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堀今日はお配りしている資料(引用集)に沿いつつ外れつつお話ししていきたいと思います。資料のなかには、室伏鴻アーカイヴShyのディレクターである渡辺喜美子さんに見せていただいた、未公開のテクストも入っています。
まず、最初の引用を読みたいと思います。
「一方我々は人間としてダンスに「なる」のです。我々はダンスをダンスすると同時に、逆に、ダンスが我々を踊るのです。それで我々の(その?)ダンスは無軌道で、無鉄砲で、エキセントリックで、恐怖的で、ゾッとし、暴力的で、誘惑的なのです。なぜなら誘惑は、舞踏と同じく、おわり(目標)なき、遊びにみちた不可能です。舞踏は、誘惑と同じく、最も遠くのもの、最もへだたったものに死の欲動をかけてなろうとする欲望(vouloir)なのです。」
(『室伏鴻集成』pp. 395-396. 1983年4月)
ここで注目したいのは「我々はダンスをダンスすると同時に、逆に、ダンスが我々を踊る」という表現です。まず、「ダンスをダンスする」というふうに、「ダンス」という単語を二回一気に重ねる。そして同時に、名詞と動詞が分かれてゆく。「ダンス」というものが吃って、分裂していくような印象を受けます。
同時に、主語が「我々」になっているのも気になる点です。というのも、「我々」というのを問い直すことが、室伏鴻というダンサーにとって大きなテーマだったからです。室伏さんは、コミュニティを作るものとしてのダンスを非常に警戒していた。つまり共同体のなかでの儀式として機能し、共同体の結束を固めていくようなダンスというものに対する警戒ですね。どういう集団として踊るのか。そのことの問い直しが、一気に現れているように見える。
つまりまず、そもそもダンスとは何なのか、という問いがあり、さらには、「我々」というのは一体何なのか、ということの問いがあるということです。このふたつの問いが同時に出現しています。
それからそのあとの箇所「ダンスが我々を踊る」において、問いがまた別の決定的な展開を迎えます。もはや個人的な意志を持って踊るということが言われているわけではありません。そうではなくて、ダンスというX、得体の知れない謎のXが我々において踊っている、という感覚。自分のコントロールから外れていったところで、動きが出て行く。そういう感じになります。
このことを考えてみると、「我々はダンスをダンスすると同時に、逆に、ダンスが我々を踊る」という表現のなかで、「ダンス」という言葉の意味が、それぞれ全部違うのだろう、ということも浮かびあがってきます。「ダンスをダンスする」というときの最初の「ダンス」(名詞)と、「ダンスする」(動詞)というときのふたつの「ダンス」は、違うものです。そして「ダンスが我々を踊る」というときの「ダンス」は、さらに別種のものです。最初の段階では「我々」が主語=主体となって「ダンスする」わけですが、今度は主語=主体が変わります。ですから、踊り手である「我々」が、その意志によってコントロールしているような「ダンス」が、我々において踊ると言っているのではありません。意味の転換が起こるわけです。
ここで思い起こされるのは、詩人のランボーです。ランボーは「私とは一個の他者である」、「他者が私において考える」というようなことを言うわけですけれども、それに少し似て、他者が私において考えるように、ダンスというものが私において踊っている。そういう感覚があるのではないかという気がします。
そうするとこの後の「無軌道で、無鉄砲で、エキセントリックで、恐怖的で、ゾッとし、暴力的で、誘惑的」という箇所も、ダンサーが自分でコントロールしえない何かが不意に現れてしまう、というような話に見えてきます。ダンサーはその刹那を生き切るというのが、ここで室伏さんの語るところなのかなと思うわけです。
