26 Nov.2016

死者とともにあること─室伏鴻の「外」という概念に関する作業仮説として

越智雄磨

1.イントロダクション:研究の目的など

舞踏の精神史的系譜について考えてみたい。舞踏の祖と言われた土方巽が舞踏を起こした時代と、土方亡き後に30年間舞踏を続けた室伏の存在した時代は異なるはずであり、またそれゆえに両者の間には差異があるはずである。土方巽の「舞踏とは必死で突っ立った死体である」というテーゼは、舞踏を考える上での重要な点であることは確かである。しかし、1973年に踊ることをやめ、1986年に亡くなった土方巽は「外へ」とは言わなかった。土方が死んだ後「舞踏は終わった」とさえ言われることがあったが、土方の死後30年間舞踏を踊り続けなくてはならなかった室伏は、「外へ」という概念を生み出し、拠り所にすることで、自らの舞踏を追求し続けることができたのではないか。土方が開いた踊りの可能性の先端を引き継ぎ、現代にまで延長させた室伏独自のこの言葉を手掛かりとしながら、室伏鴻と土方巽を峻別する時代背景の違いや、室伏が提示する無用の身体=死体が現代の社会に持ちうる意味について一つの視点を提案できればと考えた。

「外」といったとき、それは何の「外」なのかをまず考える必要がある。それは、鴻が埴谷雄高の概念「自同律の不快」を引用して示したように、第一には、私という主体の外部であると考えることができる。私が私である、ということの否定であり、私は私ではない、という発想は、「立てない」という身体の危機的な例外状態から踊りを始める舞踏の思想の根源に共有されているように思われる。しかしながら、注意すべきは、主体の外部に立つ手段は、単純なエクスターズ(extase-en dehors)ではなく、「必死で突っ立った死体」という逆説的な態度が必要だったことである。それは鴻のいうように、日本の戦後の空虚の中で踊りや身体を構想しようとした時に、そのような思考の経路が必要だったのだろうと考えられる。 

室伏が舞踏の出発点としたのはやはり土方巽が述べた「必死で突っ立った死体」であると考えられるが、土方が没した後、土方の言う「死体」と室伏の「死体」の持つ意味合いは同一のものと捉えられないのではないか。1977年に土方巽は、舞踏の悪しきスタイル化や商業化が徐々に進行する過程にあって、室伏の「木乃伊」に舞踏の原点を確認したと評価した[*1]。室伏のこの作品は、日常生活の外部である山奥での修験道の修行の結果作り上げられたものである。我々はここにすでに私たちは「外へ」という室伏の特異性の一端を見つけることができる。

室伏は「外」という考えを介入させることにより、土方とは異なる方法で、舞踏における死や死体の表象が持つ意味、意義をアップデートしてきたのではないのか。それが、本発表の仮説である。

では、それはいかに思想的に、身体的に実現されているのだろうか。本発表では、先行研究として研究とギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』との関係の中に室伏を位置付けたカティア・ツェントンツェの研究、そしてフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールの研究や近年の林道郎によるボードリヤールに対する注釈、日本の哲学者宇野邦一による研究などを補助線としつつ、室伏の提案する「外へ」という思考について考えてみたい。

2.肉体の叛乱:「スペクタクルの社会」の時代から「シミュラクル」の時代へ

イタリアの舞踏研究者カティア・チェントンツェは1960年代の日本における政治闘争と革命的出来事とアヴァンギャルド芸術の展開の並走関係に注目し、舞踏もまた芸術を経済的価値と商業的なポテンシャルから守る抵抗の運動だったと見ている。またそれは西洋のダンスにおいて培われたテクニックの拒絶の運動でもあった。チェントンツェはさらに、ドゥボールの理論に立脚しながら、60年代以降、全地球的に進行していた「スペクタクルの社会」への抵抗として、あるいは資本主義経済の中で進行する「人間の優位性の喪失」への抵抗として室伏の舞踏を位置づけていく[*2]。換言すれば、土方や室伏が考えていた舞踏は、逆説的に見えるが、死を経由した、人間の生の回復、human masteryの回復とみなすことができる。

