11 Jun.2016

メキシコ「〈外〉の千夜一夜」に向けて

鴻英良

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ちょっと全く飛びますけど、大野一雄と土方という、要するに舞踏の創始者といっていいんですかね、二人の重要な。大野一雄の身体は虚体であるっていうふうに一年くらい前になんとなくそう思ったんですね。土方に例の有名な「命がけで突っ立っている死体」という定義があるじゃないですか。しかし、大野一雄は命がけで立ってないんだね。あれね、虚体なんですよ。要するに、この虚体感覚って何かって話なんですけど、この虚体って言葉はもちろん私の用語ではなくて、埴谷雄高の用語ですよね。『死霊』の中に出てくるね。『死霊』っていうのは、日本が戦争に負けて、そしてすぐに敗戦後の戦後の中の文学運動として始まった近代文学という雑誌に連載されてたんですよね。これは結構重要なことだと思っていて、だから、いつ書かれたのかということなんですけど、要するに戦争に負けて価値観が一気に崩壊して、そして虚空の中に投げ出された人間がその身体感覚として虚体っていうようなことを言い始めた……。それを大野一雄が自分のダンスとして作り上げたんじゃないのかというね。

そういうふうな意味で、戦争と敗戦というのがなかったら大野一雄っていなかったんじゃないのかなっていう気がするんですね。それで、これ、あんまり日本の近代演劇史の中で、1945年というのが議論されることってあんまりないんですよね。これ非常に不思議なんですよね。僕はそのことを気にし始めたのは、ピナ・バウシュが1940年生まれなんですよ。戦争にドイツが負けた時に5歳なんだよね。これは結構重要で、5歳頃って記憶にあるでしょ。2歳のころの記憶ってあんまりないと思うんですけど、5、6歳の時、身の回りで何が起こったかっていうのは、かなりいろんなことを覚えてますよね。

それで、ピナ・バウシュは戦争が負けたときにゾーリンゲンのカフェか何かの経営者の娘だったわけですけど、だから、カフェ・ミュラーというのは自伝的な作品なんですね。あのカフェ・ミュラーの少女は、盲目で喋ることができない。つまり、言葉と目を、見ることとしゃべることをはく奪されているんですね。これってようするに、戦争に負けたときに見ることとしゃべることを剥奪された少女の物語なんですよ。突然ドイツが負けたんですね。それはいいんですけど、更に重要なのは、ゾーリンゲンの同郷人ていうのがいてですね、これは、アイヒマンなんですよね。英雄が、だからよく似ているんだね、戦後の日本とね。英雄が、要するに俗悪人になるわけですね。それが同じ町の人間なんですよ。

唐十郎は1940年生まれなんですよ。戦争に負けたときに5歳なんだよね。日本の戦後のアングラ小劇場運動の中心的なメンバーというのは、35年から40年の間に生まれてるんですよ。ですから5歳から10歳にかけて敗戦を経験しているんだよね。

大野一雄はそれよりちょっと歳は上なんだけども、要するにこの真空状態みたいなものをどう歴史化するかというようなことが、戦後の日本の演劇にとって非常に重要な問題だったんだけども、だから、大野一雄の虚体みたいなものと、土方の身体とを比較するというような、そういうふうなことにまでもこの室伏鴻におけるエイリアン的身体の両義性みたいなものをつなげて考えていくと、日本文化論みたいなものに舞踏を繋げていくことができるのではないかっていうふうに思っていて、私はそんなことをちょっとこれから調べてみようかと思っているところです。

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Profile

鴻英良

1948年、静岡県生まれ。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士課程修了。現在、演劇批評家。著書に、『二十世紀劇場──歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社、1998年)、訳書に、アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア──刻印された時間』(キネマ旬報社、1988年)、タウデシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社、1990年)など。

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