くわえて別の連想ですが、室伏さんは、チャプリンは常識的で道徳的な匂いがする、それに対してバスター・キートンは振り切っている、自分はチャプリンよりキートンのほうが好きだと書いていますが、その振り切り方のことも想起したりします。そのときに、自分から遠くに出てゆくこと、さらには「ダンス」という概念――これはある意味で身体化された概念のようなものかもしれませんが、つまり「ダンス」ってこういうものだと、身体にへばりついてしまっているもの、身についてしまっているステレオタイプから、外へ出ていくこと。こうしたことも考えているのではないかと感じます。その線のなかに、「最も遠くのもの」、「へだたったもの」、さらには「死」というテーマが出てくる。「死の欲動」ですね。「死」とのへだたりや距離については、また後で触れたいと思います。
次に、別の引用を見てみます。『室伏鴻集成』に入っていないものです。「私のからだの中に神的現実を孕ませたい」、「人間は神化を生きるほか救いはない」とあります(1978年2月2日のノート)。神聖なもの、聖なるものとの戯れを意識している箇所です。
私がすごく面白いなと思うところは、神聖なものや聖なるもの、要するにアンタッチャブルなもの、触れてはならないもの、変えてはならないものに対して、室伏さんが非常なユーモアを持って対応していくところです。たとえば、「我々が住んでいるのは、〔……〕(ポスト)資本主義社会」であり、「祝祭はより人工的に、虚構的にならざるをえません」と言っています(『室伏鴻集成』p. 389. 1983年4月)。
さらに別のノートでは、「キャバレー」の話が出てきます。室伏さんはご自身でもキャバレーに出演していたこともあると思いますが、「超キャバレー的手法」という表現を使います。
「超キャバレー的手法が !! 今日の作品にはあった
悲しくて 怖くて 美しいところまで
真実を追い込めるのは 真実しかないのだ。」
(2003年7月11日のノート)
「超キャバレー」という表現には少なくとも二通りの解釈がありえます。第一に、キャバレーを超えるものという意味。第二に、キャバレー性が超強いという意味、です。私はどちらかというと二番目の、キャバレー性が超強い、というほうの意味で取りたい側です。世俗性が超強いという意味での、超世俗的なところですね。俗世間との関係を絶った超越性に向かうというよりは、過激な世俗性が生成し提示される場としてのキャバレーを、猥雑さも含めて立ちあげるという感覚を、私自身は室伏さんのダンスを見ていると強く感じます。ですから、キャバレーの話というのは非常に重要なことだと思います。室伏さんは社会的なことについて、それほど頻繁に直接語るわけではないのですけれど、非常に鋭敏に察知していることを節々に感じます。
ところで、二〇二五年夏に呼んでいただいたウィーンでの催しで、私は空間の話をしました。つまりダンスというのは空間のドローイングであり、身体が動いていくその動きに伴って空間がそのたびに発生してくる。そして、その動きが終わるとその空間はスーッと消えていく。ダンスというのは、そのたびごとに、動くたびごとに、空間そのものが発生し、消滅していく、その繰り返しのなかで存在しているものではないか、と。
しかし同時に、ダンスというのは、そうした議論では明らかに追いつけないところがあります。私自身が踊らない人間だから必然的にそうなのかもしれませんが、こうした空間の生成と消滅は、外側から観察している人の目に写るかぎりでのものにもなりえてしまう。では、外側から観察しているかぎりのものではなく、踊り手自身の身体の側からの、身体の動きの発生はどのように考えられるのだろうか。ダンサーの身体を貫く力やエネルギー、身体の諸部位に力がどう伝わっていくのか、それが身体をどのように動かすのかといった問いがウィーンでの催しのあと、出てきたのです。
その問いを抱きながら、ワークショップ・ノートを読み、室伏さんのダンスの映像を見ながら考えました。そのとき、たとえば次のような言葉に出会ったのです。
「8をやる。手首╲腕から 肘╲肩の8が 腰 足裏まで連動させる
息の8とともに 腰・膝の波を 連動させる。
このあたり かなりの難度 !! 誰も正確に出来てはいないが つづける。
➨ 設定スル:8の即興スローから 凍結へ…
ICE 寒い 硬化と震え(ニューヨークは-50℃という)ほとんど氷人間のステップ
が 氷上を滑り クリスタルへ至る
が 関節がカタマリ 息までこごえ つらら状
〔……〕
で 危険な無音の世界 関節が痛み
とともに 軋んで 響くのみだ。
