越智雄磨
意味のない踊が本当の踊である。ただ人々は、多くの意味を背負わされた踊を余り見てきたので、意味のない踊にも解釈を付け加えてしまう。本当の踊を見られなくなってしまった不幸な人たち。
それに、本当の踊はそう長くは続かない。だから、この貴いものを見落とさないためには、どんな努力が要るか。存在していないように存在することも知っていなければならない。[*1]
0.
序
室伏鴻が行なってきた踊り全般を示すに当たって、舞踏という言葉が一般的には使用されているかもしれない。室伏は舞踏の始祖と言われる土方巽の弟子であり、自らの実践を舞踏と称し、また周囲からも舞踏家と呼ばれるからだ。この発表では、『室伏鴻集成』に所収された室伏自身の「舞踏」に対する考え方について追跡を試みて見たいと思う。室伏の人生は、麿赤児が「栄光の舞踏刑に処された男」[*2]と述べるように舞踏の追及に殉じたものだったのだと思う。しかしながら、本発表では、最終的には室伏の活動を舞踏と名指すことをあえて留保したいと思う。何故ならば、室伏が目指したダンスとは、土方巽が創始者である舞踏の模倣やその後の展開に追随することではなく、世間一般が抱く舞踏の手垢のついたイメージ、典型的なイメージ、先入観から断絶したニュートラルな「零度のダンス」とでも呼ぶべきものだったのではないかと思うからである。室伏は次のようにいう。
肉体はあまりに多くの意味に覆われ他の欲望によって侵略されてズタズタだ。その主人のような顔をした人間と言うのは意味や欲望の奴隷だろう。意味や欲望の衣を引き裂き、逆にズッタズタにしてやらねばならぬ。だから私=人間はそれらすべてを灰燼に帰してたったひとつの意味、無垢なる始原の無意味へと肉体を奪い返さねばならない。[*3]
こうした言葉から「零度のダンス」という名称を連想した時、私の発想の出発点にあったのはロラン・バルトの『零度のエクリチュール』である。バルトが文学におけるエクリチュール、すなわち書くという行為に「零度」を見出し、あるいは零度という言葉を導入することで、慣習的、階級的な縛りから言葉の初源的な力を解放しようとしたように、室伏は、ダンスにおいてそれを実践し、「ダンス以前のダンス」、純粋な身振りの力を解放して来たのではないか、という印象を持っていたからだ。まず「零度のエクリチュール」がどのようなものとして想定されていたのか、バルト自身の説明を引いてみたい。
本書において「零度のエクリチュール」とよばれているあの中性のエクリチュールのなかには、否定の動きそのものと、それを持続的に実現することの不可能性とが容易にみとめられる。あたかも「文学」は、この100年のあいだ、父祖から受け継いだものではない形式にみずからの外観を変えようとするあまり、いっさいの記号の不在にしか純粋さを見出せなくなって、ついにはあのオルフェウス的な夢を唱え始めているかのようである。[*4]
ここに書かれている「エクリチュール」や「文学」という言葉を「ダンス」に置き換えてみれば、私には、舞踊史におけるある100年の間に起こったことのようにも思われるし、ダンスの極北を突き詰めようとした室伏鴻が辿った人生を反映した文章としても読める。室伏は土方が開いた舞踏に傾倒し、ダンスを否定すること、一般的なダンステクニックに基づいたムーブメントの拒絶や表現の不在の中にのみ、身振りの純粋さを追求して来たように見える。ついには、土方が到達した舞踏の振付、様式化からも背を向け、まるでオルフェウスの神話のように振り返ったらダンスを失ってしまうというオブセッションに駆られていたかのように、室伏は、ダンスから離れつつダンスの極北を目指して死に至るまで走り続けたという印象がある。
この度、刊行された『室伏鴻集成』を読み、その印象はあながち間違っていなかったのではないかと感じている。室伏は集成に収められた様々なテクストの中で「零度」ないし「零」という言葉に、自身のダンスの到達点を仮託していると思われるからである。室伏が最後に取り掛かり、未完の作品となった『真夜中のニジンスキー』のためのノートの中では、次のように語られている。「ダンス、それは表現の死=〈零度〉に立つことなのだ 」[*5]と。
本発表の目的は、室伏鴻が志向した表現の死、すなわち「零度のダンス」と呼びうるものがいかなるものか、その輪郭を明らかにすることにある。
1.
