鴻英良
そして埴谷雄高が『死霊』を実際に書き始めたのは戦後すぐです。1946、7年なんだよね。だけど、そのことについていつ頃から考えていたのか、というと『死霊』の巻に文藝評論家というか文学者の本多秋五のかなり長い解説がついてるんです。そこには非常に便利なことに、かなり詳しい年表が載っていて、この年表によると、昭和5年、1930年、埴谷雄高がプロレタリア科学研究所農業問題研究会の活動家になるんですね。結構有名な話らしいですけれども。そして、1931年日本共産党に入党、地下生活を始めるわけです。翌32年には治安維持法によって検挙され、起訴される。そして、富坂署というところから豊多摩刑務所に送られる。そこで独房生活を過ごすんですよ。彼の若い時代、つまり19、20、21歳の頃は、共産党がらみの活動家なんですね。彼は独房の中でカントの『純粋理性批判』を読んで衝撃を受けるんだよね。そこから「自同律の不快」という概念が出現してくるんですよ。で、そのあとしばらくして転向して、失業時代を暮らすんです。その失業時代に放浪した場所が、『死霊』の舞台になっているんだよね。さらにそのあと編集者として活動しているうちに日本の敗戦によって、日本が空洞の中に入るんだよね。その空洞状態の中から虚体という概念が実体化されていくんですよね。
だけども、じゃあ外へという考え方はミシェル・フーコーが言い始めているんでけども、やはりパリの5月革命だよね。パリ5月革命の敗北で要するにある種の政治的な高揚が完全に潰え去る。その中で一番有名なのは「監獄の誕生」を書きあげたということですよね、75年に。そういうある種の政治的な活動とそれの挫折と崩壊と転向、これは要するに日本でも1960年代の終わりから70年代の初めに起こったことです。で、どこに身を置くのかという時に、外なんだよね [発言者による後記:フーコーの「外の思考」が「クリティーク」誌に掲載されたのは1966年、パリ5月革命敗北の以前のことであるが、この思考に立ち返ることが、1968年革命の敗北の後、いよいよ重要になっていくのであった。]。
その外ということを考える。そのエイリアンみたいだねと言った白州での舞踏は、身体の内臓をどのようにしたら外に投げ出せるのかということが動きになっているんですよね。実際には、身体を切り刻んで腸を投げ出すわけにはいかないから、しかしその身体的訓練と意識において、それをどのようにしたらできるかという、そういうことだと思うんですよ。だから死体とはちょっと違うんですね。そういうような流れの中でね、室伏さんも不可能性の身体、the body of impossibilityと言うものを考えて、無限判断の枠、要するに有限ではない無限空間、そんなものが我々には現実社会の中では手に入れることはできないんだけれども、しかしながら、無限判断の枠というものを構想する。で、埴谷的に言うと、「考えてはならないことにはまり込むことが最も魅惑的なのだ」という、そういうようなことを埴谷雄高は『死霊』の中で言うわけですね。だけどもそれは不可能性の身体であるから、そこには名状しがたい不快、Discontent beyond description、表現不可能な形での不快、名状しがたい不快、これも埴谷雄高のかなり重要な概念なんです。I am not I. I am alien to me.という風なそういう名状しがたい不快というような。だから要するにその名状しがたい不快を同時に感じているわけですよ。だから倒れるしかないんだよね。だから室伏鴻のダンスは、私が言っていることがそのまま当てはまるかどうかは別として、そういう風な思考と認識、意識というものとつながっているという意味において、非常に時代精神というようなものとつながって作られているんだ、ということなんですね。