皆 動きすぎ 関節と息とノドまで連動させることが出来ない――――難度G」
(1996年2月8日のノート)
少しチャーミングに、ユーモアを交えながら書いていますが、実際のダンスを見ると、この言葉が何を言おうとしているのか、少し分かる気がします。
作品としては特に、2014年にウィーンのダンス・フェスティヴァル「ImPulsTanz(インプルスタンツ)」に出演された際、オデオン・シアターという大きい劇場で、ソロで踊った『Faux Pas』の映像を見ました。この作品を見ていて感じたのは、たとえば手をかすかに動かすときに、指が細かく震えるときに、そのほんの小さな動きが、たとえば足のつま先の動きをはじめとした、身体の様々な部位と連動しているということです。ただし、単純に手の指先と足のつま先の動きを合わせて、シンクロ(同期)させるということではありません。まったく別々のばらばらの運動が手とつま先で起こりつつ、しかし連動しあっている。ただしシンクロはしないままに、身体全体にねじれ、うねりが発生するのです。見ている側にも、足先と指先をつなぐラインが室伏さんの身体のうえを走ってゆくのが見える。少なくとも、そう感じられます。
この室伏さんのダンスを見たあとで、ワークショップでレッスンを受けている人たちの映像を見ると、身体の連動性が弱く感じられてしまう。身体の部位を連動させていく力、関節の使い方、さらには骨の使い方が違うのです。
『Faux Pas』では、椅子に座りながらまず体がねじれていって、足が内側にねじれていって、そして手も内側にねじれていく。この内側へのねじれが、非常に特徴的であるように思います。そして途中で椅子から落下し、四つん這いになり、背中だけが宙空に向けてせり上がっていくところで、肋骨の形が人間の解剖学的に見たことのない形になっていく。人間にはこんなところに骨ないよね、というところまで骨が移行していくような感覚になります。私の印象では、肋骨が全体として下に下りていく感じ。肋骨のブロック全体が下に下りていく一方で、逆に頭に近い側からは骨がなくなってゆく、骨なしになってゆくように見える。そして下のほうに向けて降りてゆく肋骨全体は、卵みたいな形に湾曲するんですね。卵のような丸みを描く肋骨のブロックは、まるで骨をコントロールしながら踊っているようです。このこともまた、連動性の一種だという気もします。一つひとつの骨、臓器、皮膚などの連動です。危ういコントロールとなるはずですが、この卵‐感覚とともに肋骨が、身体全体を巻き込みながら、ゆるやかに歪められてゆきます。
このように見ていくと、動きのなかには色々な形があります。卵的な、優しく抱かなければいけないような、柔らかくも暴力的な円形を描きつつ、それがいつしか「エイリアン」ともいわれる形態になる。さらに硬直して倒れるときには、その身体全体が刃になるような感じもします。何の予告もなく倒れる身体が、時や空間をジャッと切り裂いていく。このように倒れるときには足の指先の使い方も変わっています。座っているときにはつま先を丸めてゆくような動き、内側にねじれてゆくような動きなのですが、倒れるときには、ねじれにともなう丸みが取れていくような印象を私は持ちます。痙攣し硬直しているときの足の指先はむしろ鋭く尖っています。
そういう非常に細かいところが全体としてダンスのなかで行われているように思います。今回準備をしていて、次のような室伏さんの言葉を見つけました。
「足の裏の喜びが
手の指の折り曲げの ひとつから」
(2004年9月のノート)
素晴らしいフレーズです。室伏さんのテクストを読むと、足の裏に非常にこだわっていらしたところがあるようです。たぶん逆流もありうるはずで、足から手へ、手から足へという感覚もあるような感じがします。