チェントンツェの見方に加え、さらにここで、私はフランスの現代思想家のジャン・ボードリヤールの考えに注目したい。理由は3つある。一つ目にボードリヤールはかつて、室伏鴻がフランスで行った舞踏を観ていること、二つ目の理由として、ボードリヤールは自らの理論を構築するにあたって、ギー・ドゥボールの思想をより現代に敷延していると考えられること、また、3つ目の理由として、高度消費社会において一見もっとも無用で無価値にも思われる「死体」に特別な地位を与えた思想家だからである。

ボードリヤールは1985年に室伏の舞踏をフランスで見て、評論を書き、西洋的なダンスと真逆の美学を室伏の踊りに見出している。西洋のダンスにおける伸びきった身体とは真反対の縮こまった身体、そして身体の痙攣にその特殊性を見ている。そして、西洋のダンスと舞踏における身体と空間の関係の違いを次のように語っている。

(舞踏においては)西洋の振付が行ってきたように抽象的な空間を満たそうとするのではなく、身体の内部に全ての空間を帰着させなければならない。そして、それは常軌を逸した裸体、激しい苦痛を伴う刑罰に処された裸体を代償として行われる。決して享楽的ではなく、我々の感覚の想像力に対して残酷なのである。[3]

ボードリヤールのこの証言は、室伏の舞踏が、典型的な西洋のダンスとは全く異なり、空間を記号や身振りで占有していくのではなく、身体の内側に「外部」の空間を引き受け、収斂させていくこと、視線に心地よく消費されるスペクタクルなどではないことを示している。むしろ観客に、苦痛を経由した覚醒をもたらそうとするものであると言えるだろう。それはボードリヤールの見解は、当時フランスで行われた室伏のダンスの苛烈さを想起させると同時に、我々の感覚を想像しないやり方で外部に抉じ開けるものであったことを思わせる。

ボードリヤールはまた、高度消費社会における記号化された身体が消費される場としてファッションや広告などのスペクタクルの領域を扱った思想家である。ただし、ドゥボールとの決定的な相違も感じさせる。林道郎はボードリヤールの『象徴交換と死』に対する注釈の中で、「スペクタクルという語は演劇的な構造——つまり舞台があって観客としての消費者が客席の側にいて距離を持ってそれと対峙しているというイメージ——を連想させる」と述べている[4]。1960年代には、私たちはまだ「スペクタクル」に距離感を持って対峙する意識を持つことができたとすれば、それゆえに、土方巽の言うように「死体」という商品化のコードから逸脱したオーセンティックな身体をドゥボールのいうスペクタクルに対置させることが、資本主義的な秩序の中に組み込まれた身体の商品化に抵抗する思想や実践として有効性を持ち得たと考えることができる。しかしながら、林によれば、ボードリヤールがいうシミュラクルは、「魚にとっての海のように、私たちを完全に取り囲み、私たち自身の身体から何から、すべてのものの生存環境になってしまっていることを強調する」ものである[5]。そこでは人間の取る選択や行為が、それが抵抗の身振りであったとしても、あらかじめ消費社会のコード体系の内側でシミュレートされている想定範囲内出来事として即座に吸収される。つまり、シミュラクルにおいては、批判的な距離が取れないし、批判すらもシミュレートされていて社会システムの運営の要素に組み込まれる。このような土方が通過しなかった時代を通過せねばならなかった室伏鴻は、それゆえに「外へ」という思考にこだわり必要があったのではないか。室伏がそれを意識していたかどうかは別として、1960年代のドゥボールのいうスペクタクルの社会の時代から1980年代以降のボードリヤールがいうシミュラクルの時代へのシフトに、室伏の「外」という思考の錬成に向かった過程は対応しているように思われるのである。

