24 Jun.2017

自己同一性の幻想を拒否する―室伏鴻のダンス

竹重伸一

2015年に惜しくも68歳で急逝した室伏鴻は大きな影響を受けた土方巽の限界をも超えてダンスの革命を更に推し進め、ソロダンスの領域においてダンスの極北と言って良い地点にまで到達したダンサーだと思います。土方が舞踏のエソテリツク(秘教)化を進めて舞踏を他のダンスから聖別したとすれば、室伏は逆に舞踏をエクゾテリック(外)なものに開き、舞踏を再びダンスの歴史に位置付け直したと言えるのではないでしょうか。それはどういう意味でそう言えるのでしょう?この発表ではそのことを主に室伏のダンスの技術的側面に焦点を当てて考えてみます。

舞踏家にさえ室伏のダンスには技術がないと思っている人がいますし、私自身最初はダンスというよりアクションに近いのではないかと思っていましたが、その後それはとんでもない間違いであることに気付かされました。むしろ彼のダンスの技術を考えることこそがダンスの技術の最も本質的なものを考えることに繫がると思えてきたのです。ただ注意すべきなのは、室伏の場合ダンスの技術と思想が分かち難く結び付いていることなのです。従って彼の技術を読み解くことは彼の思想を読み解くことでもなければなりません。

室伏は2011年舞踊評論家石井達朗氏とのインタビューで自身の行うワークショップの内容について聞かれて次のように答えています。

「息(呼吸)」と体の「軸(アクシス)」の交差・交錯がすべて。要するに、均衡=不均衡なのですが、それは何かといえば、「エッジ」のバランスですよね。バランスから外れるということを自分の身体で十全に体現するためには、実際にバランスが成立した感覚を知るところから始めないといけない。しかしそれを持続するのは不可能ですね。軸に同一化するというのが「死」、つまり「死体」です。もちろん実際 死体ではないから、軸に完全に一致してしまうことはあり得ないけど、身体の中に そういう瞬間があって、その瞬間がある意味の死の模擬、写された時間です。スレスレです、そのズレが「生命」。              

つまり命というのは、その軸から絶えずズレることの反復でもある。生きて呼吸をしているという感覚は、常に軸からズレる移動の中にあって、その隙き間のプロセスの中に死の時間がたたみ込まれている。呼吸は絶えず循環しているけど、その 刻々に死がたたみ込まれているという、命とは大変パラドクサル(逆説的)で同時的なんです。「1、2…」と数えられる時間と数えられない時間が平行していて、それが身体の中で両方を生きている。

室伏鴻

私はこのいささか謎めいた言葉の中に室伏の獲得した技術のエッセンスが隠されていると考えます。コンテンポラリーダンスにおいても依然バレエはダンステクニックの中心に存在し続けていますが、そのバレエは足裏の一点から頭頂の一点に到る不動堅固な身体の軸を常にキープし続けることに技術の根幹があります。この軸がぶれてしまうことはバレエダンサーとしては失格を意味するでしょう。だが実はこの軸のキープは、哲学的に言えば主体としての自己同一性を維持し続けることでもあります。19世紀末のフリードリヒ・ニーチェはキリスト教の神によって支えられたこの自己同一性という幻想を強く批判しました。それ以後の現代哲学の歴史はこの批判の流れの中にあると言っても過言ではないでしょう。特にミシェル・フーコーはこの批判を「外の思考」という新しい概念に結び付けて展開しました。「外の思考」で重要なことは主体としての自己が自らが話す物質としての言語の空虚な空間の中に消え去ることです。つまり神の死の後に出現して来たものが言語の生の姿だったというわけです。この「外」という概念に室伏は深く影響され彼のダンスの核となるモチーフとしました。それは土方舞踏に回収できない彼独自のコンセプトです。

室伏も身体の軸がダンスの技術において重要だと考えていることには変わりがありません。しかし室伏は、驚くべきことにその軸に同一化することを「死体」になることだと言うのです。これは一体どういうことなのでしょうか?