舞踏の様式化への抵抗
室伏が舞踏に傾倒し、さらには舞踏の外を目指し、「表現の死=零度」のダンスへ向かう経緯はどのようなものだったのか。その前史として、室伏の舞踏との出会い、さらに舞踏からの離反の経緯を確認してみたい。
舞踏は、今や世界の研究者、実践者から注目を集めている日本の前衛芸術と言える。しかし、其の始祖である土方巽自身が1970年代にすでに舞踏の商品化を危惧し、また80年代には国内外で多くの舞踏のコピーが横行した。すでにそのことを拙稿「室伏鴻の舞踏における「外」、あるいは死の意味について」で論じたが、室伏鴻は、ジャンル化、商品化、土方巽の神格化と土方巽本人を離れて一人歩きする固有名詞、舞踏のラベリングや様式化に強い抵抗を示し、独自の道を開いてきた。
『室伏鴻集成』に目を通すと、室伏は土方および舞踏に対してアンビヴァレントな感情を抱いていたことがわかる。そこには、生涯を通して踊り続けることのきっかけをもたらした土方への敬意が読み取れる一方、乗り越え、離反するべき先行者としての土方への批判もまた論集の中には同居している。土方との出会いを、室伏は以下のように懐古している。
「肉体の叛乱 土方巽と日本人」(1968年10月・日本青年館ホール)、それは一夜の出来事であった。〈その夜を境にして私は変わった。〉というような特異な事件=出来事であった。その舞台に出会うことがなければ私がダンスの道に立つこともなかったのだから……[*6]
当時、早稲田大学の学生であった室伏は、1968年の『肉体の叛乱』で初めて土方を目にし、その翌年の春、アスベスト館に土方を訪ね、弟子入りした。土方の近くにいたのは1年程度のことだったというが、『肉体の叛乱』の衝撃に関しては山崎広太によるインタビューでも語っており、土方との作品との出会いが室伏の人生を決定したことは確かである。他方で別のテクストでは、土方による舞踏の展開について、次のような批判的見解も述べる。
舞踏を創始した土方巽は“舞踏の原点”を自ら深化させたのかどうか。
少なくとも1975年以降はそのような活動はなかった[*7]
1975年、土方はすでに少なくとも公式には舞台に出演することをやめ、自らは出演することなく弟子への振付に専念していた 。[*8]室伏は、そのように振付に専念した土方が始めた「東北歌舞伎」に舞踏の様式化を見出し、それに対して手放しに賞賛したわけではなかった。
様式、土方巽の東北歌舞伎という「様式」について考える。あれは、暗黒舞踏とはもはやいえない到達点なのだ。
「禁色」から「肉体の叛乱」までと、それ以後の境い目、継ぎ目の。[*9]
笠井叡も述べているように1970年代以降、「土方巽は『四季のための二十七晩』のような振付を中心とした作品や舞踊譜のような舞踊伝達の方向への模索に傾いていった」 。[*10]しかし室伏は「暗黒舞踏」と呼ばれていた土方が活動の初期に見せた「凶器性」に留まり続けたと笠井は述べている。
また室伏は別の箇所で、次のように述べる。
「マイム舞踏」と呼んだ表現主義的な舞踏が一方に有る=これも土方自ら創始したスタイルである。多くの人が「舞踏」というとき「舞踏の原点」ではなく「マイム舞踏」のことをイメージして語っているのではないか。
舞踏の創始が偉大であるのは「マイム舞踏」にあるのではなく「原点」にこそある。[*11]
