくさん読書した末に、頭のなかのイメージが膨張しまくってるから、唐突に飛んでもない思いつきを口にして。
西川 僕がいちばん辛かったのが、上島さんからいきなり「駱駝の公演で使うからマグロの尻尾を50本取ってこい」と言われたとき。市場へ行っても、最初は断られた。でも、ずっとおったら「じゃあ、あげるわ」と。尻尾は生のままでは臭いじゃないですか。だから天日干しするんですよ、屋根の上で。そのうち、蛆が沸いて樋に詰まり、雨が降ると蛆虫ごとドバーッと落ちてくる。臭うし、近所迷惑だし、困り果てていたら、ひと言、「これじゃあ足りない」(笑)。
稲生 マグロの尻尾、使ったね。皆で朝から刺身にして食ってね。尻尾にまだ身が残ってるわけですよ。それをスプーンで掻き出して皆で食った。野蛮な話ですみません(笑)。あれ、何百本だよね。面白かったよ。匂いが強烈で、武田百合子さんを「金柑少年」(78年の山海塾公演)にご招待したら「誰かクサヤを焼いてるの」と言われて、笑っちゃった。
竹内 あれはいいデザインだよね、よくあんなもん思いついたと思って。
岡本 上島さんの装置のセンス、空間処理能力はズバ抜けてる。
竹内 企画力と実行力ね。今、マグロはさすがに使えないよね。ヨーロッパでも西フランスのほうに獲りに行ったらしい。ヨーロッパは乾燥してるから日本より保存が楽だけれど、それでもやっぱり「これは無理じゃなかろうか」という話に落ち着いたそうで、以後FRPでやるようになった。基本的に蝉丸が担当し、FRPでいろんなものを作るシステムになったんだけど、あのマグロのデザインには感心するよりない。尻尾を戸板に貼り付けるなんて、よく思いついたもんだ。
加藤 「アマガツ頌」(77年。天児の初リサイタル)で、打掛の背にマグロの尻尾をあしらい、それを前後逆に、表にマグロの尾が来るよう着て、上島さん、踊ったよね。あれもすばらしかったな。
岡本 西川さんと加藤さん、おふたりに伺いたいんですが、少なくとも僕が経験した限り、木谷さんは、男にはあまり丁寧に振り付けていない。というか、ちゃんとアイデアを持って臨み、こういうことをしたいと決めてから稽古に取りかかること、ありましたか。何か「とりあえず動いてみて」という感じが多くなかったですか。
西川 プランはなかった。公演1週間前になってもない。とりあえず「ちょっとぶつかってみれば」という感じ。
岡本 そういう感じですよね。「飛んでみれば」とか。
加藤 あの頃、情宣も兼ねて京都のライブハウスなんかでずっと踊っていて、その稽古を、いきなり東京から夜通しハイエースを飛ばして、北龍峡でする。でも、何も決まっていない。ただ「動いて」みたいな。
西川 池田さんも、もちろんいっしょなんですけど、池田さんはそういうの嫌いなんですよ。「ちゃんと振り付けてよ」って。「嫌なら麿さんにお願いする」と言うと、木谷さん、キレるんですよ。そうなったら、僕らは音も立てず、そおっと下がる(笑)。
加藤 ずっと稽古してきて、「じゃあ休憩しよう」となったあと、全部なくなっちゃう。全部なくなって、また一から。
岡本 ゼロリセット(笑)。
加藤 寒いなか、裸でずっと動いている。いいとも何とも反応がなくて、突如「さっきのやつ」とか言われたりして(笑)。でも、その「さっき」がわからない(笑)、もう覚えていない。
西川 ふたりしてネスカフェ(現ネスレ)のインスタントコーヒーをただただ飲んでいるだけ(笑)。ネスカフェの大瓶がもう、すぐになくなりますから。そのうち池田さんがだんだんと怒りをあらわにしてくるし。そうなるともう誰も近寄れません。
加藤 しまいには、なげやり的に「何か、やりたいことをやれば」とか言われちゃう。いちばん困るパターンです。
竹内 上島さんにくらべたら、木谷さんのほうがむずかしいかもしれない。単なる振りとかではないところがあるからね。上島さんはあらかじめテーマを決めるけど、木谷さんには、あらかじめ、って発想がないよね。
西川 アリアドーネの振付では、けっこう具体的なプランがありました。
岡本 各シーンに細かく名前まで付けた箱書きを携えて臨んでましたね。
西川 アリアドーネは楽しくやっていましたよ(笑)。
竹内 池田さんは「私は本公演の振付はまったくダメだけど、ショーの振付ならばすぐにでも思いつく。本公演はまったくダメ」とはっきり言っていたから。だから麿さんや木谷さんに頼らざるを得ない。
岡本 背火・アリアドーネの公演だと、衣裳替えの時間を稼ぐためとか男の出番とかそこそこあったりするのも困りもので。
じつは今日、中嶋民枝さんという、元アリアドーネの會の看板ダンサーが会場にいらしてくださっています。そこで飛び入り参加を願い、伺います。たとえばアリアドーネの「ツァラトゥストラ」(80年)は、木谷さんはあらかじめ作り込んで稽古に入る感じでしたか。思いつきで「ちょっと動いてみて」というのは?
