竹重伸一
─映像上映─
やっぱり、室伏さんほど、生で観ないとっていう人いないかなっていう。映像ではあの時の舞台の、彼の、呼吸する、その呼吸だけで空間を動かすようなあの波動のすごさっていうのは、よくわからなかったかもしれないですね。まあ、とりあえず、ということで、〈外〉っていうことについて少し話していきたいと思うんですけど、亡くなる前の、室伏さんの最後の、結果的に最後の外国公演、外国巡行になった直前、去年の4月の終わり位に、これはもちろん最後だと思ってたわけじゃないんですけど、インタビューしたんですよ。残念ながら、都合上まだ活字になってないんですけど、そのときに実は僕は、〈外〉っていうことに関しても、室伏さんに質問しました。で、その時はっきりしたのは、やはりこの自分の〈外〉というのはこの、ここにありますけど、「外の思考」っていうミシェル・フーコーが書いたモーリス・ブランショというフランスの思想家についての文章なんですけど、この「外の思考」を読んだのが、〈外〉ということに気付いた最初だと。それからだと、彼自身が言ってました。この本の日本語版が出たのが、ああ、でも日本語版が本になったのは1978年3月なんですけど、 多分その前にパイデイアというなんか雑誌があったんですかね、それの1970年春号に一度出てるみたいなんで、その時、その雑誌の方を先に読んでるかもしれないですね、室伏さんは。で、この「外の思考」っていう本、実際日本語になっている本は、「外の思考」というタイトルの論文だけじゃなくて、「侵犯行為への序言」っていうジョルジュ・バタイユ論、それからもう一つは、「アクタイオーンの散文」という、ピエール・クロソウスキー論、この3つが集められている本です。でも実際は「外の思考」と名付けられているのは、一番最初のモーリス・ブランショ論なんですよ。で、本のあとがきにもこれを訳した豊崎光一さんという方が書いてるんですけども、この〈外〉、 フランス語ではdehorsというのは、無論、外部とも訳しうる。しかし、訳者が敢えて〈外〉という訳語にこだわるのは、外部という日本語が抱える可感性に、実体性に、ブランショとフーコーのいうdehorsというのは限定されないし、限定され得ないからである。外部は内部を暗黙裡に想定する。しかし、ここでいうdehorsは、この対立関係の外にある。つまり、内部、外部という二項対立の外部ではないということなんですよね。その二項対立の外にあるというのがこの〈外〉なんです。〈外〉というとき、いわゆる内面までも、また既に外に移行しているのであると。さらにフランス語のdehorsは、名詞(実態ならぬ空間)であると同時に形容詞副詞的でもある。その間に本質的な区別はない。なので私は外部と書かずに〈外〉とこのdehorsを訳したと豊崎さんは書いてるんですけど、豊崎さんは非常に慧眼で、外部と訳さずに〈外〉と訳したのは、フランス文学者として非常に鋭い感性だったと思いますね。室伏さんも、僕がインタビューしたときに、やはりこの〈外〉という言葉がいわゆる外部と内部の二項対立の外部じゃないんだってことははっきり言っていました。その二項対立の外にあるのであると。これは絶対的に重要であるということは、室伏さん本人が言ってました。じゃあ、この〈外〉っていう言葉なんですけど、この本は、読んでいらっしゃる方も読んでいらっしゃらない方もいると思うんですけども、この〈外〉っていう言葉に、実は、僕が書いたんですけども、空虚、空虚の経験と〈外〉っていう経験は、表裏一体なんですよね。空虚っていう経験の中に、やっぱり〈外〉っていうものが、ぴたっと張り付いてくるということなんですよ。ところがこの空虚って、日本語で空虚、この本でもやっぱり空虚って書いてあるんですよね。本では、この、豊崎さんの訳の中ではこれ、空虚っていう言葉、空虚って書いてあるんですけど、ただ、日本語ではこの空虚っていう言葉と同じような言葉が結構いっぱいある。ちょっと、紛らわしい言葉が。例えば虚無という言葉。あるいは無とか、あるいは 無常とかっていう言葉。小林秀雄の有名なエッセイ、「無常ということ」っていうのがありますよね。で、室伏さんも、これ、コルプスという雑誌、僕が辞めた後だったかな、土方特集をやったときに、室伏さんは土方論を書かれていて、この本の中で室伏さんは、やっぱりね、……空虚じゃなくて、やっぱり虚無って書いてあるんですよ。虚無、虚無の経験というふうに。虚無イコール、室伏さんは虚無イコール眩暈の経験っていうふうに書いているんですけど、室伏さんは、空虚じゃなくて虚無っていう言葉を使っているんですね。