これらの発言から、まず、室伏が舞踏という言葉が想起させるもの、土方巽の活動を一様のものとはみなしていないこと、そして「マイム舞踏」を評価していないことがわかる。室伏が留保なしに「暗黒舞踏」として評価しているのは、室伏自身は見ていたわけではないが舞踏の始まりと言われる1959年の『禁色』、そして室伏が最初に土方を見た1968年の『肉体の叛乱』、1972年の『四季のための二十七晩』のうち土方が弟子たちに振り付けたパートではなく、土方自身のソロパート『疱瘡譚』までと推察される。[*12]
土方自身が踊らなくなり、舞踏譜による振付に専心した時期に対しては、「到達点」と称しつつも、室伏自身が衝撃を受けた「暗黒舞踏」や理想とするダンスとは別物と感じていることを告白していた。土方が亡くなった1986年に室伏が書いた「外の舞踏宣言」には次のように書かれている。
なぜ「舞踏」をはじめたのかとしばしば問われた。かつて何度か〈土方巽を見たから〉と答えた。その土方は死んだ。1986年が明けて、唐突に搔き消えるようにして亡くなった。今、彼によって始まった〈舞踏〉は彼とともに葬り去られてよい。[*13]
彼の名が、実在の彼の魅力や思考とは別の地平でひとつのジャンルと形式とを形成したかに見えたまさにその時、彼はかき消えるようにして去った。[*14]
土方巽は1985年に開かれた「舞踏フェスティヴァル‘85」の後、「これで舞踏は終わった」と述べたという。このフェスティヴァルは、7つの舞踏の団体が集い、作品を発表し、その後NHKで土方自身の講演会と合田成男による舞踏の系譜の解説と合わせてNHKで放映された。ある意味、アンダーグラウンドの先鋭的な活動であった舞踏が日の元に引きずり出されて、公認された瞬間でもあった。その翌年の1986年に土方は亡くなり、室伏は「外の舞踏宣言」を書いた。室伏は、そこで土方とともに舞踏は死んでもよいと考えていたが、この発言には「舞踏」が様式化、形式化したこと、土方巽とともに、一つのジャンルとして固有名詞として定着したことに対する悲しみと抵抗が見て取れる。そして、この宣言には、室伏の土方との別れと土方自身が深化させきれなかった「舞踏の原点」の深化に向かう示す意思が込められていたに違いない。室伏はこの宣言において、次のようにも語っている。
彼が「土方巽」の名において、あるいは「暗黒舞踏」の名において、語り継がれてゆくことの「外」で、その固有名詞によって代名され得なかったものにこだわること。〈中略〉看板が掲げられた時、すでにその看板の外へとはみ出してゆく匿名のものの交通によって、無名においてこそ、私は舞踏を選んだ……。ゆえに、外にこだわることは、その無名、未だ名を持たないものの生成の、その刹那にこだわるということなのだ。他ならぬ土方が「肉体の叛乱」の舞台で誰に突きつけるというのではなく、自己の肉体に宣告したものがそれだと思うからだ。[*15]
室伏は『肉体の叛乱』に見た「舞踏」という名が持つ典型的なイメージや様式化に侵食される前の、土方の肉体の原初の力、刹那に生成したものの力、笠井叡ならば「舞踊の歴史をまっぷたつに切断する凶器身体」と呼ぶものこそを追い求め続けていたのだと思われる。2000年代以降も、この姿勢は貫かれており、室伏は「私の今やっていることの先に見えるものは、ジャンル化あるいは様式化された舞踏、それ自体からの逸脱かもしれない。舞踏をナタで割ること、あるいは粉砕してみること 」[*16]と述べている。
2.