くわえて、舞台での映像を見ていても、テクストを読んでいても感じるのですけれども、肢体が――「したい」は姿態でも、死体のほうでもいいのですけれども――どんどん変わっていくような印象があって、しかも、その変身、変化がどこでどのように起こったのかが分からない。どこからどこまでが何で、どこから先が別の何かという、切れ目、境界線が分からないわけです。さきほどのキャバレーの話もそうですけれども、室伏さんは、少し物語と戯れてみることもあります。たとえば『Faux Pas』では、風の鳴っているような音が流れるなか、身体が何かに吹き飛ばされて床を転がっていくかのような踊りをする場面があります。そうすると音と身体が「風」という表象レベルでシンクロし、「風に吹き飛ばされる身体」という一種の物語ができます。けれども、同時にそういう物語的表象を一気に裏切るような動きが続くわけで、しかもいつ裏切ったのか分からない。いつの間にか、もう風と関係のない身体になっているわけです。
そしてテクストにおいても同じように、いつの間にか変わっているというスライド感覚がある感じがしています。たとえば、先ほどのワークショップ・ノートの「即興スローから」という箇所。「8をやる」という……、じつは私はこの「8」がよく分からないので、ご存知の方がいたら教えていただけるとありがたいのですけれど。たぶん「8」を横にすると無限「∞」になるということは意識しつつ、同時に、円形に……
B足の裏だと思います。
堀様々なところからの、足の裏からの動きが、「8」の波動を描きながら伝わってゆく感じでしょうか。「8の即興スローから 凍結へ」という箇所ですね。それから寒さというのもキーワードのひとつなのだろうと思います。「硬化と震え」の話が出たかと思ったら、「氷上を滑」るという違う方向に話が動いていくところも面白い。動きのあり方を完全に別のものに変える、その裏切り方がここにもあります。
その後、息の話になって、「息までこごえ」となると、息の出し入れがすごく意識されます。しかも息まで凍えるとなると、喉への意識も変わるように感じるはずです。すると、先ほどの「関節と息とノドまで連動」ということの意味合いにまで及ぶ。こういうふうにテクスト上でもどんどん変わっていくので、こちら側が摑もうとするとすっと身をかわすような書き方だなと何回読んでも思うところです。
くわえて、息と凍えの話が別の引用部分にも出てきます。
「フタを開かれ さあ 出ろ 立って家へ帰るんだ!とpapaとmamaに突っつかれて
こども どう動きはじめるか?
と 問う
息の回復 と ヘナト?
〈しかし 鼻の穴も 毛穴さえ 塞がっているのだよ〉
と 答える
Freezingは 全身に及び その入り口/出口を塞いでいるのだ
それを破ルには 痛みがともない
微妙な デリケートな 医者の手当の速度で
破壊し 繕わねばならない
・=これが コレグラフィーの極意であるだろう」
(2001年6月10日のノート)
先ほどの「8」についての引用が1996年、こちらは2001年なので5年後ですね。さきほどとは違う日付なんですけれども、「息の回復」と、それから「鼻の穴も 毛穴さえ 塞がっているのだよ」「Freezingは 全身に及び その入り口/出口を塞いでいるのだ」の箇所などは、テーマ系の重なりがあるのかなと思います。くわえて、新しく出てくるのが「医者」の話です。「医者の手当の速度で」というところですね。「それを破ルには 痛みがともない/微妙な デリケートな 医者の手当の速度で/破壊し 繕わねばならない/・=これが コレグラフィーの極意であるだろう」
その後に続く箇所を読みます。
「胎児は その幼児は 立ち上がるのだ
すべての 関節に 手当を施しながら
破壊しながら 生成スルのだ
その 速度は 〈外の 速度〉でなければならない」
私がここで思ったのは、医者でありかつ胎児であるという、その重なり合い、二重性です。「胎児は その幼児は 立ち上がるのだ/すべての 関節に 手当を施しながら」と書いてあるので、「胎児」が「関節に 手当を施しながら」というふうに、「胎児」が主語になっている文として読めます。つまり医者であり、かつ、胎児ないし幼児であるというあり方が立ちあがってきます。この多重の折り重なりは室伏さんの特徴という感じがします。
さらに別の引用に移ります。「間(ま)」の話をしているテクストです。
「瞬間を焼きつける 又 ひきのばす 変形する という 肉体的・物質的な作業が 東洋の場合 身体に即している という点。西洋的方法意識の中で排除された MAは 運動性の中で 隙間にどれだけの 身体的観察を及ぼすことが出来るかにかかっている」
(1987年2月27日のノート)
