21 Dec.2024

日時計の上のトカゲ
舞踏・室伏鴻・アルトー

鈴木 創士

01
室伏鴻が言うように、身体のなかに、身体にとって、「外の思考」があるならば、舞踏家はこのからだをどこに連れ去ろうとしていたのでしょうか。

初期のアルトーを即座に理解した土方巽は、肉体のなかに梯子をかけて降りて行くと言っていましたが、このことは、アルトーの言う「思考の不能性」と深くむすびついていて、それは明らかに踊るためではなく、踊らないためであったように思われます。身体を掘り進むには、一度動きを止めなければなりません。身体の縁をかろうじて示すはずの痙攣はそこからしか生じないからです。この痙攣は時間のなかにあって、それに穴を穿つものとしてあります。

健康であれ、病気であれ、身体は、誕生と眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。

いかにして肉体のなかに降りて行けばいいのか。身体は動こうにも動けません。六百年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念があったのでしょうか。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにして夢幻能は成立しました。

動きにおいてすら不動であること。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、この強迫観念は暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。土方の最も優れた弟子のひとりであった室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望があったように思われるからです。不動性への予感によって、動かないことによって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするからです。別の次元とは、この場合、歴史の別の次元のなかにあることは言うまでもありません。身体が政治のなかにあるとしても、政治とともに踊ってはならない。動いてはならない。

すべてのものが兆し、顕現し、産出されるのは、自然のなかなのでしょうが、一方、身体はそのままで別の自然の歪形を指し示します。器官なき身体、すなわちあるときは無機的な身体、様々な意味において有機体ではない身体をわれわれがすでにもっていることは、アルトーとともに了解済みです。だが室伏鴻の踊りがわれわれに見せる身体には、さらに「生まれる前のもの」、「生まれる前のものの苦しみ」があって、これこそが不動性への彼の渇望の中心にあるのだと私は考えています。

02
「踊りとは命がけで突っ立った死体である」。Butoh est un cadavre qui se met debout à corps perdu. この土方の教えは文字通りの意味で受け取らねばなりません。死体。はじめに死体があった。死体はいまここで生きている身体とともにあった。そして死体は身体であった。死体であること、死体になること……。死体とは一個の分身です。

死体の振りをすることは、ここではそのことと矛盾しませんし、死体のほうこそが文化に形態を与えたのですから、それは外から与えられる残骸、言うところの文化的形態とは何の関係もありません。室伏の回想によると、すでに子供の頃、彼は死体の振りをするのがとてもうまかったらしい。

室伏は、出羽三山の湯殿山で即身成仏の身体に出会います。鉄門海のミイラです。鉄門海はあるとき人を殺し、寺に逃げ込み、出家します。彼を慕って山を降りてくれと懇願する女郎に、切り取った自分の男根を与えて下山を断りました。彼の決意は揺るぎません。その頃、日本中で地震が起こり、疫病がはやりました。病気平癒のために、彼は左目を自分でくりぬき神仏に祈願します……。そして最後に死期を悟った鉄門海は木食の行に入り、即身仏となったのです。われわれが見ることのできるこの即身仏とはミイラです。

しかし重要であるのは、この鉄門海が何者であったかということではなく、それがある決定的なイマージュ、質感も臭いもあるイマージュ、一個の生々しい分身を室伏にもたらしたということです。影は身体から出たり入ったりします。ここには絶えず振動し、変性状態にあるもうひとつ別の身体があって、身体の限界と不分明な境界を指し示します。

このミイラのからだはただ死んでいるわけではありません。それは同時にわれわれに、われわれの無にむかって、贈与されています。無のポトラッチはじつに身体の次元においてこそ生起するのです。
「ミイラの即身成仏」という文章のなかで、室伏はこんな風に言っています。

崩折れる 瀕死の贈与と息の 非人称の その外に ひきつったまま身を横たえた
遠のいてゆくのか 近づいてくるのか
定まらぬわたしたちの無限定の境界の 螺旋上で
はじめて 私は あなたの目を見た はじめて あなたは 私の目を見た

身体は、それがどんな風にあろうと定まることはありません。首はねじまがり、手は折れ、足は追放されています。室伏は言います、「肉体はここにあって、とどかない」、と。ジャコメッティのような画家にとっての、対象との隔たりと同じように、同時に生起するはずのこの肉体の近さと遠さをこの即身仏のミイラはすでにそれ自体のうちに含んでいたのです。舞踏にとって、踊ったり、踊れなかったりする肉体が近くにあり、同時に遠くにあることは、すでにわかり切ったことだったのではないでしょうか。
室伏は書いています。

どのようにして こんな遠くまで
来てしまったのであろう
どうして このような遠くまで
私の もっと 近い遠くを
運んできてしまったのだろう
この問いを実現スルタメニダ

問いが実現されるには、したがってミイラの息が吹き込まれ、室伏に乗り移らねばならなかったのです。きれいはきたない。きたないはきれい。近いは遠い。遠いは近い。そして、ここが重要ですが、息から身体が出てくるのです。
この息からは何度となく新しい身体が生み出されるでしょう。古代ギリシアの哲人クリュシッポスが言ったとおり、「馬車」と言えば、口から馬車が出てくるように……。同じことは身体イマージュの位相でも起きています。素晴らしい眺めです。蛇足ながら、日本の仏像にも、口から人がぞろぞろ行列しているものがあったではないですか。

