第一部

消尽と希少性

江川隆男





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はじめに

 江川隆男と申します。今回ベケット・パーティーでの話しの依頼をいただきましたが、私自身、ベケットに関しては門外漢であります。そこで、本日は、ジル・ドゥルーズのベケット論、『消尽したもの』からとくに言語の問題を取り上げたいと思います。先ほどの堀千晶さんのお話しは映画や小説からの具体的な事例や引用がとても豊富に取り上げられていましたが、今回の私の話しはかなり抽象的なものになりますが、どうかご容赦ください。
 堀さんの話しにも少し出てきましたが、私も、ドゥルーズが用いた言葉、「最小回路」を形成するという観点がすごく重要だと思っています。例えば、スピノザは、精神と身体の最小回路をつくろうとしました。これは、肥大化した精神、つまりさまざまな一般概念や理念、多くの見解や記号からなる精神ではなく、身体の触発に対応した諸観念からなる精神を中心にして身体との並行論的関係を理解していこうということです。このようにして、肥大化した精神を消尽していく実践的過程がまさに倫理学として論究されていきます。スピノザの哲学には、一般概念を消尽して、特異性の観念を浮上させ、またオピニオンを消滅して、共通概念を形成するという考え方が本質的にあります。これが、精神と身体の最小回路としての心身並行論の考え方になります。

 さて、宇野邦一さんが翻訳されたドゥルーズの『消尽したもの』において、このことに関連した重要な論点が最初のほうに出てきます――「疲労したものはもはや何も実現することができないが、消尽したものはもはや何も可能にすることができない」(ジル・ドゥルーズ「消尽したもの」宇野邦一訳、ジル・ドゥルーズ、サミュエル・ベケット『消尽したもの』所収、白水社、一九九四年、七頁)。疲労することは何も実現することができなくなること、これに対して消尽したものは何も可能にすることができなくなること。そして、何一つ可能でない状態において表われるもの、それは、まさに「徹底的なスピノザ主義」であり、言わば必然性の相のもとでの或るものの最小回路の出現です。

 私たちは、例えば、来週の午後五時の状態の可能性を考えられます。例えば、家にいる、映画を見に行く、散歩する、図書館に行く、友人に会う、‥‥のように、いろいろな可能な状態を考えることができる。さて、確実に来週の土曜日の午後五時は、やってきます。そうすると、そこにあるのはただ一つの現実的状態だけです。例えば、散歩に行くという状態だけです。しかし、その散歩の時も、また次の週の午後五時の可能性を考えることができます。同様にその時も、存在するのはただ一つの現実的状態だけです。結局、多様な現実的状態の連結しか存在しないわけです。では、可能性を考えることにいかなる実質的な意味があるのか。五つの可能的状態が考えられるが、そのうちの一つが現実化したという仕方で、可能性から現実性への様相の移行が考えられますが、この際にこの変化の決定因子として、例えば、自分のなかの自由意志の存在をその都度確信することができます。つまり、可能性は、自由意志を育成するために不可欠な様相だということです。しかし、スピノザにおいては必然性しかないので、こうした可能性も含めて、それ以外の様相はすべて消尽してしまいます。スピノザは、このことこそがむしろ自由であると考えます。スピノザの話しになってしまいましたが、このように可能的なものを消尽することが〈ベケットの言語〉の問題としてどのように展開されうるのかを考えたいと思います(『消尽したもの』に附された宇野さんの訳者解題「イメージからイメージへ」も、同様にベケットの言語を中心に考察されており、ぜひ参照にしてください)。

ベケットの〈言語I〉と〈言語II

 私の今回の話しの表題は、「消尽と稀少性」です。〈稀少性〉、あるいは〈希薄姓〉でもよいのでが、これは、実はミシェル・フーコーが提起した〈言表〉(エノンセ)のもっとも基本的な特性のことです。これについては、最後の方で触れることができたらと思っております。〈言表〉は、語や文や命題に、あるいはそれらにそれぞれ対応する概念や主体や対象に先立って成立し、またそれらを派生させるような存在の様態であると考えられます。これは、言語の可能性の条件ではありません。こうした言表のもっとも基本的な特性の一つが、〈稀少性〉だと言われます。私としては、こうした特性と消尽という問題がきわめて隣接していると、あるいは相互に融合するような問題であると思われるので、このような表題を付けました。

