鴻英良
まあ、エイリアンというのはもう当然、私のエイリアンのイメージというのはもちろんみなさんと同じように、映画のエイリアンですよね。映画のエイリアンの動き。なんというかそのエイリアンの形態というか、そういうふうなものと、その、さっきずっと、室伏さんがこういろんな動きをしているときの動きの形態っていうのが、なんか、似てる、似てるなっていうふうに思ったんですけども、これは崩壊する皮膚とか、虐待される背中とか、そういうようなものと、つながるような気もするし、同時に本当につながっているのかというようなことを考える、今ちょっと考えるようになっているんです。
そして、これを書いたときは、ポストHIVシアターというような言葉が流行っていて、例えばニューヨークで92年に私が見た、死体の法則って訳せばいいのか、ちょっとわからないですけど、the law of remainsという、残り物、残存、まあ、人間が死ぬと残り物として死体が残るっていう、それが腐乱していく。で、その腐乱していく姿っていうのが、ニューヨークの今現在である、というようなことを主題化した、レザ・アブドーという人の、廃墟演劇があるんですね。ホテル・ディプロマットというところが、名前はかっこいいんですけど、昔あって、それでちょうど90年ごろに、そのホテルの建物はですね、完璧に廃墟化していてですね、長期滞在者がたくさん住んでいる超安ホテルがあってですね、そこが解体される直前に、レザ・アブドーたちがそこで崩壊する皮膚の演劇というのをやるんですね。
ちょっとこれは醜悪な肉体の乱舞なんですけども、崩壊していく肉体の、跳梁するような作品を、廃墟化し、崩れかかったホテルのダンスホールか何かでやっていって、その人たちが、エイズ・アメリカと叫んで、それで次々に死体のように動き回るというようなことをやっているんですね。
そのときに、内部から瓦解していく肉体の姿を演じることによって、あるいはそういう肉体を晒し出すことによって、現代のアメリカ文化というものを提示しようとしている作家たちがたくさんいてですね、じつはレザ・アブドーに限らず、ティム・ミラーとか、ロン・バウターとか、何人か名前があがるんですけど。
そういうふうなものを見ながら、まあ、基本的に裸体になる人が多いんだけれども、その裸体っていうのが、一つの、ある種の美として提示されるのではなく、崩壊していく。崩壊する裸体というのを執拗に追い求めている人たちが90年前後から大量に出現してくるんですね。
その人たちは、大体男性の場合ゲイが多いんですけど、92、3年ごろにはエイズの末期症状なんですよ。大体、94年から95年にかけて、みんな死んじゃうんだね、実際にね、死を演ずるというよりは。
レザ・アブドーも95年に死んじゃうんですね。ロン・バウダーも94年にベルリンからニューヨークに戻ってくる飛行機の中で死んじゃうんですね。で、次々に人が死んでいくんですね。そのときに、これは、アルトーとか、フランシス・ベーコンとかとは違うんじゃないかっていうふうに思ったわけですね。その、ベーコンの、要するに流動的な、なにかこう、内部が外に、こう、垂れ下がって消えていってしまうような、そういうようなフランシス・ベーコンの『頭部』とか、よく言われているわけですね、口と目と鼻がひっくりかえっているとかね、そういうことも含めた。
これは当然のことながら、アルトーの器官なき身体とつながっているわけですけども、というか誰もが言っていることなんですけど。それでね、アルトーのデッサンについてのデリダのテキスト「基底材を猛り狂わせる」なんていうのも日本語にも翻訳されているから、そうした考え方も容易に確認できるわけですけど、アルトーはそうした自分の自画像をたくさん描いているわけですね。そのアルトーの自画像というのは、傷だらけなんですね。要するに、普通、顔を描いて、そうするとそこになんか、火箸かなんかでキャンバスを焦がしているんで、だから顔じゅう傷だらけというか、そこから何かが流れ出ているんですね、いろんなものが、内部の肉がね。肉っていうか、物質が流れ出て、そして傷つけられていて、要するに、形態がオーガニックに成立していないというふうになっているんです。
ところが、ここで問題なのは、宇野さんたちの話もそうだと思うんですけども、アンチオイディプス化が起こっているという主張が展開されている、要するに、つまり何を言おうとしているかというと、崩壊して傷だらけなんだけども、内部がエネルギーの元になっているということなんですよ。これがね、エイズの身体とちょっと違うところなんだと思うんですね。内部がエネルギーの元になっている。それで、要するに、どろんとした感じになって、その形態が脱形態的になっている。これは、一つの生命的な生成力なわけです。アルトーの、傷だらけの顔というのは生命力なんですね。ベーコンも、落下したりとろけたりなんかしているけれども、要するにこれは、実は、力なんですね。
それで力をどういう形態によって表現するかということが問題になってくるんですよ。力というのは、オーガニックな秩序というようなものを拒否する、拒否するような形で力は流れ出す。それと、レザ・アブドーたちの、力が流れ出ていく、存在しているのではなくて、それがない、というのは、まったく違うのです。
