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2 Jun.2016

〈外〉の千夜一夜に向けて

鴻英良

〈外の千夜一夜〉というタイトルになるのかどうかもわからないのですけども、要するに、メキシコから一応呼ばれていて、そこでなにか室伏鴻に関するイベントをやることになっていて、そのためにそこで何をやるかという準備をはじめようではないかということで、これから月に1回くらいのペースで研究会的なことをやるということになりました。で、一応私もそこでちょっと何かを喋るみたいな風な形で決まっていたんですけれども、ひと月ちょっと前に、そのはじまりとして、宇野さんたちが3人で、フランシス・ベーコンについてという話をしました。フランシス・ベーコン、ドゥルーズの『感覚の論理』という本をめぐって3人の方が議論されたんですね。

で、それを聞きながらですね、なるほどなるほどというか、そうですか、みたいなことを含めて、聞いていたらですね、ただし私は夜の10時くらいに体の具合が悪くなって帰っちゃったので、その後どういう議論がなされたのかよく知らないんですけど、そのときに思っていたことと、それから何を感じたかというのをこれからしゃべります。

実は昔ね、フランシス・ベーコンについて、私文章書いているんですね、短い。

で、そこで書かれている、自分が書いたんですけど、そこで書かれていることと、それから、一月前に宇野さんたちの話を聞きながら思ったことがですね、全く逆なんですね。困ったものだという話をしようと思うんですね。

要するに、脱領域化とか、de formationというようなことが、ベーコンをめぐっても語られているんですけど、それでベーコンの絵を見せながら宇野さんたちが、いろいろしゃべっている中で、要するに、崩れていく肉体ですよね、崩れていく肉体、で、しかも枠組みから外れていく肉体のしぶきみたいなことを喋るのを聞きながらですね、直接そこでは僕がいたときにはまだあんまり議論されていなかったんですけど、室伏さんの体と、というか舞踏の形と、フランシス・ベーコンの描いた、崩れていく、脱落していく、滴り落ちる体というのが似ているから、宇野さんたちは、一方において、室伏さんの舞踏についてなんとなく念頭に置きながらフランシス・ベーコンについて話をしているみたいだな、と思いながら聞いていたんです。

そういうようなことを考えながら聞いていたんですけども、その後の議論には参加できずに私は具合がどんどん悪くなってきて帰っちゃったんですけど[その後、鴻氏の体の具合はさらに悪化し、結局、氏は、体調不良のため、メキシコ行きを断念する:渡辺注記]、で、今見てもらったのは、これ1998年、ちょうど18年程前の、ダンス白州での映像だったわけですけども、丁度そのころ、97年なんですけども、僕は、いまは亡き「アサヒグラフ」という週刊写真誌に演劇についての連載をしていたのですが、その第1章を、「皮膚の時代」と名づけて、色々な演劇やダンスについて書いていたんですね。

主に、ピナ・バウシュとか、フォーサイスとか、そういう外国の現代ダンスとか、それからあと、ニューヨークの90年前後のパフォーマンスアーティストたちの崩壊する皮膚というテーマに興味があってですね、そうした作品について、エイズの身体っていうようなことばを使いながら書いていたんですね。

そのときに、アルトー、要するに、この辺は宇野さんたちの中心的なテーマですけど、アントナン・アルトー、フランシス・ベーコン、あと誰だったかな。

その、そういう…、あの、ちょっと本があったほうがいいかな・・・[と言って、室伏鴻の書棚にある『二十世紀劇場』を取ってもらう:渡辺]。自分の本なのに、なんですが…(笑)。ちょっと話があっちこっち飛ぶかもしれないんだけど、要するに、そういう作品を議論するときに、タイトルとして皮膚ダンスとかですね、[自分の本をめくりながら:渡辺]崩壊する表皮とか、掻き傷から皮膚へ、虐待される背中、救いのない皮膚、とか、本当に絶望的なタイトルが並んでるんですけれども、で、その中で、舞踏の身体というのはエイリアンの身体に似ていると実はここで書いているんです、私がね、結構いろんなとこで言っていて、で、だから、そのころ、98年のこの室伏さんのダンスを見た直後に、なんとなく立ち話したんですよね。

そのときに、室伏さんのダンスってエイリアンみたいですねと言ったら、そしたらなんかね、なんかよくおぼえていないんだけど、なんか喜んでいたような怒っていたような、よくわかんないような表情をしたんですよ。

それで、まあ、エイリアンというのはもう当然、私のエイリアンのイメージというのはもちろんみなさんと同じように、映画のエイリアンですよね。映画のエイリアンの動き。その、なんというかエイリアンの形態というかね。そういうふうなものと、その、さっきずっと、室伏さんがこういろんな動きをしているときの動きの形態っていうのが、なんか、似てる、似てるなっていうふうに思ったんですけども、で、これは要するに崩壊する皮膚とか、虐待される背中とか、そういうようなものと、なんかつながるような気もするし、同時に本当につながっているのかというようなことを考える、今ちょっと考えるようになっているんです。