注目したいのは、ここで言われる「間」の概念は身体に則したものだという点です。つまり、身体による身体の観察、自己観察をしている。この観察はあくまで「身体的」なものであって、「知的」な観察ではないのだろうと思います。室伏さんの踊りを見ていると、室伏さんの身体じたいが、みずからの身体性の自己把握をしているように感じられるのですね。今日はじめのところで「ダンスが我々を踊る」という引用を見ましたが、ダンスが我々を踊っている状態そのものを、見ている別の目があるような感じがする。この観察行為そのものが身体において、身体によって、踊りを通して実現されている。つまり踊っている身体じたいが、身体そのものをきわめて繊細に自己観察していて、その観察行為が踊りそのものになっているのではないか、ということです。
これは、「間」というときに、音を一回パンと鳴らして、間を置いて二回目にパンと打つことで、ふたつの音の「あいだ」にいわゆる静寂を響かせるというような、そういう「間」の感覚とは違う。それとは別の形での「間」の概念化があるように思うのです。こうした概念化のしかたを見ていると、いわゆる「東洋的なもの」や「日本的なもの」に対して、室伏さんがいかに巧みに距離を取っているのかが分かるように思います。
この引用は、さらにこう続きます。
「ひとつのムーブメントの 人つの速度 という考え方のあやまり
ひとつのムーブメントの中に 無限の 間と重なり合い 結びつきがあること
その間取りの いくつもの ワン があること。」
「ひとつのムーブメントの」あとの、「人つの速度」という表現は、意味が決定しにくいフレーズですが、「人」間的な速度、かつ、「ひとつ」の速度の双方は含意されているように思います。それが、「あやまり」だというわけです。人間的な速度、かつ、そのひとつの速度――これは捉え方によるかもしれませんが、例えば目的を持って、その目的に向かって動いていくというような感じでしょうか。人間的な、計測可能、比較可能な動きのことかもしれませんし、人間身体が、ひとつの速度しか持たない、という思い込みと言ってもよいのかもしれません。
それに対して、ここで言われているのは、その「ひとつのムーブメントの中に 無限の 間と重なり合い 結びつきがある」ということです。ひとつの速度、ひとつのムーブメントには、複数あるいは無数の速度が入っていて、それらが入れ子状にも、重合状態にもなりながら、結びついていく。無数の速度と速度のあいだには、先ほどの「間(ま)」、「身体的観察」も入っているんだと思いますし、間と間のあいだの色々な重なり合いや共鳴やずれも入っているでしょう。
そうすると先ほど連動の話をしましたが、身体のパーツが連動していくというのは、同時にある意味で、連動しないということでもあるわけです。あいだに「間」があるからです。ひとつの意味体系のもとで、連動が捉えられるわけではなく、それぞれのパーツが無数のしかたで、無数の速度で、一斉に動いている。ひとつの意味で統一された全体像として捉えられないので、何が起こっているかが分からない。たとえば『Faux Pas』における室伏鴻の身体を見ていると、視点をどこに合わせていいか分からない感覚に陥ります。なぜかというと、身体のそれぞれの場所で別々のことが微分的に生起していて、しかもその微分的に別々に起こっていることがそれぞれ非常に面白くて、しかもそれらが複雑に絡み合いすぎて処理しきれない状態になるからです。
自分自身の身体のなかには、すでに無数の「間」というものがある。ひとつの身体で踊っているとき、そのひとつの身体のパーツごとの合間、動き同士の合間のなかに、すでに無数の間が忍び込んでいる。右手と左手のムーブメントのそれぞれのあいだに「間」があります。頭と、鼻の下の動き、口の動き、そこら辺の色々な動きにも。私はダンサーではなく、見ているだけの人ですが、そのように感じてしまう。私自身の見ている身体がそのように反応してしまうのです。見ている側の身体の細胞が開いて、活性化して、騒ぎ立ちはじめるといいますか。