ただ、僕は、空虚という言葉と虚無、あるいは無、無常 という言葉は分けて考えたいと思ってるんですよ。ちょっと紛らわしいですけど、空虚っていう言葉はあくまでも〈外〉っていう言葉とリンクするんで、虚無とか無っていうのは、これ空虚とは別物だと考えたいですね。これは、あの、僕自身の使うときの言葉の使い方の問題ともいえるんですけど、まあ、僕自身、僕なりの根拠があるんですよね。で、空虚っていう方は、英語でいえばemptinessだと思うんですね。で、虚無とか無っていうのはnothingです。で、僕が考えるに、空虚っていうのは、ここでも、豊崎さんがあとがきで書かれているんですけど、dehorsというのは、実態ならぬ空間って書いてあるんですよ。あくまでも、空虚というのは、空間的な体験なんです。一方、虚無とか無っていうの は、これは時間的な体験だと僕は思います。で、まあ、実際日本語でこういうふうな、僕のような意味づけで空虚と虚無を使い分けている人はあまりいないかもしれない。多分ごっちゃに使っている人が多いんですけど、僕はここで敢えて、空虚と虚無という言葉は分けて考えたい。それは、今言ったような理由なんですね。空虚というのは、あくまでも空間的な観念・体験で、虚無とか無というのは、時間的な観念・体験だと思うからです。なぜこの区別に僕は敢えてこだわるのかっていうと、虚無とか無っていうのは、特に日本においては、非常にスピリチュアルなものと簡単に結びついちゃう。まあ、時間的なものなので、これ空間はないんですよ。完全時間的な体験なので、 目に見えない、不可視の体験ですから。だから、空虚っていうのを時間的な経験にしちゃうと、簡単にスピリチュアルなものに貶められてしまう。で、こういう意味での多分虚無とか無っていう人は、かなり多くの舞踏家が使っちゃってると思うんですね。だけど、こういう虚無とか無っていうのと室伏さんの言っている〈外〉につながる空虚っていうのは、これははっきり違うものだ。で、この後天皇のことを僕は書いたんですけど、実はこの天皇っていうのは、時間を支配する神だと。少なくとも日本においてはそうなんですよ。元号のことを考えれば分かる。彼らはずっと、歴史的にいたかどうかよくわからない頃から元号がつながっているわけですよね。 今平成までつながっていて、この元号だけはずっと一応日本の歴史上途絶えたことがない。で、これは実は天皇家自身が非常にこだわってたんですよ。常にこの元号を自分たちが名づけるということは、これが自分たちのある意味権威の最高の象徴であるってことを、彼らはよくわかっていて、確か僕の昔勉強した記憶では、足利義満か誰かが、天皇から元号の命名する権利を剥奪しようとしたか何かしたんですね。でも、天皇家はそれは絶対認めずに押し返したんですよね。で、とにかくどんなに表面的に権力がなくなっても、元号を作るっていう権力だけは、天皇家は絶対に手放さなかった。で、未だに我々は天皇が生きて死ぬっていう時間のサイクルの支配の中にいるわけですね。日本人はね。これは、やはり、天皇っていうのが、天皇制っていうのが、やっぱり時間っていうもの、時間を支配する神だからだと僕は思っているんですよ。つまり彼らにとっては、天皇個人が重要じゃなくて、天皇がいわゆる彼らのいう神々の、天照大神からつながってくるその時間、その時間の流れ、昔から今まで、自分たちはそこに直接つながっている存在なんだっていう。これが彼らにとって非常に重要で、個々の天皇、代々の天皇はある意味、意味がないわけですよ。そのスピリチュアルとしてつながっている、霊としてつながっているものが重要であって。これは、天皇っていう言葉、言葉自体にそれが現れているんですね。天皇っていう言葉なんですが、意外と日本人はよく知らないですけど、例えばこれ韓国、朝鮮では絶対天皇のことを天皇とはいわない。日本国王とかいいますよね。どうしてかっていったら、これ儒教、中国の儒教では、天っていうのは、いわゆる神なんですね。だけど、あくまでも中国の場合、中国の儒教の場合は、天というのは皇帝よりもさらに超越した概念なんですね。だから、中国では皇帝だって、もちろんある意味天皇よりも、ものすごい権力を持って好き勝手やってたわけですけども、でも中国においては、皇帝がもしその天の倫理に反したことをすれば、その皇帝は倒されてもいいっていう易姓革命という概念があるんですよね。だからどんなに皇帝が権力があってもあくまでも人間である、その上があるんだっていうことが、中国人、あるいは朝鮮人にもあるんです。ところが、日本の場合は、天皇は、天を自分の名前の中に入れてしまったわけですよ。単なる皇帝じゃなくて、天は自分の中にあるんだっていう。