鈴木創士
私の印象はこうです。舞踏家・室伏鴻の静止した肉体はとても美しく見えます。吉田一穂の『海の聖母』という詩集のなかの言葉を借りて、室伏さんのことを日時計の上でじっとしているトカゲだと書いたことがありますが、さっきまで闇を食らっていたこのトカゲは、日を浴びていまさっき死んだように微動だにしないのです。
だから私には、まるで舞踏家は思考の外で一度ならず動きを止めなければならないかのように見えるのです。身体から身体が抜け出すためにです。
土方巽は「肉体のなかに梯子をかけて降りてゆく」というようなことを言っていましたが、どのようにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。土方の語る子供時代があります。田んぼでイズメのなかに閉じ込められた赤ん坊の手足が硬直して動けなくなったあのからだが、舞踏家をいまでも責め苛むのでしょうか。たぶんそれは大きな出来事だったのでしょうが、そんな記憶の身体は、今ある身体のなかにねじ込まれたかつての身体だったのでしょうか。
しかし果たしてあの時にはぐれてしまった肉体を探すことだけが舞踏なのでしょうか。東北のあの世に身体を探しに行くのでしょうか。少なくとも室伏さんのダンスからはこの土方の子供時代のイズメのねじ曲がった手足を感じ取ることはできません。室伏さんの出発は、「ニーチェのダンス」であり、「ランボーのダンス」であったと言っていました。それにしても何という違いでしょう。
それとも六百年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方巽の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念のようなものがあったのでしょうか。私は世阿弥のことも同じようにしか、一種の暗黒舞踏家としか考えられないからですが、前々から世阿弥の次に土方が来たのだと考えていました。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにしてみなさんがご存知の夢幻能は成立したのです。
動きにおいてすら不動である、ということがあります。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、そんなものがあったのだとして、この手強い強迫観念は、すべての舞踏家の意識の外で暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。少なくとも別の動きをからだの外に引きずり出さねばならなかったはずです。土方の最も優れた弟子のひとりであったと思われる室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望、動きの外にある動き、動きの外に出ていこうとする動き、つまり動きながらの不動性があったように思われるからです。不動性への予感によって、震えによって、動かないことそれ自体によって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするかのようです。これは絶対に様式などにはなり得ないものです。
健康であれ、病気であれ、身体は、誕生後の眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。われわれ全員が死体の次元をまるで未来の妄想のようにすでにからだのなかに持っているからです。ああ、注連寺のあの即身仏、鉄門海のミイラ! だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。そわそわと動き回るからです。われわれは記憶の動物です。普通に歩いたり、走ったり、食べたり、たぶん泣いたり笑ったりするのも、誕生してほぼ最初の動体記憶というか、運動記憶によるものなのです。
別の身体の状態、通常の身体の変性状態も、必ずやわれわれ誰にでも訪れます。われわれの身体は衰弱し、病んでしまうからです。
今年の冬から春の終わりまで、病床の母の状態をずっと見ていました。僕は若い頃からずっと親不孝者だったので、最期だけは看取ろうと思っていました。母は重篤でした。しかしほとんど動かなくなった身体のなかでも様々なことが起きていました。体が描く稜線はかすかに振動する山並みのようにつねに微動を繰り返していました。寝返り、咳、ほとんど無意識の痛みによるヒステリー・アーチ(ゴダールの映画『マリア』のなかで、ベッドの上でからだをよじっていた妊娠した聖母マリアを思い出してください。)、不快感による小さな動き…。もちろんそれは土方が言ったような意味での「衰弱体」の諸様態のようなものであるのでしょうが、普通にこれが生体的には病んだ身体の最後の姿であるのかもしれません。
しかし死はどこにあるのでしょうか。病と死はまた別のものです。そして身体と生命もおそらくまったく別のものであると思いますが、身体の衰弱がほんとうに生と死のせめぎ合いによるものなのかどうか、私にはわかりませんでした。生命と死がそこでどのように区別されるのか、死の床にある母の姿を見ていて、私にはまったくといっていいほど理解できませんでした。死がどこで生命とすり替わるのか、死がいつなんどき生に襲いかかるのか、などという問いの立て方はそもそも全部間違っているのかもしれません。
そして彼女の現働態にあるからだは、生というか死というか、それらのものと共に彼女の内側にも外側にもありました。内側の身体、外側の身体です。それは間違いありません。誰が見ても、こうして病は実現されたかに見えました。でも私には、病んだ母の身体からもうひとつ別の身体が出ていこうとしているように思えたのです。
それはそうと、哲学者の江川隆男が言っていることですが、「身体の身体」というものがあるようなのです。この概念を適用すれば、舞踏の最初にあったのは、身体によって「精神のうちに外の思考を発生させる要素」、身体の隠れた、知られざる力能であり、これはこの身体であると同時に「身体の身体」によるものでもあるのです。たしかに身体から身体が抜け出すためには、身体の身体がなければなりません。これは実に都合のいい、というか、新しい概念だと思います。スピノザ風に言えば、身体の延長としての身体。だけどスピノザに反して言えば、これは「まったく別の身体」でもあります。ここから「器官なき身体」まではそう遠くありません。
1954年、神戸生まれ。フランス文学者、作家、評論家、翻訳家、音楽家。甲陽学院高等学校卒業後、フランスに留学。帰国後ニューウェーブバンドEP4のオリジナルキーボード奏者として活動。著書に『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社、のち現代思潮新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』(現代思潮新社)、『ひとりっきりの戦争機械』(青土社)、『サブ・ローザ 書物不良談義』(現代思潮新社)、翻訳に、エドモン・ジャベス『歓待の書』(現代思潮新社)アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』(宇野邦一共訳)(河出文庫)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』(河出文庫)、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』(河出文庫)ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(松本潤一郎共訳、現代思潮新社)『分身論』(作品社)等がある。