革命をスウィングさせる──室伏鴻の文法的なミス/ステップ(mis/step)

私の今日の発表のタイトルは「革命をスウィングさせる:室伏鴻の文法的なミス/ステップ(mis/step)」です。このタイトルは、ジョン・ケージの『日記』の一節に基づいています。そこには次のように書かれています。「もし私たちが言語を変えることができたなら、つまり思考の仕方を変えることができたなら、おそらく革命をスウィングさせることができるだろう」(P210)。私がこのタイトルを選んだ理由の一つは、単純にユーモラスだと感じたからであり、また “Swinging the revolution” という表現が舌の上を転がるような、ほとんど踊るかのような響きを持っているところが好きだからです。もう少し真面目な理由としては、室伏の作品の中に私が見ている革命的な可能性、そしてその可能性が、言語の解体——あるいは秩序を乱すこと(dis/ordering)——、さらには言語の一形態として(誤って)理解されがちなダンスの解体とどのように関わっているか、という点にあります。前回、昨年11月の私の発表を聞いてくださった方は、今回のジョン・ケージへの言及が、実際には彼への「再帰」であることにお気づきでしょう。というのも、私は前回すでに彼に触れているからです。
前回の発表では、沈黙、神経多様性、そして鴻の作品が持つ倫理的な重要性について深く掘り下げ、言語の裂け目へと彼に従って入り込み、その切れ目のなかで他にどのようなことが起こりうるのかを探りました。ここで注意してください。自閉スペクトラムの人々は、しばしば執着的で反復的です。ですから、ある意味で本日の発表は前回の発表の続きでもあります。というのも、前回取り組み始めた問いこそが、私が初めて舞踏を発見して以来、ほぼ20年にわたって考え続けてきたものだからです。前回の発表では、「ニューロティピカリティ(neurotypicality/神経典型性)」という用語を導入しました。簡単に振り返っておきましょう。この神経典型性は「神経典型者」という形容詞に由来する用語であり、初期の自閉症活動家が自閉症を皮肉化しつつ、自閉症が構築された「正常な」脳や心の概念に反論するために使った言葉です。哲学者のエリン・マニングは、ニューロティピカリティとは、広範に存在しながらもほとんど語られることのないアイデンティティ政治の一形態であり、「人間」というものを定義するために設定されるそのパラメータの中に、容易には収まらないすべての人々にとって、壊滅的な結果をもたらすものだと提唱しています(P51)。本日のプレゼンテーションでは、鴻が自らの作品を、システムから逃れるため、闘うため、あるいはそれを崩すための方法としてどのように捉えていたのかに焦点を当てたいと思います。ニューロティピカリティという言葉は、彼の議論の中には登場しませんし、おそらく彼が念頭に置いていたシステムでもなかったでしょう。それでも私は、室伏の作品が、〈人間〉がどのように話し、動き、踊ることができるのかという可能性を制限するシステムとしてのニューロティピカリティから、逃れるための方法を示していると考えます。同時に私は、「外部」を求めること、すなわちシステムの外へ出ようと試みること、そしてそのシステムと歩調を合わせないことによって、室伏がニューロティピカリティというシステムを回避していたのではないか、と提案したいのです。
自閉スペクトラムの作家であるステイシー・イーストンは、その驚くべきテキスト『Autism: An anecdotal abecedarium』の中で、「私たちは身体の自閉的な文法について語ることができるだろうか?」と問いかけます。そしてそのうえで、「浅い呼吸」や「言語でありながら言語ではないかたちで言語から立ち現れる音」を、それぞれ「それ自体の文法をもつもの」として提案しています(P101)。「身体の自閉的文法」と呼べるものが実際に存在するかどうかはともかくとして、明らかに存在しているように思われるのは、身体のニューロティピカルな文法です。これは、身体がどのように秩序づけられるべきか(そうあることが期待されるか)という仕方を構造化する一連の規則として理解することができます。この身体のニューロティピカルな文法こそが、自閉スペクトラムの人々(そして他のマイノリティの人々も含めて)が(完全には)身につけることができないもの、あるいは私たちが(完全には)従うことのできないもののように思われます。そして、エリン・マニングによるニューロティピカリティの定義——それを価値付けのシステムとして理解する定義——に立ち返るならば、このシステムと歩調が合わない状態は、しばしば重大な結果を伴う「踏み外し」となります。人々はダンスをレクリエーション的な活動、ひいては無害なものと考えがちですが、鴻のダンスは危険な行為であり、転覆(サブヴァージョン)の一形態でした。鴻は自身の文章やインタビューの中で、舞踏を「目的のない身体の使用」として論じた土方巽の議論をしばしば引き合いに出していました。そしてそれは、何よりも生産性を重視するシステムの中では、犯罪的行為となるのだと示唆しています。舞踊評論家の石井達朗とのインタビューの中で、室伏は次のように述べています。