くわえて別の特徴として、変わり身の速さ、あるものから別のものへと変身していく動きの速さ、その捉え難さがあります。室伏さんの動きには前兆、予備動作がない。そして、予備動作がないまま、いきなりある動きが起こるので、その動きは非常に強く、非常に速い。さきほどの引用に「外の 速度」という言葉もありましたが、速度感がすごくあるんですよね。これは物理的な速度の話ではなくて、気づいたらもう変わっている、もうどうなっているか分からないという、その追いつけなさのようなものが、この速度というものだという感じがします。ですから、見ている側からしても、ダンスが勝手に先に走っていって、見ている私の外側にダンスが先に走っていってしまうというような感覚になるのかなという気がします。
室伏さんは「〈時間の外に 別の もうひとつの時間を産み出す〉こと」というようなことをおっしゃっていますし、あと、「感覚を超えた速度で/集中は 為されなければならない/ここが重要なのだ//なんて感情に依拠した〈表現〉のハンランする事か/感情よりも 早いものとは何か?」とも言います(2001年6月10日のノート)。感覚や感情よりも速いもの、それに先立つもの。これは感覚的にすごくよく分かる表現だと思います。自我で考えているのでは遅すぎる、それでは間に合わないものと戯れる。そしてその一方で、この自我よりも先に走って戯れているものを、しかし自分は、どこかで見ているような、自己観察しているような感覚……。
あと、言うのを忘れていたのですけれども、非常に抽象的でありつつ、同時に非常に克明で具体的な身体動作があるという話で、例えば『Faux Pas』の場合だと、全く無音の状態から始まって、バタンと椅子と一緒に倒れます。そういう作品なのですが、ほどなくして、急にカーティス・メイフィールドの「Superfly」という曲が流れ始めます。「Super Fly」というのは麻薬の売人の話を歌にしたもので、超格好いいという意味です。ファンクの要素が少し入っているソウルの有名な曲で、男性のファルセットで歌われます。この曲が舞台上に急に流れてくるときの、抜け感が最高なんです。しかもビートのある曲なので、ディスコにいるみたいに室伏さんがビートに合わせて踊り始めてしまうんじゃないかという、妙にユーモラスな緊張感が出てきて、見ている側は少しハラハラする。ところが室伏さんは、その音楽のなかでも、全身がばらばらになっているような状態をキープしていて、それはまるで、躍らせようとしてくるビートと闘っているようにすら見えます。そして踊っている最中に曲が終わるのですが、曲が終わっても踊りは特に影響されずにそのまま続いていく。つまり、曲と踊りとが分離されているわけで、踊りは音楽に呑み込まれないということが分かる仕掛けになっています。
それと今日は、フーコー「外の思考」からの引用も準備してきました。おそらく室伏さんが読んでいたと思われる訳がいま手元にないので、私が翻訳したものを読みます。オルフェウスとエウリュディケーをめぐる神話を念頭においた議論です。亡くなったエウリュディケーを冥界から連れ帰る途中に、オルフェウスが禁じられていたにもかかわらず、彼女のほうに振り向いてしまったために、彼女がふたたび冥界に落ちていってしまう、ふたたび滅びてしまう、という別離の話です。
「セイレーンの澄んだ声に耳を傾けること、振り向いたときにはすでに遠ざかっている顔のほうに振り向くこと、それは掟を破り死に直面するだけでも、うわべの世界とその愉しみを打ち捨てることだけでもなく、自己のうちに突如として砂漠が広がるのを感じることなのであって、その砂漠の向こうの端(だがこの尺度なき距離は一本の線と同じくらい極細くもある)には、指定しうる主体なき言語活動が、神なき掟が、人物なき代名詞が、表情も眼もなき顔が、同であるところの他が、きらめいているのだ。魅惑の原理が秘かに棲みつくのはまさにここ、この別離と繫留のなかだろうか。」
(フーコー「外の思考」Dits et écrits, Gallimard, coll. « Quarto », I, p. 562)