そして、これを書いたときは、ポストHIVシアターというような言葉が流行っていて、例えばニューヨークで92年に私が見た、死体の法則って訳せばいいのか、ちょっとわからないですけど、the law of remainsという、残り物、残存、まあ、人間が死ぬと残り物として死体が残るっていう、それが腐乱していく。で、その腐乱していく姿っていうのが、ニューヨークの今現在である、というようなことを主題化した、レザ・アブドーという人の、廃墟演劇があるんですね。ホテル・ディプロマットというところが、名前はかっこいいんですけど、昔あって、それでちょうど90年ごろに、そのホテルの建物はですね、完璧に廃墟化していてですね、長期滞在者がたくさん住んでいる超安ホテルがあってですね、そこが解体される直前に、レザ・アブドーたちがそこで崩壊する皮膚の演劇というのをやるんですね。

ちょっとこれは醜悪な肉体の乱舞なんですけども、崩壊していく肉体の、要するに跳梁するような作品を、廃墟化し、崩れかかったホテルのダンスホールか何かでやっていって、その人たちが、エイズ・アメリカと叫んで、それで次々に死体のように動き回るというようなことをやっているんですね。

で、そのときに、内部から瓦解していく肉体の姿を演じることによって、あるいはそういう肉体を晒し出すことによって、現代のアメリカ文化というものを提示しようとしている作家たちがたくさんいてですね、じつはレザ・アブドーに限らず、ティム・ミラーとか、ロン・バウターとか、何人か名前があがるんですけど。

そういうふうなものを見ながら、まあ、基本的に裸体になる人が多いんだけれども、その裸体っていうのが、一つの、ある種の美として提示されるのではなく、崩壊していく。崩壊する裸体というのを執拗に追い求めている人たちが90年前後から大量に出現してくるんですね。

その人たちは、大体男性の場合ゲイが多いんですけど、92、3年ごろにはエイズの末期症状なんですよ。大体、94年から95年にかけて、みんな死んじゃうんだね、実際にね、死を演ずるというよりは。

レザ・アブドーも95年に死んじゃうんですね。ロン・バウダーも94年にベルリンからニューヨークに戻ってくる飛行機の中で死んじゃうんですね。で、次々に人が死んでいくんですね。そのときに、これは、アルトーとか、フランシス・ベーコンとかとは違うんじゃないかっていうふうに思ったわけですね。その、ベーコンの、要するに流動的な、なにかこう、内部が外に、こう、垂れ下がって消えていってしまうような、そういうようなフランシス・ベーコンの『頭部』とか、よく言われているわけですね、口と目と鼻がひっくりかえっているとかね、そういうことも含めた。

これは要するに当然のことながら、アルトーの器官なき身体とつながっているわけですけども、というか誰もが言っていることなんですけど。それでね、アルトーのデッサンについてのデリダのテキスト「基底材を猛り狂わせる」なんていうのも日本語にも翻訳されているから、そうした考え方も容易に確認できるわけですけど、アルトーはそうした自分の自画像をたくさん描いているわけですね。つまり、そのアルトーの自画像というのは、傷だらけなんですね。要するにこう、普通、顔を描いて、そうするとそこに なんか、火箸かなんかでね、キャンバスを焦がしているんで、だから顔じゅう傷だらけというか、そこから何かが流れ出ているんですね、いろんなものが、内部の肉がね。肉っていうか、物質が流れ出て、そして傷つけられていて、要するに、形態がオーガニックに成立していないというふうになっているんです。

ところが、ここで問題なのは、宇野さんたちの話もそうだと思うんですけども、アンチオイディプス化が起こっているという主張が展開されている、要するに、つまり何を言おうとしているかというと、崩壊して傷だらけなんだけども、内部がエネルギーの元になっているということなんですよ。これがね、エイズの身体とちょっと違うところなんだと思うんですね。内部がエネルギーの元になっている。それで、要するに、どろんとした感じになって、その形態が脱形態的になっている。これは、一つの生命的な生成力なわけです。アルトーの、傷だらけの顔というのは生命力なんですね。ベーコンも、落下したりとろけたりなんかしているけれども、要するにこれは、実は、力なんですね。

それで力をどういう形態によって表現するかということが問題になってくるんですよ。力というのは、オーガニックな秩序というようなものを拒否する、拒否するような形で力は流れ出す。それと、レザ・アブドーたちの、力が流れ出ていく、存在しているのではなくて、それがない、というのは、まったく違うのです。

Profile

鴻英良

1948年、静岡県生まれ。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士課程修了。現在、演劇批評家。著書に、『二十世紀劇場──歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社、1998年)、訳書に、アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア──刻印された時間』(キネマ旬報社、1988年)、タウデシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社、1990年)など。

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