 ということで、〈ベケットの言語〉というテーマで資料をまとめました。引用文(1)をご覧ください。「この原子的、離接的な、切断された、途切れがちの言語を、ベケットの〈言語I〉と呼ぶことにしよう。数えあげることが命題にとって代わり、結合的関係が構文的関係にとって代わる。つまり、名詞の言語である。しかし、もしこんなふうに言葉によって可能なことを消尽しようと望むなら、言葉そのものをもまた消尽することを望むべきである」(一四頁)。分断された途切れがちの言語、つまり〈名詞の言語〉は、ベケットの〈言語I〉と呼ばれる。ここでは、命題が提示する対象ではなく、むしろ名詞が担う対象、つまり数えあげられるような事物が命題の対象に取って代わり、また言語の構文的関係の外部で展開されているような、言わば原子論的な事物の結合的関係が構文的関係に取って代わるのである。ベケットの〈言語I〉は、まさに名詞だけに対応する事物が、結びつきの不在のなかで結合して現出するような、そんなイメージではないでしょうか。しかし、この言説の後半では、言葉による可能性の消尽を望むなら、それ以上に言葉そのものを消尽すべきではないかという問いが提起されます。言い換えると、言葉そのものの消尽を欲望することによって、はじめて〈言語I〉から〈言語II〉への問題が予感され、問われるようになるということです。

 では、次の引用文(2)をご覧ください。「この〈言語II〉は、もはや名詞の言語ではなく、声の言語であり、結合可能な分子によって作動するのではなく、混成可能な流れによって作動する。声は、言語の粒子を導き配分する波動、または流れである。言葉によって可能なことを消尽するとき、ひとは原子を刻んで切り裂くのだ。そして言葉そのものを消尽するときには、流れを枯渇させる」(一四‐一五頁)。名詞の原子論的な言語ではなく、相互に浸透し合うような混成的な流れによって作動する〈言語II〉があり、それが〈声の言語〉だと言われている。声は、言語の粒子に関わり、それらを収束あるいは発散させるような、名詞の言語に対する波動であり、それらを変形していく流れである。しかし、こうした流れは、言葉の消尽とともに枯渇してしまうであろう。

 これは、何を意味しているのか。声は、息あるいは気息(souffle)なしには存在えない。気息は、身体のもっとも基本的な存在の様式の一つであす。気息とは、まさに身体そのものの外部を呼吸することであり、身体のもっとも基本的な反復運動の一つです。しかし、声と気息とを批判的に区別する必要があります。あるいは声は、一方ではこのように気息からその流れを得ていますが、他方では言葉の文節に向かう限りでまさに「声」と称されるようになると言えます。この意味で声は、言葉の諸形相を大前提にしています。声は、身体の気息を言葉の形式に吹き込む媒介機能だと言えます。私は、今も気息を声に変えて、それを予め存在している言葉の諸形相からなる系列に吹き込んでいます。例えば、家を出るときに玄関のドアの前には「行ってきます」という形相が予め存在していて、われわれは、それに〈フゥー〉と息を吹きかけているだけです。これは、あたかも言語という無数のハーモニカを吹いているようなものです。要するに、声は、そんなことのためにしか用いられていないということです。

 アントナン・アルトーは、一つにはこうした事柄に我慢がならなかったんじゃないかと思ったりします。この感覚は、言わば言葉と声との間の一種の同一性障害です。それは、自分の気息を声としてなぜ決まり切ったフランス語の諸形相のうちに吹き込むことしかできないのかという無能力についての問いです。このように考えると、〈叫び〉は、こうした脱‐言語形相への積極的な応答だとさえ言えるでしょう。しかし、声は、ほぼ言葉の形式を活性化するだけにしか使用されていない。声は、そのための流れでしかありません。したがって、言葉を活性化させるのではなく、言葉そのものを消尽させようとするとき、同時にこうした声の流れを枯渇させなければならないということになる。これが〈言語II〉の問題です。