そうですね。土方さんの頂点はやっぱり「衰弱体」かもしれない。ダンスは二足でやるというルールに縛られない、むしろそうではなくて、その不可能性から立ち上げるということでしょう。土方さんは間を外してしまうとか「間腐れ」という言葉も残しているけど、ある種の生産性から逸脱してしまった体、それは不能であったり不可能であったり、いわばインポテントですね。だから、ある種“不能力”というか、不具性に繋がるような共同体を考えていた
(室伏鴻、2009石井達朗とのインタビュー)
興味深いのは、土方巽自身がテキスト『刑務所へ』の中で「目的のない身体の使用」について論じた際、それを明確に障害と結びつけてはいなかったという点です。むしろ彼はそれを「男性同性愛」や「犯罪」、あるいは「祭り」といったものに関連づけていました。しかし、この引用の中で室伏はそれを「無能力」「奇形」「不能力」といった語と結びつけており、それによってこの概念を障害の領域へと引き寄せています。また、生産性を何よりも価値あるものとみなす存在のシステム、すなわち存在の文法は、必然的にエイブリスト(健常中心主義的)であり、かつニューロティピカルなシステムでもあることも重要です。実際、歴史には、生産性を価値の指標として武器化し、それを障害のある人々(そして他の人々)に向けて用い、彼らの非人間化、さらには死をさえ正当化してきた数多くの例に満ちています。したがって、「生産的役割の外へと落ちてしまった身体」とともに踊ることは、ニューロティピカリティというシステムの外へと誤/歩(mis/step)み出すことであり、そのような行為に伴うあらゆる危険を引き受けることでもあるのです。
もしニューロティピカリティが、人々がどのように存在し、動き、踊るのかというを統御する「身体の文法」、あるいは「存在の文法」と結びついているのだとすれば、ニューロティピカリティはまた、私たちがどのように言葉を用いるかという点にも働いていると見ることができる、というのも興味深い点です。フランスの教育者・詩人・作家であり、私が前回の発表でも言及したフェルナン・ドゥリニーは、(フランス)言語に見られるニューロティピカルな傾向を絶えず批判していました。とりわけ彼が問題にしたのは、言語が常に、「すべてを解く鍵として機能する」主体を要求するという点でした(P111)。主語がない時、言語は誤/歩(mis/step)、踏み外します。結局のところ、主体あるいは自己とは、同時にニューロティピカリティが最も好む形式であり、最も好む役割でもあるのです。もし鴻が、土方巽に倣って「生産的役割から脱落した身体」とともに踊ろうとしたのだとすれば、そのミス/ステップ 踏み外しは、単なる生産性の拒否を超えていました。彼の作品の中には、あらゆる役割の拒否、そしてとりわけ主体、あるいは自己という役割の拒否を見ることができます。
土方巽の生誕80周年を機に書かれ『室伏鴻集成』に収録されたテキストの中で、室伏は再び舞踏をシステムからの逃走として語っています。彼は次のように述べています。踊りとは「からだが、からだ(という制度、システム)を外すこと。」であり、「そうして、複数の、他のからだたちと遭遇する。」ことであり、その代わりに「複数の他なる身体」と出会うことであり、また「身体」を単一の境界づけられた形ではなく、多様性として捉えることであるのだ、と(『室伏鴻集成』P300)。同じテキストの中で室伏は、ダンスを「出来事(incident)」として、そして「間にあることの困難さ」に関わるものとしても記述しています(『室伏鴻集成』P300)。彼にとってダンスとは終着点ではなく、ましてや既知の形式となるべきものでもありません。むしろダンスとは、境界的な空間にとどまり続けることに関わっています。それは、自己や主体の犠牲を要求する危険な行為であり、主体から始まらないダンスの(非)文法的可能性を探る試みなのです。
室伏は繰り返し、自分が「複数の方向や時間の中で[自分自身を]失っていく」こと、そして混乱の縁、裂け目の中で、自己とは異なるものとして存在し、踊るための可能性を見出すことについて書いています。彼は次のように書いています。