中嶋 場面によってはそういうこともなくはなかったけれども、大筋のストーリーみたいなものをずっと追いかけながら、「ちょっと違う、こういうふうに動いてみて、ああいうふうに動いてみて」と進めていって、徐々にストーリーと擦り合わせていくみたいなことをやっていましたね。
岡本 麿さんと比較して、どうですか。
中嶋 麿さんのほうが、形としてはっきりしていました。
西川 「刺青」のときは麿さんが……。
中嶋 そうでした。「刺青」のときは「手をこうやる、こうやって、そこから前を向いて」「じゃあ、それやめてこっちにして」とか、そこまで指示が細かかったです。
加藤 「刺青」までは、メインは麿さん。
岡本 ミゼールさんに伺ったところ、麿さんは、稽古中偶然飛び出した動きに「あ、それいい」とすばやく反応し、どんどん取り入れたとか。
中嶋 木谷さんが振り付けてくれる際は、必ず隣にカルロッタがいて、それでときどき長い沈黙があるんです。何もしない、長い、長い沈黙が。
岡本 ネスカフェの時間が(笑)。
竹内 でも「ツァラトゥストラ」は良かったよね、あれは構成もしっかりしていて。
岡本 何分単位できちんと曲を嵌めて。
竹内 あれだけだよね、でも。
加藤 「うッ」(81年。カルロッタ池田初のソロの会)も良かったし、ちょっと似た感じはある。ただ、あれはほとんどが池田さんのソロで。
岡本 フィナーレだけだものね、アリアドーネの全員が出てくるのは。
竹内 「ツァラトゥストラ」は本当にしっかりしているけど、木谷さん、あれで飽きちゃったんじゃないかな。あれじゃないものを、そうじゃないものをつねに探し続けていたんじゃないのかな。
稲生 ヨーロッパの新聞記者とか評論家からしてみると、「『アリアドーネ』の踊りというのは結局、池田さんのものなのか、それとも木谷さんの作品なのか」という質問がずいぶん出たみたいですね、あの当時。一時期、舞踏を研究するための留学生の方たちがたくさん来日されているという話を聞いたことがあるんだけど、そのあたり、どういうふうに捉えているのか、なかなかわかってもらえなさそうだし、そのほうが返っていいのかなという気もします。
竹内 ありていに言えば、きっと両方だと思うんだけど。エッジを歩いてゆく。エッジに立ち、どちらにも落ちてはいけないというが、木谷さんの基本的な考え方だから。
稲生 さっき言った、生まれる、生きることを苦としてとらえるような思考から始まる踊りというのは、ヨーロッパ人ならずとも、なかなか理解できないんじゃないか。それと、木谷さんの作る踊りは、ヨーロッパに行ってからはとくにそうだと思いますけど、いちばん言葉にしにくい類いの踊りでしょう?