ベケットの〈言語III

 次に引用文(3)になります。「もはや言語活動を、列挙可能で組合せ可能な物にも、それを発する声にも結びつけることのない〈言語III〉が存在する。この言語は、たえまなく移動する内在的限界に、間隙、穴、または亀裂に、言語活動を結びつける」(一七頁)。言語活動は、〈言語I〉の結合可能な諸対象にも、あるいは〈言語II〉のそれらを発する声にも関係づけられることのないような、別の〈言語III〉へと移行することになる。この言語は、言わば〈外〉から到来するものを受け入れる切断線に言語活動を結びつけることのできる作用を有するものである。かなり抽象的な表現がなされており、それゆえ〈言語III〉がもっとも捉え難いものになります。われわれは、これをどのように考えていったらよいでしょうか。

 次の引用文(4)を読んでおきたいと思います。「ここで見られ聞かれた何かは、視覚的または音声的な〈イメージ〉と呼ばれる。ただし他の二つの言語によって拘束されていたイメージを、その連鎖から解き放たなくてはならない。もはや、〈言語I〉とともに系列の一全体を想像することも(「理性で損なわれた」順列組合せの想像力)、〈言語II〉とともに物語を考えだし、思い出の目録を作ることも(記憶で損なわれた想像力)重要ではない」(一七頁)。〈言語III〉では、ドゥルーズ自身の『シネマ』の主題の一つに近い表現で、視覚的で聴覚的あるいは音声的なイメージが問題になると言われている。〈言語III〉の任務は、とりわけ〈言語I〉と〈言語II〉のうちに囚われていたイメージをそこから解放することにある。言い換えると、理性や記憶によって傷つけられた想像力は、もはや死んだ状態であるが、それゆえ敢えて言うべきである――「想像力は死んだ想像せよ」(一八頁)、と。

 ここにおいて明確になったのは、問題はまずは〈イメージ〉だということです。引用文(5)を見てください。「少しも損なわれていない純粋なイメージ、まさにイメージそのものを作りだすこと、一切の人称的なもの、合理的なものを保存することなく、十全な特異性のうちにイメージが出現するような地点に到達し、天上的な状態にも似た無限定なものに接近することは実に困難である」(一八頁)。つまり、〈言語III〉に関わるのは、まさにこうした地点だということです――純粋なイメージ、そしてそのイメージを作りだすこと、それらを特異性のうちに現出させること。これは、まさに〈消尽の倫理〉だと言えるでしょう。

 先ほどのバークリーの話にも出てきた観念についてですが、観念というのは一般概念ではなく、例えば、目の前に今あるこのコップについての観念です。それは、コップ一般の概念のもとで理解の仕方とは異なっている。つねにこのコップ、このテーブル、この椅子、‥‥のことです。これが、特異性あるいはこのもの性ということです。特異性は、特殊性あるいは特権性のことではありません。このコップは、偶然にも私の眼の前にあるが、しかし現実的にはそれ以外では在りえないという仕方で事柄を理解すること、まさにこうしたことが、一般概念とそれにともなう可能性の様相を消尽させることにつながります。自己の身体が関わる事物についての現実性の様相がその意識においてより少なければ、それだけ可能性の様相はその事物により多く附着することになるでしょう。それゆえ純粋イメージは、理性や記憶によって傷つけられ続けることになる。純粋イメージは、稀であり、困難だということです。また、「天上的な状態にも似た無限定なもの」という表現がありますが、この「無限定」という言葉は非常に重要であり、最後に簡単に述べたいと思います。