事実、室伏と土方を比較した時、室伏は土方以上に「外」を志向する傾向が強いように考えられる。単純な事実ではあるが、地理的、文化的、芸術的な中心地は東京であったにもかかわらず、すでに1970年代に福井県にカンパニーと劇場を設立した。対して、土方は自分自身が踊ることを1973年に止めている。この時期が、日本の政治的抵抗運動の終息の時期と対応していることには注意を向けられるべきだろう。また、1978年に室伏は舞踏ダンサーとして初めてヨーロッパに渡り、欧州の広範な地域を行脚したが、土方巽は招待を受けていたにもかかわらず、代わりに芦川洋子を派遣するにとどめ、自らが日本の外へ出て行くことはなかった[6]。土方のドメスティックな活動と比較した時、室伏の活動は国際的かつノマディックであることが際立つ。おそらくそのことと関連するが、室伏の『Dead1』『墓場で踊られる熱狂的なダンス』『quick silver』などの作品と土方の日本の伝統や土着性を参照した『疱瘡譚』や「東北歌舞伎シリーズ」を比較した時、土方の呈示する身体が日本的なるものを想起させるのに対し、室伏の呈示する身体はもはや舞踏のアイコニックなイメージとなった日本的なるものを脱し、後続の世代が多少とも陥ったと言われる舞踏の表層的な様式化を免れているように思われる。

ボードリヤールは、その著書『象徴交換と死』の中で、私達は「身体の大衆文化」の中に生きていると主張した(ボードリヤール1993:105)。ボードリヤールの理論の背景にあるソシュールの記号論によれば、記号は閉じられた体系の中で他の記号との異なることによってのみ価値を獲得する。交換の経済においては、それらは他の商品と関係するために価値、あるいは意味を獲得するのであって、それら固有の価値を有するからではない。

 ボードリヤールのこうした考えを敷衍すれば、シミュラクルの時代である現代における身体はそれ自体が、それが有する性や労働力によって貨幣となり、消費のために交換される記号となる。つまり身体は交換経済における商品となる。このことは、1970年代に土方がすでに見出していた舞踏の商品化から現代に至る舞踏の様式化にも通じるだろう。チェントンツェは次のように述べる。

多くの批評家は舞踏が一連の静止した提案のうちにより固定され、それゆえにもともと舞踏が持っていた破壊力から遠ざかることになってしまった。アングラシーンから出現した舞踏は、不可避的に制度化の幾つかの段階を通過することになった。そして少なくともある部分ではシステムそのものに吸収されたのだ。[7]

抵抗の身振りであったはずの舞踏すらも様式化、記号化あるいは商品化を免れてはいない。そして、ボードリヤールが『象徴交換と死』において記号となった人間の諸価値や身体の需要と供給からなる経済を批判的に相対化するために導入しているのは、別種の経済体制、すなわちポトラッチに代表される象徴交換であり[8]、さらに資本主義的な経済における交換の連鎖、システムを断ち切るものとしてボードリヤールが提案するのが「死」である。ボードリヤールにとって、死とは、西欧型近代社会の合理主義的思想が価値の零度として捉え、排除してきたものである[9]。こうしたボードリヤールの思想と室伏の思考と実践には共鳴するものがある。室伏鴻が意図的に作り出そうとしていたのは、資本主義的な貨幣の経済的交換の経済の外部に向かう純粋な身振りや、死、無用の身体、不能の身体ではないか。室伏鴻は『Dead1』を創作する際のノートにニーチェの「逆立ちで踊れ」という言葉に触れながら、次のように記していた。

  • 1.『土方巽全集1』「木乃伊の舞踏」p350
  • 2. Centonze, Katija, Resistance to the Society of the Spectacle: the “nikutai” in Murobushi Ko.

Profile

越智雄磨

1981年生まれ。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。
日本学術振興会特別研究員、パリ第 8 大学客員研究員を経て現職。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー ダンスに関する歴史、文化政策、美学研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリーダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。
編著に同展覧会の図録『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』がある。
論文に「ジェローム・ベル《The Show Must Go On》分析」(2011)、「共存のためのコレオグラフィ : グザヴィエ・ル・ロワ振付作品における「関係性」の問題について」(2014)などがある。

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