岡本 加藤さん、木谷さんがヨーロッパから帰ってきて、日本でソロを踊るようになったのに久しぶりに触れて、僕は正直、変化に驚きました。そのあたり、どうでした? まず、無駄口を叩くようになったじゃないですか。
加藤:そうそう(笑)。何というかな、踊りというより、舞台の上で喋るというのもあったけど、「吃ったダンス」というか……いや、ダンスでもないな。何かこう、停滞した感じがずっと続き、のたうち回って逆立ちしたり、背中からぶっ倒れてみたりというような一連の動きが、もっとストレートに前に出てきたとでもいうのかな。池田さんと距離を置いたあたりから、そういう感じはしていました。ただ、やっていることは複雑極まりないよね。
岡本 桜井(圭介)さんが映像資料をふんだんに駆使して、ここShyで木谷さんについて論じた会があって、ぼやきながら踊る映像を、あえて音を消して流したんですね。すると、とんでもなくテンションが高いことが一目瞭然で、あの喋りが入ったとたん観るほうは集中が妨げられ、気が散ってしまう。加藤さんが「吃った」と指摘されたのにハッとしたんですが、文章を綴る折、不必要なまでにルビや傍点を振ったり、割注を突っ込んだり、書法上の手練手管を総動員し、意味に到達するのをあえて遅らせることを狙った書き方がありますね。僕は、それと同質の戦略を木谷さんのソロに感じました。それに、土方さんが主張した衰弱体からほど遠い踊りだった。
稲生 たしかに衰弱体ではないね。
岡本 土方さんから圧倒的な影響を受けつつも、相対的に距離を置いていたでしょう。心から尊敬はしていたけれど、心酔はしない。いわゆる土方教信者ではなかった。
竹内 陶酔しているふうな気配はなかったね。
稲生 木谷さん、土方さんの「病める舞姫」を読み込んだ上で、「俺は全部わかった」と言っていました。あのテニヲハをひっくり返したような異様な散文のすべてを理解した、見破った、とでも言うのかな。いずれ発表するつもりだったらしく、それが陽の目を見ないうちに亡くなったのが残念でなりませんが、もとより土方さんに入門したときから、そこをめざしていたような気もします。
岡本 「ツァラトゥストラ」とか、あれほどではないにせよ「舞踏病草紙」も、基本的には舞台装置とか大道具、小道具が信じがたい量投入された、いわば物量大作戦でしょう。その手が海外では使えるべくもない、という現実的条件はさておき、唖然とするほどシンプルになってしまった。
加藤 作るのもたいへん、持っていくのもむずかしい。ソロとか、せいぜいふたりで踊ることになったとき、簡単に、というか、手軽に、という、あくまで必要に迫られての決断だったんだろうけど。
岡本 大須賀(勇)さんが「要するに木谷さんはヴァーグナーで、一平さんは安土桃山」と話してくれたことがあるんです。つまり、両者ともにある種のバロック美学に基づく舞台作りに長けているという話なんですが、そういう要素が一切なくなった。これ以上削ぎ落としようのない裸の舞台、わが身ひとつ、という。
竹内 舞台に関しては、とにかくモノを持たない方向にどんどん突き進んでいった。
加藤 木乃伊をやっていた人が(笑)。
岡本 ミニマルの極みになった。あれほど好きだった音楽に対しても禁欲するようになった。ほとんど無音が当たり前の場合も多々あって、とことん愛していた音の力に頼ることすらやめてしまっている。
稲生 そのあたりの件は木谷さんから聞いたことがある。たとえば何かの曲を使ったら、外国の人間というのはそちら側から話を類推させる、一種のくせが付いている。だから天児さんなんかも音はオリジナルしか使わなくなった。手垢がついたイメージを回避したかったようです。
加藤 ちょうど80年かな、岡本といっしょに舞台に立ったあたりから、木乃伊をあまりやらなくなった。「舞踏病草紙」ではやっていない。翌年、竹内と踊った「木乃伊/ヒエロファニィ」(81年)なんて、タイトルにわざわざ木乃伊と謳いながら、ピタッと木乃伊の扮装をやめた。
竹内 ヨーロッパで「ウケるから、絶対、木乃伊をやったほうがいい」と提案したことがあって、でも「もう嫌だ。いまさら木乃伊じゃないだろう」とはっきり言っていました。
稲生 そこに飾ってある写真なんかを見ても、非常にシンプルですよね。あれは銀粉を塗ってるんでしょ?
加藤 クイックシルバーですね。銀粉を塗っている。
竹内 銀粉って鉄にしか見えないから、シンプルですけど照明で非常に映えるんです。
稲生 女装は?