 引用文(6)を見てください。「イメージは、一つの物ではなく、「プロセス」である。このようなイメージは、物の観点からは実に単純でも、その力能は未知のものだ。それは、〈言語III〉であって、もはや名前や声の言語ではなく、響きや色彩をもつイメージの言語である」(一九頁)。イメージは、プロセスであると言われています。このプロセスは、響きと色彩のイメージに結びつけられた消尽のプロセスのことです。いずれにしても、それは、「空間の潜在性を減衰させること」であり、また「イメージの力能を散逸させること」である(二三頁)。これらは、例えば、まさにプラトン的な理想的視点というものに対してまったく無差異、つまり無関心である。こうしたイメージは、無数の視点が成立する空間がもつ潜在的可能性を衰退させ、また名詞や声における響きや色彩に強度が充てられることで、それらを消滅のプロセス――それは瞬間の場合もあるが――に巻き込むようなものである。それは、イメージの力能の問題であり、それと同時にイメージの力能そのものが散逸することにある。これは、私としては、先ほどの〈外〉の対象性のイメージだと言いたいですね。それゆえそれは、或る未知のものである、と。これが、先に指摘した「無限定なもの」につながると思われます。

 先の「存在することは知覚されることである」という言説は、言い換えると、存在するものは物自体ではないということを意味している。つまり物が完全に規定されているなら、もはやその物は知覚されないということです。それゆえ知覚あるいは観念の成立は、〈非‐物自体性〉の位相を前提としているのではないか。これは、物は物自体として完全に規定されているという考え方ではなく、或る非規定性をともなう限りでしか知覚――これは〈被知覚態〉(percept)と呼ばれるべきである――は存立しえない、と理解することです。〈被知覚態〉を含んだ対象性の問題は、主観や客観についての問題ではありません。知覚の対象が物自体であれば、その完全に規定されたものを認識する主観性はいったいどのようなものになるのか。それは、物を単に写し取るという意味だけの主観性でしかないでしょう。この延長上には、次のような常識が成立します。知覚は、例えば、同じものを見ても、人によって違っていたり、あるいはそれをどこから見ているかによっても、違って見えたりする、と。そして、それらは、相互に交換可能な知覚の様態である、と。したがって知覚における視点の理解は、一方ではそれぞれの〈主観性〉に容易に還元され、他方ではそれらが相互に交換可能である限りで今度は共通なものとしての〈客観性〉に還元されることになる。いずれにしても、これは、むしろ知覚の無能さを示した事柄でしかありません。

 しかし、知覚の力能、つまり〈被知覚態〉の観点から言うと、そこに生起しているのは、まさに対象性の遠近法的位相であり、主観にも客観にも還元不可能な、つまり誰のものでも何の物でもないような或る無限定的なものです。ドゥルーズ=ガタリは、『哲学とは何か』のなかで、芸術作品という物の権利問題についてこの無限定な位相を論じています。それは、〈被知覚態〉と〈被情動態〉(affect)のことです。ここに関わる力能こそが、或る未知のものの〈外〉だということです。〈言語III〉は、いずれにしても、名前や声の言語ではなくて、まさにそれらの響きと色彩のイメージの言語、つまり感覚の度合にともなうイメージの言語です。私は、ここまで述べてきたように、これを対象性の言語の一つだと言いたい。ベケットの言語は、こうした〈被知覚態〉に関するイメージの言語として、あるいは名詞に対応する事物と声に対応する人間的実体とをまさに当の名詞や声とともに消尽させるような言表作用として理解されうるのではないでしょうか。

消滅の多様体について

 では、引用文(7)に移ります。「とにかくイメージは、精神の王国に君臨する〈見違い言い違い〉、〈見違い聞き違い〉の要求に答えるのだ。そして精神的な運動としてイメージは、それ自身の消滅や散逸の過程と不可分なのだ。その過程が時期尚早にせよ、そうでないにせよ。イメージは一つの気息、息吹であるが、それは消滅の途上で吐き出されるものだ。イメージは、消えるもの、おのれを使い果たすもの、すなわち失墜である。それは、高さ、すなわち〈零〉以上のその水準によってそれ自体定義されるような純粋強度であり、強度は、ただ落下することによってその水準を描くのだ」[強調、引用者](三七頁)。人間精神の基本は、見間違えたり言い間違えたり、あるいは聞き間違えたりすることから成り立つような非十全な運動の王国だと言われている。この限りでこの王国の要求に応答するのがイメージである。イメージは、言葉と声からなる言語を消滅させ、またそれによって自らをも消尽することになる。というのも、純粋イメージは、消滅の過程で吐き出されたものにほかならないからである。イメージの言語は、名詞や声に代わる言語使用ではなく、むしろそれらを巻き込んで自らも消滅していく過程そのものの言語様式であり、それ以上にそうした消滅過程においてしか存立しえない力能の形式である。これによって私たちは、改めて〈イメージとは何か〉という問いをまったく別の水準で提示することができるのではないか。イメージは主観的内部性に対する〈外〉の触発であるにもかかわらず、われわれはイメージの力能をこうした内部性の諸形式を強化するためにしか用いてない。つまり、イメージは、与えられた既存の概念やオピニオンや価値に対する図式機能としてしか使用されていません。この意味におけるイメージは、むしろ消尽することなく、まさに既存の特定の名詞や声あるいは映像や見解をもっぱら固定化し強化するためにしか用いられていないでしょう。