私が初めて見たのは『常闇形7』というものを、昔のShyのオープンングの時に見た。私はその頃、舞踏というものをほとんど見たことがなかったから、これは初めて見た舞踏ダンスなんですよね。しかも、それについて書いちゃうというところがあれなんですけれども。それで、要するに昔のShyというのは、ロータス・キャバレーShy、これはタイトルからして、ロータス・キャバレーですから、蓮のキャバレー、死のキャバレーなんですよね。「ネオンもしくは、ネアンの炸裂」という仰々しいタイトルが付いているんですけれども、私はそのShyに行ったら、なんか薄汚い扉の前でずっと待たされるんだよね。鉄の扉の前というのが結構良かった。その鉄の扉を開け、階段を降りて地下に入っていく。と、地下に小さな狭い空間があるだけなんですよ。それを私は地獄の扉と名付けたんですよ。で、地獄の扉を開けていくとその地下には墓場がある、その墓場にうずくまっている人間がいて、そのうずくまっている人間が、これが室伏鴻なんですね。で、なかなか動かない。それが少しずつ動き始めるんですけれども、この墓の中の住人のミイラ、要するに目を包帯でぐるぐる巻きにしていて、視界、目を奪われた男の仕草、というのが冥界での覚醒を表している。この、覚醒が同時にもたらす苦痛、これがこの『常闇形7』のテーマ、というか目的なんだよね。覚醒が単に喜びになるんじゃない。覚醒がもたらす苦痛、これは戦後のバキュームの中での虚体というのがやはり同じように覚醒がもたらす苦痛だった。意識というものが際限なく広がることを願っていながら、それが実際には名状しがたい不快を与える枠組みの中に捉えられている。その苦痛が徐々に狂気に変わっていく。ほとんど『死霊』の世界そのもの。
皆さん『死霊』を読み直すといいと思う。で、まあ私はこの時なぜか、ベラスケスの『侍女たち』のマルガレーテ王女を思い出したみたいなんだけれど、この想起の仕方は、死の直前にカントールが上演しようとした『今日は私の誕生日』という最後の舞台で、初日の前の日に興奮死しちゃう。初日の前の日に稽古しているじゃないですか、そうするといろんなところが不満なわけだよ、カントールは。そして色々叫んでいるうちに興奮して心臓発作を起こす。そのまま救急車で運ばれて死んじゃう。その時の最も重要なイメージが死の王女としてのマルガレーテなんだよね。これは、作品と死という、カントールは自分の演劇を死の演劇と名付けてますけども、この関連性ですよ。だけど、それは覚醒と関係してるんだよね。覚醒と苦痛と死です。その時に、なぜ覚醒しなくちゃいけないのか、覚醒の過程でなぜ苦痛を感じるのか、そしてなぜ死んでいくのか。これは外があるからなんだよ。外に向けての意識、無限の意識、それがなければならないんです。この時、最後に火を放つんですけどね、観客が火に包まれるんだよね。自分が燃えろよと、私なんかはその時思ったんですけれどね。ここで問題なのは、外へということと、それから空虚とかバキューム、虚体というのが、どういう形でつながり、1950年前後の虚体と、1980年代の外、エイリアンという80年代、90年代の外というようなものの出現の、精神史的な違いを議論していくということが極めて重要で、それは少なくとも歴史性ですよ。社会における社会構造と歴史性、そしてその社会構造と歴史性というものに対してどのような意識と思考をつなげていたのか。これが舞踏に限らず表現における身体の中核の一つにならなくてはならないということを、今回のメキシコに行けなくなった私は皆さん方に提言というか、そういうようなことも含めて話してもらえるとありがたいなというふうに思っているんです。
私はもうほとんど息も絶え絶えで、残念ながら、ちょっと前まで行くつもりでいたんですけれども、昨日今日の、あるいは一昨日の状態を見たら、とてもじゃないけれど行けないですね。昨日はもう酸素呼吸器を使ったらもっとひどくなってね、発作が起きるんですよ。酸素呼吸器で強制的に酸素を入れるとですね、血液の酸素の量が急激に増える。最初は調子がいいなと思ったら、痙攣が始まるんでね。だからもうね、皆さんにはもう会えないかもしれない。と言うことで皆さん頑張ってください。
1948年、静岡県生まれ。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士課程修了。現在、演劇批評家。著書に、『二十世紀劇場──歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社、1998年)、訳書に、アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア──刻印された時間』(キネマ旬報社、1988年)、タウデシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社、1990年)など。