竹内 土方さんや大野さんは女装のイメージが強いけど、ヨーロッパにいたときは、女装の印象はないですね。
岡本 「NEONあるいはNEANTの炸・裂」(81年)では女性のドレスを身にまといましたが、いわゆる女装というか、土方さんや麿さん、一平さんたちのように女性的なるものに身をやつしたことはないかもしれません。実際、ソロなんて男臭い。
竹内 女装が似合わないという自覚があったのかもしれない。ひとつ思い出しました。あれはボルドーの近くかな。俺が照明をやらざるを得なくなった。コンピュータが導入され始めた頃で、まったくお手上げ、何もできなかったんです。見かねた木谷さんが「フェイドインとフェイドアウト以外は、もう作業灯でいい」と宣言してしまった。そのとき島田(てるゆき)って仲間が音響だけやって、しかも音もほとんど使わなかった。俺がフェイドインしたら木谷さんがいる。地明かりだけはあったから、フェイドインしていくなかで作業灯にして、あとは全部引いて。そうしたら木谷さん、「ヤっ!」「ウっ!」と声を発し、作業灯だけを頼りに延々と、ただひたすら舞台をグルグル回り始めた。とにかく1時間ばかり回ったり、ぶっ倒れたりして、最後は地明かりだけ点けてフェイドアウトして終わり。それを観ていた現場のフランス人スタッフのオッさんたちは大喜び。お客さんよりも地元の古参のスタッフのほうに大ウケだった。あれだけ絶賛されたら「何もいらない、これでできるなら道具なんていらない」と思っても不思議じゃない。僕がまだ25歳くらい、木谷さんが35歳くらいのときかな。
加藤 山海塾とはだいぶ違うね(笑)。
稲生 宮ちゃん(宮内文雄。さながら大駱駝艦の専属カメラマンとして活躍)がせっかく来てくれたので、木谷さんのベストショットを聞いてみたい。たくさん写真を撮ってきたなかで、とくに何がよかったですか。
宮内 木谷さんの木乃伊は明かりが蝋燭だけとか、暗くてね。陰影だけの写真とかはありますが、当時の技術ではあの感動をなかなか撮りきれなかったですね。僕は舞台ではなくて、海辺の岩の上で撮った写真なんか好きですけど。
岡本 木谷さんがほとんど稽古をしなかった、というのは?
宮内 公演直前まで稽古に来ないんですよね。それで本番のときは「あ、あ、あっ」って言うだけだったり(笑)。大須賀さんとのふたり漫才みたいな笑えるシーンとか、印象に残っている場面はあるんだけれど。
岡本 民枝さん自身、アリアドーネの舞台でいちばん好きな作品は何ですか?
中嶋 イタリアの田舎、昔のお城で踊った作品がいちばん好きです。市長さんとかも来てくださって。
岡本 振付は木谷さん?
中嶋 そうです。わりとオリジナルに近い感じでした。外の建物があって、その建物を舞台にしたんですけど、それがいちばん好きですね。
岡本 ヨーロッパであれだけ評価が高かったのに、逆輸入が大好きな日本のどこかから正式に招聘されて、木谷さんがアリアドーネに振り付けた「HIME 非女」(85年)を上演するような機会はまったくなかったじゃないですか。
中嶋 大規模なのは「ツァラトゥストラ」が最後でしょう。何度か小規模なイヴェントに呼ばれ、青山のスパイラルホールだったかで踊りましたが、「大きい舞台を日本でやらないか」というお声はついにかからずじまいでした。
稲生 福岡市と、池田さんが拠点にしていたボルドーが姉妹都市で、福岡の偉い人がボルドーに視察に行った際、池田さんがいつも通訳兼ゲストのホステスとして顔を出していたそうです。その縁で池田さんの公演が福岡のプラザホールで催されたのを僕がたまたま見つけ、皆を誘って観に行きました。宇野君なんかも山口から駆けつけてくれた。そのとき、池田さんがうれしそうに「来年、鴻に振り付けてもらえるのよ」と言って。一瞬「鴻って誰だ?」と思ったんだけれど(笑)「ああ、木谷さんのことか」と。とにかく、木谷さんが振り付けることになったのを非常に喜んでいましたね。