 さて、ドゥルーズは、それ以上にここで何を考えているのか。つまり、イメージが消滅し散逸していくプロセスそのもの、それは何を意味するのか。引用文(7)の後半は、まさにその応答になります。消滅の途上で吐き出されるもの、それこそがイメージである。これは、第一に強度の問題であり、第二に〈強度=〇〉へと落下する限りにおける純粋強度の問題です。カント的な能力論に反して――あるいはスピノザの考え方に則して――言えば、人間精神のあらゆる能力にはイメージが必然的に付着しています。理性には理念のイメージが、悟性には概念のイメージが、記憶には思い出のイメージが、想像力には再生された表象のイメージが、感情にはこれらの諸能力の特性を強化するようなイメージが、それぞれの能力に過剰に伴っています。あらゆる諸能力の内部性の形成するようなこうした表象的イメージをたとえ部分的にでも、言語において消尽し消滅させうるようなイメージそれ自体があり、その稀少な純粋イメージこそが、諸能力のうちに捕獲されたイメージを失墜させうる最大の力能をもつのだと言えます。われわれは、イメージの容易さのもとで、イメージの稀少さを探求しなければならないのだ。

 こうした〈純粋強度〉は、たしかに〈強度=〇〉との間でしか成立しえず、またこの〈強度=〇〉を備給するものである。それは、たしかに感覚され知覚され、それと同時に理解され概念され、記憶され想像されるものに含まる限りでの、つまりあらゆる能力に含まれる限りでの触発の度合が必然的に含むものであると言えます。そして純粋強度は、まさに人間精神におけるこうした触発の度合を消滅へともたらすものたらすものです。感覚されるべき強度や触発の度合を考えるなら、そこでの身体の存在を考えないわけにはいかないでしょう。身体におけるまさに〈感覚されるべきもの〉としての強度は、その身体における強度=〇である限りでの〈器官なき身体〉についてのまさに差異そのものである。イメージがもつ強度あるいはその落下はこのようにして器官なき身体のまさに強度的部分であり、純粋イメージとはまさにこの落下の途上でこの身体の気息が吐き出したものである。

 一つの強度は多様な度合を有しますが、それは、その強度が落下するプロセスのうちで存在する度合です。諸々の強度は、それぞれに〈強度=〇〉との間の関係しか、つまりその間の可変的な距離しかもたない。純粋強度と〈強度=〇〉とのこうした実在的様相のみが、まさに器官なき身体なのです。器官なき身体をそれ自体で〈強度=〇〉として実体化してはならないでしょう。何故なら、器官なき身体は、あらゆる強度が落下していく限りでの姿形しかもたないからです。あるいは身体におけるあらゆる感覚の度合が消尽していくのと同様、言語のうちでの気息の消滅があり、またその途上で吐き出されるイメージがあるということです。