踊りは間のふるえである。踊ることは中止すること。踊りは踊りの中断、中絶によって立ち上がるなにもかだ。踊りのかたちが定まるその場所で踊りは同時に崩れていなければならない。(『室伏鴻集成』P300)。
すなわち、彼のダンスは文法が崩壊する瞬間に立ち現れ、新たな文法を打ち立てることを拒みます。そして重要なのは、室伏が自らのダンスが既知の形式として定着してしまうことに抗しているという点です。彼の関心は、新たなシステムを確立することではなく、むしろシステムそのものを回避し続けることにあるのです。『Animacies: Biopolitics, Racial Mattering, and Queer Affect』の中で、障害学、クィア研究、批判理論にまたがる研究を行うメル・チェンは、言語学者が「アニマシー階層(animacy hierarchy)」と呼ぶ「ある特定の政治的文法」について論じています(P13)。彼らはアニマシー階層を、「人間の生命、障害をもつ生命、動物の生命、植物の生命、そして無生物的物質の諸形態を、価値と優先順位の秩序の中に概念的に配置するもの」と説明しています(P13)。もしニューロティピカリティ(neurotypicality)が、「人間」という概念の単一のビジョンを他のすべてよりも優先するシステムであるならば、アニマシー階層は、ニューロティピカリティによって生み出される階層構造が文法のレベルにおいて現れたものと見ることができます。特にこの「アニマシー階層」は、誰が文の主語となるのに最もふさわしいのかを決定します。たとえば「踊る」という動詞を考えてみると、文法的には、それは人間、とりわけ非障害でニューロティピカルな主体に結びつく可能性が最も高いのです。
ここでチェンの議論を取り上げるのは、多くの点で、室伏の作品がこのアニマシー階層に疑問を投げかけ、あるいはそれを攪乱しているように見えるからです。これはおそらく彼の作品『quick silver』において最も明確に表れています。この作品について論じながら、カチャ・チェントンツェは、室伏のダンスが「有機的なものと無機的なものの境界を横断する非感情的な身体性に、より焦点を当てており、そこには、パフォーマーが無生物に生命を与えたり、生きているものを無生物化したりするプロセスが含まれている。」と主張しています。(P231–232)私は彼女の議論の要旨には同意しますが、室伏のダンスは、実際にはむしろもう一歩踏み込み、パフォーマーが本当にこの文の主体、すなわち無生物に生命を与え、動かす主体としての行為者が本当にパフォーマーなのかどうかを問い直すことを、私たちに促しているのだと思います。
アニマシー階層についての議論の中で、メル・チェンは、その階層が暴力的に攪乱される例として「汚染」や「中毒」を挙げています。
チェンは次のように書いています。「人間が中毒状態にある場面では、毒素とその宿主である人間にとって、生命線・主体性・人間性(ここでは人間が優位に立つ)といったアニマシーの基準は、可動性や感受性(ここでは毒素が優位に立つ)に対して十分に機能しなくなる」(P203)。さらに、水銀――すなわちクイックシルバー(quick silver)の別名――について、彼らは次のように述べている。「“mercurial(気まぐれで不安定な)”という語がその意味をもつのは、水銀という毒素が自己を変化させ、情動のマトリクスを直接的に変形させてしまうからである。情動はより速くなり、より敵対的になり、そして有毒なものへと変わっていく」(P201)。
私の知る限り、鴻が『quick silver』を水俣湾の水銀汚染と明確に結びつけていたわけではありませんが、しかし彼の文法的な誤/歩み(mis/steps)について書いていると、私は、水銀が水俣においてどのようにしてゆっくりとアニマシーの階梯を上っていったのかということを、思い出さずにはいられません。人間に影響が現れ始める以前のある時期、水俣病は一時的に「踊る猫の病気(dancing cats disease)」と呼ばれていました。水銀汚染は、ダンスという行為を非人間の主体と結びつけることによって、アニマシー階層を混乱させていたのです。
人類学者のティム・インゴルドは、物質世界との関わりを説明するために、「エージェンシーのダンス(dance of agency)」という考え方から「アニマシーのダンス(dance of animacy)」という考え方へと移行することを提案しています(P101)。彼は次のように述べています。「アニマシーのダンスにおいては、身体的キネステジア(運動感覚)が、包括的で形態生成的な力の場のなかで、物質の流動と対位法的に織り合わされる」(P101)。私にとって、鴻のダンスは、パフォーマーとしての鴻が何かに生命を与えたり無生物化したりすることよりも、むしろアニマシーのダンスに関わるものなのです。鴻のダンス――もっとも、ここで最も私が言いたいことは、まさにそのダンスは(単に)彼のものではないかもしれず、実際には中毒という論理を通して所有という考え方そのものを解体しているかもしれないということなのですが――は、アニマシー階層の解体へと向かっているのです。