これは振り向いた瞬間にもう彼女が消えていなくなってしまっているという、その瞬間のきわめて繊細な一線の話をしています。「尺度なき距離は一本の線と同じくらい極細」いへだたりです。同と他、生と死を分ける、きわめて細い一本の線。振り向いたときには、彼女はもういなくなってしまう。だから、振り向き切ることと、その一歩手前でまだ振り向き切ってはいないこととを分ける、きわめて細いラインの話、というふうに私は理解しています。その周囲では、「表情も眼もなき顔」しかもはや残存しておらず、かろうじて残された呼び声の残響だけが残っているような、生と死のあいだを分ける線です。そのとき、エウリュディケーがいなくなってしまうという別離と、でも、その別離の瞬間に彼女が永遠につなぎとめられている。こういう両面性、両義性があります。あくまでオルフェウスから見たエウリュディケーの話ですが、この二重性が魅惑、誘惑の源泉になっていくわけです。
くわえてフーコーのテクストの続きも見てみたいと思います。人工性、虚構性をめぐる議論です。虚構的なものというのは、「フィクティフ(fictif)」のことです。
「虚構的なものがひそむのは、決して事物のなかでも人間のなかでもなく、それらのあいだにあるもの、その不可能な本当らしさのなかなのだ――不可能な本当らしさ、すなわち、出会い、最も遠いものの近さ、私たちのいる場所における絶対的な隠し事。それゆえフィクションとは、見えないものを見させることではなく、見えるものの不可視性がどれほど不可視であるかを見させることなのだ」
(フーコー「外の思考」Dits et écrits, op. cit., I, p. 552.)
「虚構的なもの」は、事物同士のあいだ、人間同士のあいだ、事物と人間のあいだにひそんでいる。たとえば人間同士だとすると、人間同士の間にあるものの「不可能な本当らしさ」、ありそうもないものです。たとえば「出会い、最も遠いものの近さ、私たちのいる場所における絶対的な隠し事」が、そう呼ばれています。複数人がいるなかで、一緒にいるんだけれどもお互いに隠し合っている、離れていくというような、人と人との距離、亡くなった人との距離など、まさにエウリュディケーのような話です。
「それゆえフィクションとは、見えないものを見させることではなく、見えるものの不可視性がどれほど不可視であるかを見させることなのだ」。見えているものを取り巻く、見えないもの。見えているものの見えなさと言ってもいいかもしれません。生と死を隔てる一本の薄い線をめぐる、その薄膜をめぐる感覚です。けれども、どうしても向こうは見えないというその見えなさじたいを、見えるようにすること。オルフェウスからは、決して見えることのなかったエウリュディケーの顔の見えなさそのものを、現れさせるという感覚です。室伏さんは、死というのが自分で体験できないといった話を幾度もされているので、ダンスをめぐる考察のなかにはこうした死との関係も含まれているように思います。
こうした反転の起こる場所において、室伏さんは皮膚の話をしています。引用をふたつ見たいと思います。まずひとつめです。
「肉体のラジカルな直接性は、伝統的であれ、前衛的であれ、あらゆる手段を駆使して、表層にある何百万もの毛穴を活性化することです。究極的には、舞踏ダンサーの皮膚はあぶくをたてるのです。豊饒の海に時を忘れて歴史以前の時代からぷかぷか浮いている小さな漂流物のように。流れのままに。」
(『室伏鴻集成』p. 393. 1983年4月)
先ほど、凍っているときには「毛穴さえ塞がっている」という話がありましたけれども、この表現はそれを踏まえつつ読んだほうが面白いような気がします。「肉体のラジカルな直接性は、伝統的であれ、前衛的であれ、あらゆる手段を駆使して、表層にある何百万もの毛穴を活性化すること」。もはや出口なしの状況において、しかし、毛穴だけは全部一気に開かせるといったような、そういうようなことを思ったりします。あとは「時を忘れて歴史以前の時代」というのは、時間の外に別の時間を生み出すということとも関係しているように思います。人間が把握したり摑まえたりするまえの時間、人間がつくりだす歴史以前の時間、たとえば人間以前に鉱物だけが存在していた世界の時間感覚みたいなものを捉えていくというような、そういった感覚ですね。無人間的な時間感覚といいますか。「豊饒の海」は生死の循環を思わせます。
くわえて、皮膚にかんする別の引用を見たいと思います。
「流動的なものが、固形化される時
皮フ シミという一枚の皮は