考えようによっちゃ、すごい……中国人が、朝鮮人が、なぜ日本の天皇のことを何かこう、不可解というか、嫌がるのかっていうのは、こう考えればよく分かると思うんですけども。天というものを人間の中に含んでしまった。自分は単なる皇帝じゃなくて、神でもあると、この天皇という言葉で宣言しちゃったわけですね。これは、実は、日本の文化から〈外〉を消滅させちゃったということなんですよ、この天皇というのは。勿論、中国の天とキリスト教の超越神とはまたちょっと違いますよ。違いますけど、しかし、まだ中国とか朝鮮には、人間の世界の外がある。上があるというのは、文化の中にある。しかし、日本の場合はないんですよね、ほんとに。全部内在の文化なんです。全部中に入っちゃうっていうね。このことを考えただけでも、やっぱり室伏さんが〈外〉って言い続けたっていう、30年も40年も言い続けたということの、すごさっていうか、で、また、彼がなぜ孤立してしまうのかっていうことも、なんかよくわかってくるような気がするんです。日本って本当に内在の文化、内在性の文化だと思いますね。で、空虚っていう言葉に戻りますけど、あくまでも可視的な体験であると、目に見える体験であるっていうことがやっぱり重要なんだと思うんですね。この「外の思考」という本の中からちょっと引用しましたけど、ミシェル・フーコーの言葉でこういう言葉があって、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なるものであるかを見えるようにすることに存するのだ。」ちょっと難しい言葉ですけど、でもまあここに書いてある通りですよね。つまり、不可視なるもの、目に見えないものを見えるようにするんじゃないんだってことですよね。見えるものの中にある不可視性が、どれほど不可視であるかを見えるようにすることであるっていう。これ、フィクションという言葉は、もちろん、モーリス・ブランショって小説家でもあるんで、直接的には文学のフィクションのことを言ってるんですけど、このフィクションっていう言葉は、芸術全般の創造行為と置き換えても全く問題ないと思うんですよね。で、その言葉から僕が類推したのはジャコメッティの彫刻なんですよ。確か室伏さんもインタビューの日、同じ日に、終わった後ちょっと飲んだ時に、やっぱり自分にとって彫刻はジャコメッティで終わる、まあ、ジャコメッティで彫刻は終わっているということは、言っていたんですよね。ただジャコメッティについて何か文章は書いてないと思いますけど、でも、僕は直接聞きました、そういう言葉を。彫刻はジャコメッティで終わっていると思っている、と。で、僕がこの言葉からなぜジャコメッティの彫刻を類推したかというと、ジャコメッティはまあ、ご存じだと思いますけど、最初シュルレアリスム的な彫刻を作ってたんですよね。つまり、ファンタジックっていうか少しデフォルメされた彫刻を作ってたんですね。で、その後シュルレアリスム的な彫刻を放棄して、おそらく戦争中位からだと思うんですけども、みなさんご存じの、細い、切り詰められたような彫刻を創り出すわけですよ。それと同時に、いろんな人のデッサン、日本人の矢内原忠雄っていう有名な哲学者のデッサンとか、一杯残してますけれども、つまり想像じゃなくて、見えるもののデッサンをやりだすわけですね。で、彼もやっぱり、いかに見えている、見ているということが、見るということが難しいか。本当に見ているんだろうかということを常に言っていた。本当に何も、実は見えているんだけど、何も自分は見てないんじゃないかということを書いてるんですけども、その苦闘のあらわれが細い、本当に、削って削ったような彫刻なんですよね。あの彫刻、ご覧になった方はわかると思うんですけど、何が他の彫刻と違うかというと、ジャコメッティはあの削ったオブジェだけじゃなくて、そのオブジェの周りの空間、もちろん周りの空間は別にただ何もないと思うんですけど、周りの空間、これを彼は造形しているんですよ、明らかに。それが例えば彼の直前のロダンなんかとは大きな違いで、ロダンの場合は、あくまでもオブジェにボリュームを作って、そのボリューム、そのオブジェを感じさせようとしているわけです。オブジェそのものを。だけどジャコメッティの場合は、オブジェを削っていくことによって、オブジェの周りの空間も造形しちゃってるんですよ。つまり、これが、僕からいわすとすごく空虚、彼は空虚を造形しているというふうに思うんですよね。つまりああやって削ることで彼は何を造形しているかといったら、空虚を造形しているんですよ 。目に見えない空虚を造形している。