室伏が魅せられた「舞踏の原点」とは、いかなるものだろうか。舞踏の原点にこそ舞踏の価値を認めた「舞踏の原点 論」は次のように続けられる。
音楽マイナス音楽=沈黙……だが、これも音楽であるという考えを創始したのがジョン・ケージであるなら、舞踊マイナス舞踊=沈黙する身体(あるいはつっ立った死体)……これも踊りであると創始したのが土方ではないのか。舞踊の停止……のはずだが。これは同時に表情の停止のはず。顔の表情を作ってみたり、肉体の形を色々と工夫してみたり。
舞踊が停止した=踊りは技術的な組み合わせやトレーニングで可能になるはずはないはずである。舞踏譜に凝縮した技術を組み合わせれば幾らでも「舞踏」を作ることが出来ると言うのは迷妄としか言いようが無い。表現体系を一度技術に分解して再度組み合わせて別の作品を作ると言うようなことは、既にクラシックバレエの世界で行われてきたことだからである。〈中略〉
“舞踏の原点”における“技術はあらかじめ”技術の外へ押しやられているはずだから。表現を停止するよう指示された身体はいったいどのように“舞台”で踊るのか、踊れるのか。
踊りの表現技術を全て沈黙させる技術、これこそが“舞踏の原点”なのである。[*17]
室伏は、クラシックバレエにおいて、洗練されたテクニックやコード化された動きを組み合わせて作品を作ることと、舞踏譜によって舞踏の作品を作ることに類似性を見ている。ここで、踊りの技術は、ある合目的性、なんらかの表現を実現するための有為なものとして機能している。
それに反して、室伏は「舞踏の原点」それはすなわち、舞踊から舞踊を差し引いたもの、踊りの表現技術を全て沈黙させた後に現れる身体、突っ立った死体であるが、それを深化させるために、ダンスの無名性、何かしらの表現に奉仕する合目的な技術を沈黙させた、無為のダンスへの志向を強めていく。たとえば、『Dead1』の創作ノートでは次のようにのべる。
頭を逆様にして考えろ、・・ということです。ダンサーは、なんでわざわざ逆立ちまでして踊るか・・・、まるで苦行みたいにバランスのぎりぎりで踊らなければならないのか、を考えながら踊ります。通常、ダンスは立った状態で二本の足と二本の手を駆使して踊られる。日常において人が逆立ちしてしまえば、それはもうどうにでもなれ・・と、労働もできない、戦争もできないし、(セックスはできるかどうか?)ほとんどそれは生の放棄である。それを、とりあえず〈死体になること〉と言ってもよい。たとえば、ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』のなかでダンスを礼賛しながら、さらにそのうえ〈逆立ちで踊れ〉と言った。役にたたないカラダを役にたてること。しかしいったいダンスはなんの役にた
つのか?むしろ役に立たないままの、無用のままに終始することのほかなにもないのではないか?という私のダンス論なのです。[*18]
ここに示されているように室伏によって志向されているのは無用の役に他立たない、「無為」の身体である。また無為は、「零」という言葉によってしばしば代理される。
室伏が「零」という言葉で表そうとするものは多層的である。集成の中に見られる「ゼロ」を拾い集めると、「真・善・美」などの価値のゼロ=中性、運動のゼロ=静止状態、表象・表現のゼロ=むき出しの存在、存在のゼロ=不在、連続性のゼロ=瞬間的な切断、見返りのゼロ=贈与などが見られる。そして室伏にとって、「死」とは、おそらくこれら全てのゼロを引き受けるメタファーであり、厳然と存在する事実である。そして、集成を読み進める過程で、室伏の志向する零度のダンスは、ニーチェの「大いなる正午」、モースやバタイユの贈与論、ブランショの「無為」などの思想に裏打ちされていることを理解した。
ニーチェの「正午」とその反転として室伏に捉えられていたマラルメの「真夜中」、現実的な時間の外部にある「零時」の思想を受けて題された『真夜中のニジンスキー』はそれらの全ての「零」を引き受けた作品として構想されたのではないか。そして室伏の現実の死によって、その企図は突如切断された。今、私たちが室伏亡き後の室伏鴻アーカイヴに集う理由は、この室伏の突如の死が生じさせた存在の空虚=不在の中に残された何事かに引き寄せられているからである。「作品=有為なるもの(oeuvre)」としてではなく、無為なるもの(désoeuvrement)としての何事かに。あるいは、私たちは、「存在していないように存在している」室伏の「零度のダンス」に振り付けられている。
室伏は次のように書く。
私は、私の死を所有したいと書いたのだ。それは〈不可能事〉である。まさに、不可能なものに、わたしはなりたいのである。ミイラの千日行は、それである。私は、私を、断罪する。私は私の所有を断罪する。私は、私を、盲目への希求、片翼への、不具性への希求として生きるであろう。それが私のおどり、跳躍、死への跳躍なのである。
それは、私の事件=出来事、かすかに、他の他者に私を通わせる出来事=舞踏となるであろうか? [*19]
室伏のこの企図は、その死をもって完成したのではないか。
意味や合目的性、生産性の外部には無為があり、死がある。合理的な情報や経済的交換に基づいた共同体がある一方、死の共同体が存在する。そう述べたのはジャン・リュック・ナンシー(『無為の共同体』)とアルフォンソ・リンギス(『何も共有しない者たちの共同体』)である。室伏の死は、無為の共同体、何も共有しないものたちの共同体を発動させている。この事実から翻って、生前の室伏のダンスと言葉をみれば、無為によって何を室伏がなそうとしていたのか、理解することができるのではないか。
3.