最初にダンスに「死体」というヴィジョンを持ち込んだのが土方巽であることは良く知られています。土方は例えば「肉体に眺められた肉体学」の中では「いのちがけで突っ立っている死体は私達のもので、彼方なるものは肉体の中にある。」と書き、「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。」の中では「踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである。」と書いています。しかし土方は自身の身体を通して発見したその革命的なヴィジョンをダンサーそれぞれが内的な探求によって発見するものとしてではなく、むしろ途中から弟子のダンサーに振り付ける時に与える外側のイマージュ/フォルムの問題にしてしまったと思います。

一方室伏の「死体」という概念は、この土方から受け継いだものであることは確かだとしてもより明晰で方法論的な全く独自なものに深まっています。軸に同一化することが「死体」になることだということは、言い換えれば身体の軸という普段は目に見えない抽象的な存在を質量のある無機的な物質として知覚するということです。これは身体を取り巻く普段は質量を感じないはずの空気が突然質量を持ったものとして感じられるということをも意味しています。これは一種の認識論的反転です。キリスト教の神のように超越的な所から君臨してダンサーの自己を不変堅固な存在として保証していた身体の軸に室伏は突如不在の空虚を突き付けて、実は身体を「死体」という無機物に凍結・剝製化してしまう重力を持った存在であることを露呈させたのです。これは身体の遠心力的で時間的なムーブメントをコントロールする軸から身体を求心的空間的に硬直・痙攣させる軸への変容です。同時にそれは疑いのない実在であるはずの主体としての「私」の死とその言語への移行を意味するのです。

これは恐るべき経験です。身体の中に有機的な生命から疎外された無機的な物質が知覚されるということですから。恐らくこれと同じ経験をしたに違いない人が20世紀フランスの詩人・演劇人アントナン・アルトーです。アルトーが「思考の不能性」という問題に苦しんだことはよく知られています。

私は自分の核が死んでいるのを感じる。そこで私は苦しむ。私は魂から息をひとつ吐くたびに苦しんでいます、私の思考の不在に、すなわち私の思考のすべてがひとつの例外もなく潜在的状態へと移ってゆき、私の思考がそこへと吸収され逸れてゆくことに、苦しんでいます。

アルトー『アランディ博士宛書翰』

この硬直した苦悩の状態から身体を脱出させてくれるのが呼吸です。アルトーは『演劇とその形而上学』所収の「感性の体操」という論文の中で詳細に俳優の呼吸について論じています。ここでその呼吸論の細部に分け入ることはここではできませんがその中で最も重要なのは次の指摘だと思います。

たとえば呼吸について言うと、俳優の場合は、体が呼吸によって支えられているのに対して、レスリングや肉体的体操の選手の場合は、呼吸が体にささえられている点である。

アルトー『感性の体操』

この言葉はアルトーの考える俳優の呼吸が赤ん坊がするようなアプリオリで有機的な呼吸ではなく、もっと意志的で言語に伴う呼吸であることを示しています。人間は成長の過程で特定の言語を習得するわけですが、実はこれは身体に対するとても暴力的な過程です。アプリオリで有機的な呼吸が特定の言語の音韻構造によって人工的に改変されてしまうわけですから。そしてアルトーの場合その最終的な結実が、彼自身の朗誦による録音が残っているラジオドラマ『神の裁きと訣別するため』におけるあの呪詛のようなパロールなのです。

しかし呪術的な要素を払拭仕切れなかったアルトーに比べて室伏の「外」へ向けた探求はより深い地点にまで到達しています。室伏にとっても事態は同じです。死体のように硬直した身体を再び「生命」の方に向かわせるのは絶えず身体を循環している呼吸なのです。この呼吸もアルトー同様意志的な言語に伴う呼吸です。ここで注目すべきなのは「生きて呼吸をしているという感覚は、常に軸からズレる移動の中にあって、その隙き間のプロセスの中に死の時間がたたみ込まれている。」という言葉で、つまり室伏にとって呼吸とは軸からズレる移動のプロセスを生み出すものなのだということです。そしてもう一つ重要なのは室伏がこの身体を循環する呼吸の運動を8の字(スパイラル)と自ら形容していたことで、室伏自身は明言してはいませんが、明らかにこれはこの呼吸がエロティシズムの力と直結していることを意味していると思います。ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』から引用します。

本書を読むことによって、私たちの内部に開かれるかもしれないものは一つの空虚である。私が述べていることには、この空虚よりほかの意味はないのである。ともあれ、この空虚は決定的な一点で開かれる。たとえば、死がそれを開くのである。それは、死によってその内部に不在を導き入れられた屍体であり、この不在に結びついた腐敗である。