目に見えないんだけども、あのオブジェがあってこそ、それは現れてくる空虚なんですよね。だから、ジャコメッティの彫刻を見た時、ある距離を持って見る、彫刻からいろんな距離を持って見るということをやってみたんですけど、ある距離から中に入ると、ものすごい磁場があるんですよ、ジャコメッティの彫刻っていうのは。それがいろんな距離で見ていくとよくわかる。だから、あれはある一点だけから見る彫刻じゃなくて、いくつかの距離を考えて造形している彫刻なんですね。だから空間を造形しているんですよ。ということで、僕はこの、ミシェル・フーコーの「外の思考」、この言葉と、ジャコメッティの彫刻っていうのは、すごく響きあうものがある、というふうに思います。
じゃあ、〈外〉とか空虚っていう言葉が実際にどう展開していくかっていうことなんですけども、ここでまたもう一回「外の思考」からの引用ですが、「主体が締め出されている言語への突破口、言語の実体の現われと、自己同一性への自意識とのあいだのたぶん救いようのない一致不可能性」という言葉がこの「外の思考」の中にありまして、つまり、この、〈外〉っていう経験っていうのは、自己同一性という幻想の外に出る体験だと僕は思うんです。室伏さんもこのことは確か間違いなく書かれていましたけども、二人ともが終始一貫して拒否していたのは自己同一性という幻想なんですよ。自己同一性っていう幻想って何かということなんですが、例えばよく思うんですけど、舞台において最も観てて不快なのは、ダンサーとか俳優の身体が、最初から最後まで、岩みたいに普遍堅固な存在としてあり続けていることなんです。つまり、舞台の登場から最後まで変化しない。全然トランスフォーメーションしない。でも、ほとんどの舞台、役者とかダンサーって、皆そうですよね。残念ながら。それは何かこう、例えば、何か役をやってその役になにきるとか、ダンサーだって役になりきることはあるのだから、何か自分以外のものに変身するということとはちょっと違うんですよね。あくまでも身体の状態としてトランスフォームしているかしていないか、という問題なんですけど。このトランスフォームっていうことなんですが、自己同一性という幻想と対極にあるもので、それを打ち壊すためにいかにダンスにおいてトランスフォームが大事であるかっていうことですね。例えばスピリチュアルな経験、まあ、シャーマンとかって書きましたけど、あるいは舞踏家でもスピリチュアルな踊りをする人が結構いますけど、この人たちと室伏さんは何が違うかっていうと、シャーマンとか、そういうスピリチュアルなダンスというのは、一見自己、自分の外に出ているように、なんかこう憑依しちゃって自分じゃないものが入ってきている、自分じゃないものになっちゃっているように見えるんですけど、でもこれは単なる一時的な陶酔で、実際は瞬間的な何か眩暈みたいなもので、これ覚めたらまた同じ自己に戻ってるんです、そういう人たちはね。だけど、室伏さんの場合は、これは、意識的にコントロールしているわけですよ。意識的にコントロールして、自分の体をトランスフォームしているわけですよ。だから、これは単なる自己陶酔とは全然関係がない。だから自分の外に出るといっても、何か忘我の状態になるわけではない。今の映像を見ても、それはよくわかると思うんですけど、つまり、これは、室伏さんの中に、自己同一性を破るものとして、ちゃんと言語っていう他者性があったということだと、僕は思うんですよね。で、シャーマンとか、スピリチュアルな人というのは、言語という他者性がないと思うんですよ。単なる陶酔とかイメージの中で自分の外に出るだけで、言語っていう他者性が自分の中に入っていない。なぜか、これ、「岡田利規の俺」って書いてあるんですけど、これは何のことかというと、これ2月に赤レンガダンスクロッシングで岡田さんがテキストパフォーマンスしましたよね、あのことなんですけど。あの時の彼のテキストパフォーマンスを聞いていて、聞かれた方は覚えていらっしゃると思うんですけども、彼は俺が俺がっていう一人称のセンテンスをすごく繰り返していたと思うんですよね。俺が俺が飛行機に乗って飛行機の中で……俺が俺がっていう。僕はすごく違和感を感じて、いや全くこれ自己同一、彼は自己同一性という幻想に囚われたままの人なんだなあっていう。僕はあの一人称の何の疑問も持たない連発に、正直言って、ああ、この人はやっぱり自己同一性の人なのかというふうに思って、これやっぱりちょっと、室伏さんとは……縁がないっていうか、室伏さんとは異質な人なんじゃないかなと。残念、と、そういうふうに僕は思っちゃったんですよね。