付記
フランスの美学者フレデリック・プイヨードは、ダンスにおける「無為—désoeuvrement」を主題に据えた『振付の無為—舞踊における作品概念に関する研究』[*20] を上梓した。この本の冒頭には、哲学や美学がダンスの実践について思考することに関して無力であると書かれている。プイヨードはその理由についてダンスにおいては本来、根元的に作品(oeuvre)が不在であった体と考える。そして「作品=営為oeuvre」ではなく、むしろ無為(désoeuvrement)という概念を起点にダンスを語ることを提案する。
プイヨードによればカントの「判断力批判」以降、つまり18世紀の美学の成立以降、美学からダンスが除外され、それはヘーゲル、シェリングにも踏襲され、ダンスの扱いづらさが強化されてきた [*21]。て以来、哲学や美学はほとんどダンスについて語らないということを確認しつつ、少数ながらダンスに関する哲学的な著作群は、運動という実践を生産物の純粋な不在、消耗—蕩尽、自己触発(auto-affection)の領分に割り当て、何事かを書いてきた。こうした「作品の不在」はダンスの作品に固有かつ内在的な脆さ、無為と呼びうるものについて思考を巡らせる。プイヨードは、無為が有為—作品に対していかに働きかけるかという難問に取り掛かっている。
プイヨードはダンスの無為を4つの特徴にまとめている。1. 作品の不在、2. 美學や法による認識から逃れ出ていくこと、3. オートグラフ的(自筆的)でもアログラフ的(代筆的)でもないということ、つまりダンスはそもそもグラフ(描かれたもの)でもないということ。4. そして無目的であること、踊る理由も、生産すべきものもないことを挙げる。最終的にプイヨードは、このダンスの無為をジャン・リュック・ナンシーの『無為の共同体』やバタイユの『有罪者』、フーコーの『狂気の歴史』、ブランショの『終わりなき対話』において語られる無為と接続していくことを提案して、本書を閉じる。
このプイヨードの提案は、まさに室伏が生涯をかけて追求したダンスの思考と実践のことなのではないか? むしろプイヨードの研究は室伏の思考と実践を視野に入れることでより豊かなものになるのではないかと考えられる。反対に室伏鴻の「零度のダンス」は、それはもはや「無為のダンス」と呼ぶ方が適切かもしれないが、プイヨードの研究を検討することを通して、より確かにその輪郭を捉えることができるのではないか? このような研究的課題を提示することで、差し当たり、本試論を閉じることとしたい。
1981年生まれ。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員。
日本学術振興会特別研究員、パリ第8大学客員研究員を経て現職。専門はフランスを中心としたコンテンポラリーダンスに関する歴史、文化政策、美学研究。早稲田大学演劇博物館においてコンテンポラリーダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。編著に同展覧会の図録『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』がある。論文に「ジェローム・ベル《The Show Must Go On》分析」(2011)、「共存のためのコレオグラフィ : グザヴィエ・ル・ロワ振付作品における「関係性」の問題について」(2014)などがある。