ウラもオモテも無い ∞ ひとつづきの表面のまま定着される
圧延される プレスされる。
そうして圧延された一枚の鋳型状のものが獲れる として
その 皮フとは どこで終結 切断 されているのか。
遊泳してきたシミのようなカタチは
どこからどこへ、どことどこで
外部と内部を 流通させていたのか。
〔……〕薄い 極限まで薄くなった 距離。〔……〕
Potentialな動物と鉱物の遭遇 シミからシワへ シワからその硬直・石化へ
そしてその崩壊と帰化へ。どこへ帰化できるのであろうか。空中という 墓場だ。
あるいは砂漠へ 跳躍的に回帰するであろう。」
(1996年2月7日のノート)
『Faux Pas』だと皮膚を銀色に塗っていますが、まさに「薄い 極限まで薄くなった」表面に当ります。まさにこの表面において色々な移行や変身が起こっていく。テクストでも皮膚を、そういう場所にしたいという欲望があるように感じます。たとえば「Potentialな動物と鉱物の遭遇 シミからシワへ シワからその硬直・石化へ/そしてその崩壊と帰化へ」という箇所ですね。さらには人間とエイリアンのあいだであったり、両者が反転して同時に人間でありエイリアンであるという、ねじれが生起する場所だったり。あとは、生と死と病むことの問題などをやはり強烈に感じます。生きること、死ぬこと、病むことの絡みあい、もつれ、ねじれが、「薄い 極限まで薄くなった 距離」の場において起こるということです。
1970年代後半に福井県に拠点を構えていたとき、『アサヒグラフ』誌(1976年9月10日号)に記事が出まして、公演を見た地元の方のコメントとして、「ありゃ、人間わざじゃないぞ、人間のできんことやっとる」とか、「人間が生まれて死ぬまでの絵巻物をみているよう」だったというものが載っています。非常に的確な言い方だなと思うのですが、そういう「生まれて死ぬまで」を凝縮していく場が、身体だったり、皮膚だったり、骨だったりするのかなとも思うのです。あと声、息ですね。凍りつく息や喉の肉も含めてです。
こういう言い方がいいのか分かりませんが、室伏さんはヴォイス・パフォーマー、サウンド・パフォーマーでもあると思います。声の出し方もそうですし、音の感覚も研ぎ澄まされている。『Faux Pas』でも、舞台が暗転したあと、上からスポットライトがパッとついて、四つん這いになっている室伏さんの身体だけが照らしだされます。天井が非常に高い舞台なのですが、照明と同時に上から白い塩の粒子が、サーっと降ってきて、獣のようになっている室伏さんが背中で粒子を受けとめ、それがさらに床に落ちてゆくんですね。そのときに、塩が落ちてくるサラサラという音にくわえて、塩が室伏さんの背中に当たる音がするのですが、背中にぶつかる角度によって音が変わるのです。背中のどこに当たるのか、中央に当たるのか、それとも背骨の中心からずれて斜めになっている箇所に当たるのかで音が変わりますし、それを繊細にコントロールしながら音を静かにさせていくという、音に対する研ぎ澄まされた感覚。また会場の音にも気を配りながら、観衆の立てる物音に同調しないように、むしろそれを裏切るように反応していて、つまり、会場の物音を繊細に取り込んでいるとも言えて、その裏切り方の方法や塩梅も含めて、『Faux Pas』を見ていました。ソロダンスで50分くらいの素晴らしい作品です。
というわけで、今日、実は「タイトルを出してください」と三回くらいお願いされていたのですが、タイトルがまったく思いつかず、今日ここまでまったくその話をせず、お配りした資料にも全くタイトルの記載がなく、「未定(Untitled)」のままで、まとまりもなく終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
Profile

堀千晶Chiaki Hori
仏文学者。著書に『ドゥルーズ 思考の生態学』(月曜社)、『ドゥルーズ キーワード89』(共著、せりか書房)、訳書にジル・ドゥルーズ『ザッヘル゠マゾッホ紹介』(河出文庫)、ロベール・パンジェ『パッサカリア』(水声社)、ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』(月曜社)など。