舞踏家にとって、だからうまくいけば、身体は身体から抜け出すでしょうし、身体は身体から出てゆかねばならないのです。どうやら「身体の身体」というものがあるらしいのです。幻影は大挙して押し寄せるが、それを朝も昼も晩もよく見極めなければならない、と室伏は言います。身体は動かない。これも幻影です。ただ抜け出すことができるだけです。「身体の身体」、「身体から抜け出す身体」は、この身体にだぶっています。普段は重なっているが、そいつはじょじょに滲み出し、あるいは一気にわれわれを打ち倒すはずです。

03
ここメキシコの地に、かつてアントナン・アルトーがやって来たとき、彼はいったい何を知ったのでしょう。彼が見たのは「記号の山」だけではなかったのです。

肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。──自分自身へと出てゆく、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ。

「ペヨトルのダンス」

L’empire physique était toujours là. Ce cataclysme qui était mon corps… Après vingt-huit jours d’attente, je n’étais pas encore rentré en moi ;——il faudrait dire : sorti en moi. En moi, dans cet assemblage disloqué, ce morceau de géologie avariée.

(La Danse de Peyotl)

私のうちへと出てゆく。「外」はいたるところにあったのだし、身体は「損傷した地質学の断片」でした。だからアルトーが言うように、われわれは身体のなかに出てゆかねばならないのです。これは別の言い方をすれば、身体という「外」へと出てゆくということです。
アルトーはずっと後になってこの経験について再び述懐しています。

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
 ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためであるが、
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。

「アルトー・モモのほんとうの話」

 Je n’ai pas toujours retrouvé mes souvenirs concernant ma vie passée jusqu’à des époques indéfiniment reculées comme je tiens depuis dix années.
Et c’est au Mexique, dans la haute montagne, vers août septembre 1936, que j’ai commencé à m’y retrouver tout à fait.
J’étais monté chez Tarahumaras avec un signe, une espèce de petite épée de Tolède, attachée de 3 hameçons, qui m’avait été indiquée par un nègre sorcier de La Havane.
Avec ça, me dit-il, vous pouvez entrer.
Mais je n’avais pas désiré entrer.
Or qui va pour voir quelque chose c’est pour entrer dans un monde donné, mais jusque-là clos, insoupçonné,
ce n’est pas l’idée que je me fait des choses,
pour moi il ne s’agit pas d’entrer mais sortir des choses,
or qui se détache c’est aussi pour entrer,
sortir peut-être, mais dans quelque chose, quitter l’ici pour fondre ailleurs,
fondre et se libérer hors de l’ailleurs,
ne pas fondre, mais se libérer dans nulle part,
ne plus savoir,
renoncer à avoir existé,
alors ne plus souffrir jamais,
les alternatives sont innombrables et ce n’en sont plus, chaque religion et individu a la sienne,

Histoire vécue d’ARTAUD- MÔMO

タラウマラ族のもとで過ごした数日間は、人生のうちで最も幸福な三日間であったとアルトーは言いましたが、山岳地帯のアルトーにとって身体はすでに錯乱したお荷物でしかありませんでした。
 そしていま引用したとおり、アルトーのペヨトル体験は、「外」、あるいは自分自身のなかへ「出てゆく」という点で、例えば、ミショー、カスタネダ、ヒッピーたちの経験とは異なるものだったと言うことができるかもしれません。ペヨトルによって、ヒッピーたちは自分のなかへとわけ入って、「意識」を拡大できると考えました。「記号の山」があまりに強力なので、彼らは自分のなかに逃げ込むしかなかったのです。アルトーもわれわれも中に入りたいなどとは思いません。しかもアルトーの場合、むしろ「意識」は縮小されるように思われます(彼は言います、「それはやすりにかけられる」、と)。道を指し示すのはけっして意識ではなく、アルトーや室伏が言うように「外」と混じってしまう肉体の縁なのです。

室伏鴻は亡くなりましたが、彼の舞踏の身体が滅びることはないでしょう。

彼のからだを思い浮かべるたびに、私の眼前に一匹のトカゲが現れます。壁の暗い裂け目から出てきたばかりのトカゲは、陽の光を浴びた日時計の上でじっと動きません。錆びた鉄、ブロンズ、乾いた大気、反射する鱗、粘液、静寂。トカゲはさっきまで闇を食べていたところなのです。

悪魔の陽のもとにまで旅をしたのは誰だったのでしょうか。強い日差しの下で、大地は赤く、トカゲは地面に横たわった私をじっと見ています。
トカゲは言います、
「おまえは誰だ?」

メキシコにて

Profile

鈴木創士

1954年、神戸生まれ。フランス文学者、作家、評論家、翻訳家、音楽家。甲陽学院高等学校卒業後、フランスに留学。帰国後ニューウェーブバンドEP4のオリジナルキーボード奏者として活動。著書に『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社、のち現代思潮新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』(現代思潮新社)、『ひとりっきりの戦争機械』(青土社)、『サブ・ローザ 書物不良談義』(現代思潮新社)、翻訳に、エドモン・ジャベス『歓待の書』(現代思潮新社)アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』(宇野邦一共訳)(河出文庫)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』(河出文庫)、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』(河出文庫)ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(松本潤一郎共訳、現代思潮新社)『分身論』(作品社)等がある。

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