で、この、室伏さんのエイリアン的な身体の在り方っていうのは、一体どっちなんだっていうことが、実は、本当は問われているんじゃないのか。
で、僕は室伏さんのさっきの98年の作品を見たときに思ったのは、フランシス・ベーコン的な意味の内部から形態なきものが流出してきて、そしてそれがその皮膚の表面を打ち崩して、そして外、外に出ようとしている。外に出ようとしているその外を身体化しようとしているときに、果たして内というものが力なのか不在なのかというふうなことを考えることによって、舞踏というものの、今日的ポジションというか、そういうものを考えていくことがなにか意味があるんではないのかなというふうに思い始めたんですね。
要するにレザ・アブドーは裸体を何の可能性もないものとして、横たわる肉体として提示している。だからこの舞台は極めてグロテスクなんだけども、そのグロテスクな様相は、誘惑や視線の欲望と関わることも、エロチシズムに転化することもなく、いたずらに空虚としてそこにあるにすぎない。観客の中に欲望を目覚めさせようとする意図はここには一切なく、ただ可能性のついえたものとしての肉体がそこにあるばかりなのだ。で、肉塊の内部はもはやどんなエネルギーも欲望もおこりえないものとしてそのようなとき皮膚は汗や匂いを伴ったものではなく、外部と内部を媒介する境界としての意味すらもない、持ちえない。それはほとんど純粋な皮膚でしかなく、記号として機能するしかないのだというふうなまとめをしたんですけども、で、問題は、だから、何か同じことをくりかえして言っているみたいですけども、室伏鴻における、脱形態化の外への思考というものがですね、内在性というようなものに還元できるのかどうか。内在性というものを否定するような形で、外を思考するというようなことが、その身体のエイリアン化みたいなものとして実現していたといえるのかどうかということが、室伏鴻論のけっこう革新的な問題系になるのではないかという、そのへんをみなさんにちょっと聞いてみたいと思いつつ、今日ここにやってきたわけです。
先週ちょっとここに来て、この本[*1]を開けてみてみると、ここにものすごくたくさん線が引かれているんですよ。これ、室伏さんが引いたんですね。で、
最近、土方巽の舞踏を記録したいくつかの映像を見る機会を得た。その少しあとで、土方巽に関するシンポジウムがあって、その場で、舞踏家はエイリアンに似ていると言ったら、怒りだすものがいた
という文章があるんですけど、そこのところにまた室伏さんが線を引いたんだね、これね。(笑)
だからね、「エイリアン、ベーコン、土方、これらの間のつながりは、」勝手なことを書いてありますね、「単なる偶然ではありえない。それらはともに物質の起源をわれわれに指し示そうとした者たちだからである。」だから物質の起源というふうなところにつなげていいのかどうかという話なのね、逆に言うとね。物質の起源というのは神話的身体である。で、神話的身体。まあ、エイリアンのモデルというのはセイレーンですよね。例の『オデュッセイア』に出てくる、要するにサイレンですよね。それが、神話的起源としての神話的身体としてのエイリアンに舞踏が似ているというふうに言うのは本当は正しくない。神話的身体でないエイリアンの新たな継承としての舞踏っていうことを考えるにはどうしたらいいかっていう、そういうふうなことをまあ考えるべきではないのか。つまり神話と啓蒙との間の抗争からいかにして抜け出るか。つまり神話的世界から、その起源から、啓蒙にいたるプロセスというのが一つの文化史的な流れとするならば、啓蒙に至らない神話的身体、さらに神話的身体を啓蒙に至ることなく拒否する、そういうような時代というようなものを我々はどういうふうに表象すべきかというようなことを、ちょっと、考えてみたらどうか。そういうような話を……、さっきから、メキシコの人たちは室伏鴻をスピリチュアルなものとして受容することによって自分たちの領域の中に舞踏を抱え込んでいこうというような傾向があるっていう話を、なんかさっきみなさんしてましたけども、そういうものではないものとしての舞踏の身体と〈外〉というようなことが日本の文化的な歴史の中にどういう形で位置づけることができるのかというね。
1948年、静岡県生まれ。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士課程修了。現在、演劇批評家。著書に、『二十世紀劇場──歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社、1998年)、訳書に、アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア──刻印された時間』(キネマ旬報社、1988年)、タウデシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社、1990年)など。