26 Nov.2016

死者とともにあること─室伏鴻の「外」という概念に関する作業仮説として

越智雄磨

頭を逆様にして考えろ、・・ということです。ダンサーは、なんでわざわざ逆立ちまでして踊るか・・・、まるで苦行みたいにバランスのぎりぎりで踊らなければならないのか、を考えながら踊ります。通常、ダンスは立った状態で二本の足と二本の手を駆使して踊られる。日常において人が逆立ちしてしまえば、それはもうどうにでもなれ・・と、労働もできない、戦争もできないし、(セックスはできるかどうか?)ほとんどそれは生の放棄である。それを、とりあえず<死体になること>と言ってもよい。たとえば、ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』のなかでダンスを礼賛しながら、さらにそのうえ<逆立ちで踊れ>と言った。役にたたないカラダを役にたてること。しかしいったいダンスはなんの役にたつのか?むしろ役に立たないままの、無用のままに終始することのほかなにもないのではないか?という私のダンス論なのです。[10]

実際、『DEAD1』は三人の銀塗りの身体が逆立ち状態で現れる。その後、立ち上がっては倒れるという行為を繰り返す。明瞭な生産性とは結びつかない純粋なエネルギーの蕩尽であり、交換経済の「外」へ向かう身体である。『Dead1』の延々と繰り返される踊り手たちの転倒において、あるいは『墓場で踊られる熱狂的なダンス』の痙攣において、ダンサーたちの膨大なエネルギーが無用なものへと転化される。利益や有益性を求めないエネルギーの蕩尽である室伏のダンスが提示する身体は、エネルギーや財の純粋な消費であり、贈与のエコノミーに属していると言える。室伏の舞踏は、宇野邦一がかつて、ニジンスキーやグロトフスキの身体に見出したような、肉体のポトラッチに向かい、一般的経済の、シミュラクルに取り囲まれた世界の外部へと突き抜けるポテンシャルを見せる。

土方譲りの「死体」という思想に加えて、「外」へ向かおうとする力を室伏は、思想や詩、芸術といった様々な歴史的リフェランスから独自に錬成していったと思われる。例えば、過去の作品『贈与の一撃』というタイトルやアーカイブに残されている室伏本人の自筆の読書ノートから、この振付家の主要なテーマの一つに「贈与」があったことは明白である[11]。また室伏に取って、土方巽から指導を受けて以来、ニジンスキーは主要なモチーフのひとつである。それは単に師匠である土方から「牧神の午後」のポーズを教えられたという理由以上に、「贈与」という観点から、ニジンスキーが彼の終生一貫したモチーフであったことも自然に理解される。室伏が丁寧にノートをとった宇野邦一の「舞踏 奇妙なポトラッチ」においてニジンスキーに焦点が当てられている。また宇野のこのテクストは、ニジンスキーが晩年、狂気の最中にあって書いた「私は株式交換所を破壊したい。私は生である」という資本主義経済の外部に立つメタフォリックな発言の紹介から始まっている。室伏の「外へ」という思考はニジンスキーの言葉と身体イメージと重層的に響き合っている。

3.結びにかえて:室伏鴻の「死」がもたらすもの

ここまで、ドゥボールやボードリヤールの思想を助けとしながら、土方の時代と室伏の時代の差異や、またそこから生じる「肉体の叛乱」の方法の変化を室伏の「外へ」をキーワードとしながら考えてきた。私には室伏の舞踏が、ボードリヤールの言う『象徴交換と死』と並走するもののように見える。そして、室伏鴻の舞踏は、土方の思想に由来する近代において排除されてきた死を経由することでの人間性の回復を教えてくれるのだが、それは「外へ」という思想がなければ、現代においては力を欠いたかもしれないし、継続することもできなかったのではないかと思われるのだ。

室伏の作品群が告げていることは、死を生の対立物と考えるべきではないということである。死が傍にあるからこそ、私たちの生は充実したものになる。彼の蔵書や資料を保存した室伏鴻アーカイブから、室伏鴻の死後の生を考えることができるのではないか。室伏鴻のアーカイブが、死した室伏との対話と「外へ」の旅を可能にする場として役目を果たされることを望む。


[1] 『土方巽全集1』「木乃伊の舞踏」p350
[2] Centonze, Katija, Resistance to the Society of the Spectacle: the “nikutai” in Murobushi Ko.
[3] ボードリヤール、La Scèneに書いた評論 。
[4] 林道郎『死者とともに生きる』、現代書館、2015年、pp.18-19.
[5] Ibid.,p.19.
[6] 1978年にパリで開催された日本をテーマにした博覧会「日本の間」展において、芦川洋子と田中泯がパフォーマンスを行った。
[7] Centonze, Katija, “Resistance to the Society of the Spectacle: the “nikutai” in Murobushi Kō ”, Danza e ricerca, Numero 0 (ottobre 2009), p.164.
[8] 「象徴交換」とは、文化人類学者のモースやマリノフスキーが考察したプリミティヴな社会の組織原理である、贈与と返礼を通じた交換形態のことである。

 近代社会が、一般的等価物としての貨幣を仲介した等価交換を当然の前提としてるのに対して、象徴交換は原則として貨幣を仲介しない儀礼的交換であり、南太平洋オロビリアンド初頭の住民のクラ(社会的地位のシステムが組織される装身具など貴重品の象徴交換)や北西アメリカ先住民のポトラッチ(貴重な財を互いに壊し合う、富の競覇的破壊による象徴交換)に、その実例を見出すことができる。(『ボードリヤールという生き方』p.98)
[9] 「スピノザも、死を論ずるのは不健康で少々倒錯的なことであり、叡智は死については省察せず、生について省察するものである、と述べています。」ウラジミール・ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』p.13
[10] 「Dead1アフタートークのために」より。資料提供:渡辺喜美子。
[11] 室伏鴻の読書ノートには宇野邦一の「舞踏—奇妙なポトラッチ」の詳細なノートが含まれている。また、蔵書には贈与に関する書籍が複数見られる。

Profile

越智雄磨

1981年生まれ。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。
日本学術振興会特別研究員、パリ第 8 大学客員研究員を経て現職。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー ダンスに関する歴史、文化政策、美学研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリーダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。
編著に同展覧会の図録『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』がある。
論文に「ジェローム・ベル《The Show Must Go On》分析」(2011)、「共存のためのコレオグラフィ : グザヴィエ・ル・ロワ振付作品における「関係性」の問題について」(2014)などがある。

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