言語と言表

 究極的には、〈強度〉の問題になりましたが、ここにベケットにおける〈言語III〉の特徴があるのはたしかです。もっとも重要なことは、ベケットの言語におけるIからIIへ、またIIからIIIへという移行そのものがプロセスだということです。しかし、〈言語III〉を目的論化してはならないでしょう。こうした移行を目的論にしてしまうと、それは、直ちに弁証法的な積み上げ式の論法に陥ってしまうからです。そこでは、いつも第三のものがもっとも重要な事柄として特権化され目的論化されることになります。こうした弁証法的な段階論に陥ることなく、むしろ一つの平面上で、I、II、IIIという言語の諸様態が一つの最小の三角回路を形成するように考えていくことが重要となります。三つの言語があって、それこそ『クワッド』のように、この三角回路を動きつつ、そのプロセスそのものを形成し消尽していくわけです。その運動は、IとIIの間に入ってみたり、IIとIIIの間に入ったり、IIIからIへと移動したり、‥‥という仕方で(あたかもフラクタル次元の空間を移動するかのように)、消尽のプロセスを解放することにあります。

 ところで、こうした言語の三つ組、つまり言語I、II、IIIがつくるベケットの言語の平面は、実はフーコーが言う〈言表〉の次元と極めて近いように思われます。フーコーは、『知の考古学』のなかで〈言表〉のもっとも基本的な特性が稀少性にあることを強調しています。フーコーの研究者はフーコーの思考体系のなかでしか〈言表〉を扱いませんが、そうではなく、〈言表〉に関するより一般的な理説を展開すべきであり、とりわけ言語の基底にある〈言表〉という考古学的理解に捉われることなく、あらゆる言語活動あるいは言語的諸要素の先端に〈言表〉もたらすこと、つまりそのようなものとして〈言表作用〉(énonciation)を理解し、ここから一つの倫理学を形成することが問題である、と私は考えます。フーコーが〈言表〉について言う稀少性は、実は言語も含めた事物の〈規定性〉についての稀薄さの度合であると言えます。つまり、言表の稀少性は、こうした非規定性あるいは無限定性の問題を新たに構成するものだということです。

 さて、こうした意味での〈非‐規定性〉とはまったく逆の完全な規定性に依拠した理説が、例えば、ドゥルーズの『差異と反復』のとりわけ第四章に出てきます。ここでの考察は、新たな「理念論」を展開しようとすることにありますが、たしかにカント的な物自体の背後にある〈汎通的規定性〉(omnimoda determinatio)の思考に陥っていると言わざるをえないでしょう。これをあえてアナロジーの形式で表現すれば、〈物自体:現象=潜在的もの:現働的なもの〉になるでしょう。理想の規定性とは何か。それは、言わば〈すべての仕方で規定されたもの〉ということになる。カントは、こうした規定性に対して〈現象〉を〈すべての仕方で規定されたもの〉ではないという批判的な思考様式によって、その特異な位相を描出しました。要するに、人間の悟性や理性や感性や想像力が機能するのは、その対象性が非規定的なものだからです。戻りますが、フーコーの〈言表〉は、ほぼこうした〈現象〉概念に本質的に含まれた言語的位相ではないのかということです。この意味での〈現象〉は、まったく別の言葉を与えるべきだと思っています。こうした帰結を生み出すのが、まさに言表の〈稀少性〉であり、また規定性の〈希薄さ〉だということです。

 例えば、或る物について私たちは、重さや長さ、色や硬さ、場所、等々、さまざまな性質からその規定性を問うことができます。そして、どの項目についても規定されていれば、その物はすべての仕方で完全に規定されていると言えます。しかし、或る何らかの性質、あるいは或るカテゴリーやパラメーターの一つが規定されてないとします。例えば、音について、音の高さ、長さ、音色が決まっていたとしても、その音が実際に鳴り響くことはありません。というのも、音の強さが規定されていないからです。それゆえ人は、現実の音はすべてのパラメーターが規定されているから特定の時間と空間を充たすことができると考えるわけです。しかし、非規定性や無限定性は、そうした事柄を意味しているわけではありません。つまり、或る性質は規定されているが、別の性質は規定されてないといったものではありません。それは、まさに規定性の希薄さを示しているのです。ドゥルーズ=ガタリに倣って言えば、例えば、人間は、一つの身体には一つの人格が、一つの人格には一つの性が、‥‥という仕方ですべて規定されているわけではありません。むしろ身体の〈触発‐多様体〉にはその諸観念からなる〈認識‐多様体〉が対応し、これらの多様体はまたn個の性からなる〈活動‐多様体〉が対応するということです。このような人間精神の形成を促すのがまさにここで言う〈非‐規定性〉の思考様式であり、その倫理学だということです。