岡本 木谷さんの文章は、大駱駝艦の初期は意図的に土俗的な要素を強く打ち出したフシがありますが、その後は加速度的に日本的なるものを脱色していって、ついにはきわめてパーソナル、しかし普遍的な……。
竹内 まさに室伏鴻にしか書けないものになっていく。俺は「常に既に」という言い回しが好きだけどね。
稲生 昔、朝日か毎日か忘れましたが、悪文の見本として、木谷さんの文章が新聞に引かれたことがありました。そうしたら木谷さん、「俺の文章が悪文の見本で載ってるぞ」とたいへんご機嫌で(笑)。
吉増剛造さんが「激しい季節」に寄せてくれた歯切れのいい文章(「舞踏塵と星雲の脈拍」)を一読、喜んでましたよ。仲が良かったんですよ、吉増さんと木谷さん。ひょっとして、木谷さんの文章は声に出して朗読するといいのかもしれない。
竹内 自分はいい声だと信じていたし(笑)。
稲生 実際、いい声、してたじゃない。
岡本 ソノラスというのか、深く、よく通る声の持ち主でしたね。あと、エクリチュールね、書き文字も踊りと同様、唯一無二。
稲生 チラシや挨拶状はもとより、日記やノート等々よくあれだけの量を書いたね。じつに筆まめな人でした。
岡本 それと、木谷さんはガッチリしているようで基本的には細身でウエストも薄く、撮影のため抱きかかえたりすると、仰天するほど軽いんです。
加藤 軽い軽い。
岡本 強面な見た目とまったく異なり、華奢でしたね。
加藤 誰かが「嘘の筋肉だ」と言ってました(笑)。重さがない、って。
竹内 薄い筋肉ね。
岡本 筋肉を構成する束をいったん分解し、1本1本の筋に思いっきりテンションをかけて引き延ばし、それをもう一度束ね直したかのような。
竹内 「観念が筋肉を作っている」という話もしてたからね。「本当かよ」と思ったけど(笑)。
岡本 話も尽きないので、何か質問などありましたら、ぜひ。
質問者 背火の合宿ではどんなことをやっていたのか、それが舞台作品とどう関係していたのか、教えてください。
西川 ふたつあるんですよね。舞台のために、たとえば「君は死んだ虫になりなさい。絶対に動いちゃいかんぞ」という具合に、イメージから動きを作るのがひとつ。それと、合宿の最後は近くの温泉場だとかライブハウスで踊るという決まりあって、必ず金粉ショーを伴うんです。なので、ショーの踊りと、その正反対の舞踏の稽古を同時に行なう。やってる最中はどっちが目的の稽古か、わかりません(笑)。女の子も、もちろん僕らも気づかない。そのうち、なぜか舞踏の稽古がなくなってショーの稽古だけになっていく。男が女の子を担いでめちゃくちゃに回したり(笑)、キャバレーのショー用のポーズをパッと決めたり、徐々に徐々にいったい何をしてるのか、わからない方向に向かうんですよ。でも、頭を剃って、人前で変わったことをやる、奇怪な姿で異形の行為に身を投じる。そこで「自分は何かに変わったかもしれない」と気づく。そのとき「これはいいな」と感じられる人間はね、そのまま残ります。
女の子なんか、いつの間にかそのままキャバレーを回るようになります。公演が終わったあとも、基本的に女の子はキャバレーに行く。公演後3日目にはもう大きなカバンを引っぱって出て行かなきゃいけない。僕らは打ち上げがひと騒動で、だいたい3日か4日ぶっ通しで続くんですよ。土方さんとか様々な先生方がおいでになって、最初は女の子が率先して立ち回るんですが、そのうちどんどんいなくなって、仕方がないから男が一生懸命料理を作ったりしてました。
加藤 ただ、やたら本気で走ったり、ジャンプはよくやってましたね。
稲生 硬直ぶっ倒れはやったでしょう。
西川 やりました。山を下って海岸まで走らされるんですけど、加藤なんて途中で座り込み、帰るときだけ皆に紛れて戻ってくる(笑)。それで怒られるわけじゃあないんですけどね。そうですね、野口体操とか、たしかにジャンプとか、思えばいろいろやりましたね。
稲生 私が駱駝でいちばんやったのは逆立ちだね。逆立ちで階段の上り下りとか。
西川 それはなかった。
加藤 木谷さん、できないんじゃない?