メル・チェンにとって、中毒の中心的な特徴の一つは、それが毒素という形をとって、「私」と「外部」世界との境界を再配置することです。彼は次のように書いています。
「毒性は私たちとなり、私たちは毒素になる。水銀的で、神経過敏で、情動的に不安定な人間は、クイックシルバーへと向かい、それになるのである」(P203)。鴻のダンスのなかで、彼の身体が「クイックシルバーへと向かい、それになる」(チェンの言葉を借りれば)とき、私は水俣病の人間の患者たちの痙攣を思い起こします。しかし同時に、水俣の猫たちの痙攣的な動きも思い出します。そこには、人間と非人間を区別することなく影響を及ぼす毒性のダンスとの共鳴があるのです。
そのほかにも、河村芳彦によってアーカイヴに提供されたテープ(2004年頃録音)において、鴻は再びシステムについて語り、システムが存在しないところではなく、むしろ既存のシステムが「崩れ、揺らぐ」ところに可能性があると述べています。そこでは、なぜダンスが非障害の人間の領分や所有物と見なされるべきなのか、という問いも提起しています。彼は次のように述べています。
たとえば、なぜ身体は病んでいるときに踊ってはいけないのでしょうか。特に健康な人だけが踊る権利を持っていて、健康な人が踊らなければダンスは美しくないと考える人たち——それはばかげた(笑)考え方です。[…]だから、逆に美の規範、美のヒエラルキーというか、そういうようなものがもしあったり、ダンスという制度があったりしたら、それはやっぱり非常にポリティカルな問題を私に突きつけるから、アンチダンスであればいいのか、あるいはダンスっていう中にダダーッて崩れてしまうようなものを持ち込まないと、自分が不誠実になりますね。
(テープ録音)
室伏の作品には、言語のシステムとダンスのシステムの双方を崩壊の瀬戸際にまで押しやろうとする試みがありました。それらを崩し、揺るがせることで、変化が起こりうるようにするためです。彼は、ダンスをあり得ない主体(クイックシルバーであれ、障害のある人々であれ)に結びつけることの中に、既存のシステムをつまずかせ、誤った/ずれたステップを踏ませる可能性を見ていました。
この発表の最後の部分では、2009年にフアン・カルロス・ピエドラヒタによって行われ、El Spectator に掲載されたインタビューの一節、鴻による別の文章に注目したと思います。そこには、言語というシステムが単に他のシステムと絡み合っているだけでなく、それらを存続させ維持することに加担しているということへの、彼の深い認識が示されています。
鴻は言います。
「言葉を覚えるということは、ひとつの仕組みに補われる事であり、同時に無意味なものを選別、排除してしまうということである。その様にして文化的な身体というものは成立していく。しかし、排除された無意味なものの中にこそ、創造性の深い動機があるのではないか。」、「そもそも踊りがコミュニケーションの手段であるとするなら、そしてコミュニケーションがそれに見返りを求めるものであるならば、私の体は贈与であり、それは見返りを求めない、無意味な消尽であるべきだと思っている。私は観客にその贈与の受け取りだけを希望する。」(室伏鴻、2009 エル・エスペクタドール紙インタビュー)
このテキストで鴻は、私の研究にとっての中心的な問題を指摘しています。それは、ダンスだけでなく身振り(ジェスチャー)までもが、ニューロティピカル(定型発達)的な枠組みによって理解され、(ニューロティピカルな)コミュニケーションの形式として、また主として意味を伝える活動として捉えられてしまうという問題です。この一節で鴻が指摘しているのは、何が意味を持ち、何が重要であり、何が重要ではないのかをあらかじめ決定し、それ以外のすべてを切り捨ててしまうようなシステムです。そして、ダンスだけでなく身振りもまた、しばしばコミュニケーションの手段として、あるいは発話に似たもの、発話と同じ役割を果たすものとして想定されるのだとすれば、鴻は自らのダンスを、そのコミュニケーションの経済から根こそぎ引き剥がそうとしていたのです。