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

それ故このプロセスは主体と主体が表出する言葉との間に距離=空虚な空間を生み出します。この瞬間こそ主体が消滅する危機の瞬間であり、室伏の言う「エッジ」に触れる瞬間なのです。この自己同一性=軸が拡散した身体によるダンスに起こるのが身体と空間のトランスフォーメンションです。軸は身体の至る所に断片化され、ある時には手首が別の時には足の爪先が軸になってそれぞれの自律的な存在を主張し始めます。そして死体のように金属的な硬い状態にある身体が流動的な液体や揮発してしまうような気体の運動性も内包していることがわかるのです。ただここで言う空間とは、例えばドイツ表現主義舞踊のルドルフ・フォン・ラバンが言うような可視的な「空間」とは次元を異にしていて、不可視の潜在的な領域である場と観客の身体をも含み込んだ空間、リアルかつイマジネイティブな空間なのです。ここにおいてムーブメントの時間的展開に重心を置いてきた西洋のダンスとは別のダンスの次元が開かれたと思います。

しかし室伏の真のオリジナリティーは更にその先にあります。トランスフォームして空間的な密度が高まった身体に再び軸が「外」から呼び戻されるのです。それは室伏のダンスにおいてはしばしば不意の転倒として現れます。スパイラルの曲線が一瞬の内に直線になる。ダンスの切断。それを引き起こすのは空間的なエッジからやって来る自己の他者としての言語の力です。言語とは自己から表出されたものであっても既に一個の他者なのです。この切断の「外」の力によって室伏のダンスはシャーマニズムとは明確に区別されるでしょう。シャーマニズム(スピリチュアルな経験)とは自己の外に出るようで、実は言語という他者性から逃避した内面的な経験に過ぎず自己同一性は揺るがないままだからです。室伏のダンスはこのスパイラルと切断の終わりなき反復なのです。

室伏の原体験は子供の頃に湘南の海で見た流れ着いたゴザを被った水死体であると言います。更に学生時代に出羽三山で山伏の修行をした時にその周囲にある即身仏=ミイラに触れて大きな影響を受け、1976年の福井北龍峡での舞踏派背火公演『虚無僧』の中で初めてミイラを踊ります。土方巽はそれを観て逸早く「木乃伊の舞踏―室伏鴻」というエッセイを書き以後ミイラは室伏のトレードマークになります。室伏にとってミイラが重要なのは風景としてではなく、「踊りの運動性というのは、単に動き回ることではない。不動の中に運動性がきちんと折りたたまれている」(室伏)という新たなダンス観を彼に齎したが故に重要なのです。現在コンテンポラリーダンスにおいて「踊る」ことと「踊らない」ことという二項対立的な議論がよく行われています。その場合に「踊る」という言葉でイメージされているのは主にバレエとモダンダンスのテクニックであり、「踊らない」という言葉でイメージされているのはポストモダンダンスが発見した日常的な行為であります。その二項対立は結局はバレエとモダンダンスの既存のテクニックの温存に結び付いていると思いますが室伏のダンスはその不毛な二項対立の外にあります。なぜならそのダンスは「踊らない」中にいかに真の運動性があるかを示すものだからです。


引用
室伏鴻「肉体のEdgeに立つ孤高の舞踏家、室伏鴻」国際交流基金:Performing Arts Network Japan アーティストインタビュー(聞き手:石井達朗、2011年10月28日掲載)。
土方巽「肉体に眺められた肉体学」『土方巽全集Ⅰ』河出書房新社、初出1969年。
土方巽「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。」『土方巽全集Ⅰ』河出書房新社、初出1971年。
アントナン・アルトー「アランディ博士宛書翰 パリ、一九二七年十一月三十日──アルトー書翰より」清水徹・石井洋二郎訳
『ユリイカ』「特集 アントナン・アルトー あるいは〈器官なき身体〉」1988年2月号、青土社。
アントナン・アルトー「感性の体操」『演劇とその形而上学』安堂信也訳、白水社、1965年。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』澁澤龍彦訳、二見書房、1973年。

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Profile

竹重伸一

1965年生まれ。ダンス批評。2006年より「テルプシコール通信」「DANCEART」「図書新聞」「シアターアーツ」「舞踊年鑑」、劇評サイト「wonderland」等に寄稿。現在「テルプシコール通信」に『来るべきダンスのために』というダンス論を連載中。

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