最後に

 言表については、『知の考古学』から引用文を一つだけ用意しました。「この任務〔言表あるいは言説形成に関する分析〕は、けっしてすべてが語られることはない、という原理に依拠している。自然言語において言表されえたかもしれないことに対して、言語学的諸要素の無際限な組合せに対して、言表は(それがいかに多数であるとしても)つねに不足している」(ミシェル・フーコー『知の考古学』槙改康之訳、河出文庫、二〇一二年、二二五頁)。〈rareté〉は、翻訳では〈稀少性〉となりますが、むしろ〈稀薄性〉の方が的を射ているように思います。それは、特定のカテゴリーや概念に対応する物の性質が未規定だということではなく、すでに述べたように、あらゆる規定性について稀薄さの度合があるということです。言表は、けっして言語の可能性の条件などではない。むしろ言表の非規定性ゆえに命題や語や文(これらと同時に対象や概念や主体)といったあらゆる言語的要素の方が、こうした言表から派生したものとして理解されなければならないのである。

 もう一つ資料は、私の『すべてはつねに別のものである』(河出書房新社、二〇一九年、一八〇‐一八五頁)からのものになります。ここでは、タイプライターのキーボードの左上に配置されている〈A, Z, E R, T〉というキーの並びについて、これが言表に関わるものであるという『知の考古学』に出てくる有名な、しかし唯一と言ってよい事例に関する考察がなされています。キーボードをどれほど眺めたとしても、左側の一番上に〈A〉があり、その右隣に〈Z〉があり、‥‥という配列がもつ規則性がいったいどこから来たのかは、実はまったくわかりません。そこで考えうるのは、(1)フランス語がもつ文字の使用頻度という度合の差異(頻度と隣接の秩序)であり、(2)われわれの人間身体がもつ両手の指の数とそれら指の間の間隔、そしてそれらの機能的差異(諸力の外在的実現)である。問題は、(2)の方である。結論を言えば、タイプライターの教則本に書かれた言表〈AZERT〉は、それとまったく類似した可視的なタイプライターの実際のキーボード上の〈A, Z, E, R, T〉をその〈外部性〉として有するが、それと同時に人間身体における諸力の関係性をまさに〈外〉の存在として特異化するものだということである。要するに、こうした外部性の諸力の稀少な形相的成立が言表だと言えます。これは、まさに「不確かさという規則以外をもたないアルファベットの系列の言表」(『知の考古学』、一六二頁)であり、偶然性や不確実性のもとで配分される規則における必要不可欠な諸要素である。言表は、こうした偶然以外の規則をもちえない文字列であり、その限りでまさに必然的に規定の希薄さによって形成されうるものなのです。

 ということで、今回の私の話は以上になります。ここから本来であれば、ベケットの個々の作品に向かってその分析や考察を進めていくべきだと思いますが、本日の私の課題は、ベケットの言語の〈特異性〉というよりも、むしろその〈普遍性〉に重きを置いたものであるという点をご理解いただければ幸いです。ご静聴、ありがとうございました。

江川隆男

立教大学現代心理学部映像身体学科教授。著書に『存在と差異──ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)、『死の哲学』『超人の倫理──〈哲学すること〉入門』『アンチ・モラリア──〈器官なき身体〉の哲学』(以上、河出書房新社)、『スピノザ『エチカ』講義──批判と創造の哲学のために』(法政大学出版局)、『すべてのつねに別のものである──〈身体–戦争機械〉論』(河出書房新社)ほか。訳書に、アンリ・ベルクソン『ベルクソン講義録 III──近代哲学史講義・霊魂論講義』(共訳、法政大学出版局)、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社)、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)、ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『対話』(共訳、河出書房新社)[文庫版]『ディアローグ──ドゥルーズの思想』(河出文庫)などがある。