彼の身体やダンスが意味を持ち、何かを指示することを期待される——あるいはより正確に言えば、そのように命じられる——状況に直面して、鴻はシステムに拘束されない身体の可能性を探ろうとしました。そのために彼が行ったことの一つは、取るに足らないもの、すなわち、あらかじめ「重要ではない」と決定されているものを前景化することでした。『The Order of Things(物事の秩序)』の中で、ミシェル・フーコーは、アントナン・アルトーのような作家の著作について、「言語がその自由を見出すことのできる、形もなく、沈黙し、意味作用をもたない領域」を探究するものだと書いています。(P418)。アルトーは自らの言葉を既存の秩序や既存のシステムを支えるために用いるのではなく、言語とそれが支える思考のシステムを脱/秩序化(dis/order)し、意味を持たないものや取るに足らないもの、すなわち現在の秩序が排除しているすべてのもの、すべての人々のための空間を再び開こうとしました。私にとって鴻は、身体において同様のことを試みていたように思えます。既存のシステムを脱秩序化し、取るに足らないものを前景化し、そしてさらに「意味しないこと」の行為そのものを前景化することで、鴻は自由を求めていたのです。
最後に、再びジョン・ケージの言葉に立ち戻りたいと思います。「もし私たちが言語を変えることができるなら、つまり思考の仕方を変えることができるなら、おそらく私たちは革命を揺り動かすことができるだろう」(P210)。
ダンスの言語を変え、確立された、ニューロティピカルな秩序に奉仕する既存のシステムから、ダンスを切り離すことによって、鴻は、私たちの見方や考え方を変えるための可能性を生み出した、つまり、常に「身体を囲い込んでしまう」システムとしてのニューロティピカリティを打ち砕き始めるための可能性を開いたのです。 これこそが、革命を起こすための最初のミス/ステップ(mis/step)なのだと、私は信じています。
翻訳 K
参考文献│Works Cited
- フェルナン・ドゥリニー. The Arachnean and Other Texts. Univocal, 2015.
- カーチャ・チェントンツェ. Aesthetics of Impossibility: Murobushi Kō on Hijikata Tatsumi. Libreria Editrice Cafoscarina, 2018.
- メル・Y・チェン. Animacies: Biopolitics, Racial Mattering, and Queer Affect. Duke University Press, 2012.
- ジョン・ケージ. M: Writings ’67–’72. Wesleyan University Press, 1973.
- ステイシー・イーストン. 「Autism: An Anecdotal Abecedarium」. kadar koli, vol. 8, 2013, pp. 99–108.
- 土方巽. 「To Prison」. TDR: The Drama Review, vol. 44, no. 1, 2000, pp. 43–48.
- ティム・インゴルド. Making: Anthropology, Archeology, Art and Architecture. Routledge, 2013.
- ミシェル・フーコー. The Order of Things. Routledge, 2002.
- エリン・マニング. For a Pragmatics of the Useless. Duke University Press, 2020.
- 室伏鴻・石井達朗. 「The Body at its Physical Edge: A Solitary Presence among Butoh Artists, Ko Murobushi」. Performing Arts Network Japan, 2011年11月1日.
- 室伏鴻. テープ録音。
- 室伏鴻. フアン・カルロス・ピエドラヒタによるインタビュー. El Espectador, 2009.
- 室伏鴻. 室伏鴻集成. 河出書房新社, 2018.
Profile

ジュリ・ダンJulie Dind
ジュリ・ダン(Julie Dind)は、自閉スペクトラム症の研究者であり、学際的なアーティストです。彼女の作品は、自閉的なパフォーマンスのあり方を自閉的な観点から探求しています。彼女はブラウン大学で演劇芸術・パフォーマンス研究の博士号を取得し、早稲田大学で国際文化コミュニケーション研究の修士号を取得、さらにニューヨーク市立大学で障害学の上級資格を取得しています。現在は東京大学の東京カレッジにポスドク研究員として在籍し、舞踏と障害に関する科研費(KAKENHI)助成研究プロジェクトに取り組んでいます。