しかし、この自己同一性っていう言葉はまあ非常に哲学的文学的な用語なんで 、少しダンスという文脈で考えてみたいと思うんですよね。この自己同一性というのは、ダンスにおいてはどういうふうなことを意味しているかという。体の中心軸という問題と、この自己同一性という問題は、非常につながってると思うんですよね。で、クラシックバレエは、足裏の、この一点から、この頭上の一点、この極めて決められた一本しかないんですよ、体の軸が。しかしこの軸を完璧に常にコントロールし続けるっていうのがクラシックバレエの基本的なテクニックで、このテクニックができなければ、クラシックバレエのダンサーとしては失格だし、美しくないと思われてしまうわけですよね。じゃあ、この身体の中心軸が一本というのが、一体何を意味しているのかというのをちょっといろいろ考えたんですけど、これはやっぱりキリスト教のコンセプトそのものだと思い至ったんです。つまり、常に、変化しない自我。はっきりとした自我というものが常にキープされている状態。で、この自我が、実は神とつながっているんですよ、キリスト教の。神によって担保されている自我なんですけど、この自我がきちっとキープされている状態というのがバレエのテクニックの基本なんじゃないかと僕は思ってる。ところが、この軸が一本しかないっていうことに対して、恐らく 最初に疑問を持ったのが土方巽だと僕は思いますね。西洋のダンス史において、もちろんモダンダンスというのはバレエに反逆して出てきたわけですけど、ただこのバレエのテクニックの一本の軸というものまでは批判できなかったっというふうに僕は思ってるんです。軸っていうのは、これも僕は最後のインタビューの時に室伏さんに質問したんですよ、この軸のことに関して。で、室伏さんは舞踏の場合っていうか自分の場合、軸が複数あると言っていて、しかもその軸は真直ぐじゃなくて、傾いたりしてるんだと、こういうことを言ってたんですね。で、これは国際交流基金のアーティストインタビューで、石井さんのインタビューに対して室伏さんが答えた文章、言葉なんです。ちょっと長いんですが、この言葉ってすごく、まあ、室伏さんが話したり書いたりした言葉の中でも一番謎めいていて、しかしとても重要な言葉だと思うんでちょっと引用
したんですけど、
「息(呼吸)」と体の「軸(アクシス)」の交差・交錯が全て。要するに、 均衡=不均衡なのですが、それは何かといえば、「エッジ」のバランスです
よね。バランスから外れるということを自分の体で十全に体現するために
は、実際にバランスが成立した感覚を知るところから始めないといけない。しかしそれを持続するのは不可能ですね。軸に同一化するというのは「死」、つまり「死体」です。もちろん実際死体ではないから、軸に完全に一致してしまうことはあり得ないけど、身体の中にそういう瞬間があって、その瞬間がある意味の死の模擬、写された時間です。スレスレです、そのズレが「生命」。
つまり命というのは、その軸から絶えずズレることの反復でもある。生
きて呼吸をしているという感覚は、常に軸からズレる移動の中にあって、その隙き間のプロセスの中に死の時間がたたみ込まれている。呼吸は絶えず循環しているけど、その刻々に死がたたみ込まれているという、命とは大変パラドクサル(逆説的)で同時的なんです。「1、2…」と数えられる時間と数えられない時間が平行していて、それが身体の中で両方を生きている。
ってこういう言葉なんですよね。つまり、身体の軸が複数であるということは、自分の中に他者が入ってるっていうことだと思うんですよ。しかもその軸が傾いたり、揺らいだりするっていうこと。つまり、一本の硬直した線じゃなくて、
複数のもう少し、揺らぎを持った軸であるということ。これが舞踏のテクニッ
クの一つの根幹じゃないかなと僕は思っている。つまり、自己同一性に対す る批判というのが、その身体に対する感覚の中にやっぱり入っているというふ
うに僕は思うんですよね。それが身体の複数の軸、今の映像見ると分かると思うんですけど、最初のシーン、彼は体の軸の操作をね、観てると、あんまりこう、ほとんど動いていないように何もしていないようにも観えるんですけど、あれでやっぱり体の軸を自分の体の軸を揺らしていると思うんですよ。揺らしながら呼吸しているんです。
─後略─
1965年生まれ。ダンス批評。2006年より「テルプシコール通信」「DANCEART」「図書新聞」、「シアターアーツ」、「舞踊年鑑」、劇評サイト「wonderland」等に寄稿。現在「テルプシコール通信」に「来るべきダンスのために」というダンス論を連載中。