岡本 木谷さんは、動きがうまくいって池田さんに褒められたりすると同じ動作を何度も繰り返す。苦手だとすぐに飛ばす(笑)。
稲生 野口体操ですけど、よくSNSなんかで見るのと違い、大駱駝艦流の野口体操は、もっと早くて、バリエーションが豊富。宇宙生命体としての肉体という、創始者・野口三千三先生の教えをさらに進化させたものでした。麿さん自身、学生時代に山本安英が主宰する「ぶどうの会」に入り、そこで野口体操を徹底的に仕込まれた、いわば野口体操の優等生でしたし。
大駱駝艦の場合、野口体操に1時間くらい、バーレッスンで2時間、それから、すり足が約1時間。それらが終わってから始めて踊りの稽古。7、8時間くらい稽古をしたこともありました。ご存じの方も人もいらっしゃるでしょうけど、バーレッスンを1番からずっと、右、左、アップ、センターとやっていき、足を引っかけての柔軟、前の屈伸と続けてゆく。それを指導したのが池田さんです。(会場の)あそこに写真が貼ってあったけど、あれは、モダンダンスの矢野道子舞踊団に招待され、木谷さんを含む大駱駝艦のメンバーが女モノのカツラをかぶって踊った際(73年、矢野道子舞踊団「発創の一新」)の写真です。そこで共演した池田さんが感動して大駱駝艦に加わった、という意味で記念碑的な舞台ですが、池田さんは自分のメソッドを絶対に崩そうとしなかった。それだけにバーレッスンは本物でした。それが背火に受け継がれていった。
岡本 しかし、あれは子供の時分から習うものでしょう? 体が硬かった僕にとって、バーレッスンは屈辱的な代物以外の何ものでもなかった(笑)。
竹内 さっきから思い出そうとしてるんだけど、池田さんには教わった気がするけど、技術的なことで木谷さんに何かをみっちり仕込まれた記憶がまったくない。
稲生 でも、昔から凄った。輝いていましたよ。動きも、体も。二枚肋(あばら)というか、背中の独特の筋肉には驚嘆する以外ない。天児さんもちょっと特殊な体型なんだけど。
竹内 木谷さんはそんなに変わっていないけど、上島さんは体つきがだいぶ変わりましたよ。
稲生 だけど、ふたりとも大須賀さんには敵わない。あの生まれついての奇形的身体には(笑)。
西川 ひとつ思い出した。最後に必ずニジンスキーのポーズをさせられるんです。「お前のニジンスキーは汚い」「体はこっちだろう」とか指導される。ニジンスキーのポーズってわかりますか? 要は「牧神の午後」(のポーズを極度にデフォルメ)ですね。あれを相当しつこく最初のほうと最後にやらされるんですけど、合宿も最初の頃はやはり違和感があって、しかし1週間も経つと、不思議とサマになったりするんですね。
加藤 それと「けもの」ね。
西川 そうだね。「けもの」の形を木谷さんにやらせると最高でしたね。「けものの戦い」というレッスンがあるんです。ふたりして、ここに肉があると想定し、1メートルくらい離れて取り合いをする、犬や猫のように。怖がってみたり、威嚇してみたりしながら。それはかなりイメージ的にやりましたね。
竹内 反射的な、動物の本能的な動き。
西川 池田さんの「けもの」は腰がグッと反るんだけど、木谷さんのは背中が普通の人と違うから、背中の上がり方が凄い。異様ですよね。
稲生 「河童着(かっぱぎ)」と言っていた。カッパの甲羅ね。
西川 あれを真似しようにも、最初からあの背中だから無理です。池田さんと北井さんとで形が全然違う、「けもの」の形が。
稲生 そういえば昨日、麿さんと話している最中、偶然にも「けもの」つながりで馬の話が出たな。ジンガロで木谷さんが馬と踊ったときの話題が。面白かったですよ。
岡本 じゃあ、こんなところで。長々とご清聴ありがとうございました。

付記
2016年2月13、14、15日の3日間にわたり、室伏鴻アーカイヴShyで開催された「Faux Pas 踏み外し」初日の鼎談「北龍峡Night」の模様を再構成・加筆したものです。加筆部分は当日のイヴェント終了後のパーティ時、あるいは登壇者からそれ以前に収集した見聞に基づいていますが、改めて文字にしてみると、話すべきだったこと、話し損ねた情報があまりに多く、猛省せずにはいられません。
一例。あれは「舞踏病草紙」振付時のこと。後藤治さんとも、生音を中心に音楽で参加してくださった佐藤康和さんが黒子姿で小さな太鼓を叩きつつ、花道から登場するシーンについての会話中。突然「トンボを捕まえて」と木谷さん。康和さんが叩く太鼓のバチの先に活きたトンボを極細の糸で括り付け、宙に舞うトンボに先導させて登場する趣向はどうか、と、のたまう。何匹必要かは忘却の彼方ですが、途方もない数を木谷さんが要求するや、それじゃあ足りないでしょ、と真顔で池田さんが言い放つ。加藤、岡本、顔面蒼白。さすがに無茶と気づいたようで、渋々取り消す木谷さん……。おかげで事なきを得ましたが、そんなエピソードでよろしければ無尽蔵。
なお最後に、文責はすべて本稿をまとめた岡本にあることを明記しておきます。