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3 Jul.2018

舞踊の身体はなぜ舞踊の身体なのか:ファンク、バレエ、舞踏

貫成人

はじめに、今日は、思いがけず尼ヶ崎先生がいらっしゃってくださいました。今日の話は、尼ヶ崎先生のお説をいわば引き継ぐ内容なので、聞いていただけることはたいへん光栄だし、ありがたく存じております。
本日の内容は、舞踊の身体がいかなるものなのか、その構造分析をしてみようということであります。もちろん舞踊といっても色々なものがあります。副題を「ファンク、バレエ、舞踏」としました。ここではまず、ファンクとバレエをもとに舞踊の身体のあり方を分析し、その後、日常身体の構造を見てみます。尼ヶ崎先生は90年代から、舞踊身体の特徴を「脱秩序化/再秩序化」という点にあると指摘しておられますが、この指摘を手がかりに、バレエや舞踏の身体を分析していきたいと思います。それによって、舞踊の身体が、日常の身体はもとより、スポーツあるいは職人など、身体を使う、舞踊以外の仕事とどう違うのかを構造的に明らかにしたいと思います。

1.
舞踊身体の多様性:ファンクとバレエ

舞踊身体というものが如何に多様かを見るために、まず、ファンクを見てみたいと思います。これに関しては七類誠一郎という人が非常に興味深い本を書いています(『黒人リズム感の秘密』郁朋社)。彼によるとファンクの動きというのは、例えばマイケル・ジャクソンの動きを考えていただければいいんですが、「鳩の首」という動きがポイントだと言います。鳩は頭を前後しながら歩きますが、その「鳩の首」のように動く頭からの震動が、脱力した体に伝わっていって、首から肩、肩から腹、腕や脚、また手足の末端というふうに繋がっていく。動きが手足に伝わったときにはもう既に頭における次の波動が生まれているので、客から見ると動きがダンサーの体から次々と溢れ出てくるように見える。それがファンクの動きだと言うわけです。バスケットボールのスター選手マイケル・ジョーダンの動きもそれに近いと言われています。
バレエは全然違います。《白鳥の湖》第三幕のクライマックス、オディールのグラン・ジュテ・アン・トゥルナンを考えてみましょう。ジュテというのは、片足で回転して普通はウエストの高さに置いておく足を鞭うつように動かす。それによって回転が始まるというものです。
この二つを比べてみただけでも、動きの原理がファンクとバレエでは違っていることがわかります。
第一に、ファンクの場合、動力が首にある。それに対してバレエの場合には捻りや足の動きによって回転が進んでいます。
第二に、ファンクの場合には、手足の位置をコントロールするより、動き全体のグルーヴが大事ですが、バレエにおいては、四肢や胴体の位置、全体の姿形をいかにコントロールするかが問題で、個々の動きのグルーヴ感は不要です。
第三に、バレエにおいては、たとえば回転のための力とか重心など、身体をめぐる物理法則をコントロールすることが重要です。フィギュアスケートも同様で、たとえば羽生弓弦は回転するとき、腕を折りたたむなどして、体をできるだけ細くします。体が開いているとそれだけ回すのにエネルギーがいる。体を細くしているとそれだけくるくる回転できるようになるからです。これは回転の際のトルクを制御するためのテクニックです。ファンクの場合にそういうことはおそらくほとんど考えられてはいないでしょう。
舞踊身体にはさまざまなものがありますが、では、それは、日常身体とどう違うのでしょう。

2.
舞踊身体の多様性:日常身体

日常身体に関しましては、メルロ=ポンティの現象学的な分析が非常に役に立ちます。
特に、踊りとの比較において重要なのは、日常私たちが普通に暮らしているとき、身体はその都度の状況にほとんど勝手に反応してくれているということです。例えば自転車に乗るときの事を考えてください。自転車に乗ってカーブを曲がるとき体を傾けます。体をいつ、どのくらい傾けるかは、そのときのスピードであるとか、カーブの大きさであるとか、色々な条件で変わってきます。ところが、それを咄嗟に計算するというと、とても大変な手間がかかります。筑波大学の研究所で、20年くらい前にそういう計算を方程式作ってやったらしいんですけれども、当時のスーパーコンピューターで3日かかったということです。それを私たちの頭でやったら何日かかるか分かりません。ところが、現に私たちが自転車に乗るときには今みたいな状況に即座に反応して、しかるべき角度で曲がっています。これはどうしてできるかというと、体が勝手にそのように計算してくれるということであります。
そういうふうにして、私たちは、歩いたり、タイピングをしたり、料理を作るのに魚を三枚におろしたり、みたいな事を、慣れてしまえばごく自然にやってしまう。あるいは、例えば私たちは歩きながら、話したり、考え事をしたり、普通にできるますが、それは歩行というものが完全に習慣化しているからです。つまり、何も考えなくても然るべきところに然るべき仕方で足を進めることができるようになっている。それはつまりは身体がやってくれているということなのです。
しかもそれは、状況と相対的です。つまり、坂道の上り坂ならば足を上げるし、下り坂では足をおろして行くというふうにして、状況によって歩き方も変わってきますけれど、その調整も体が勝手にやってくれる。
だから通常の日常生活においては、状況があって動きがあるんですね。ボールが飛んで来ればそれを受け止めるなり、よけるなりする。必要ないのに突然よけたりするってことはしない。このように状況と動きが必然的に結びついているというのが日常の身体です。

3.
脱秩序化/再秩序化

ところが、じゃあ一体、舞踊の場合はどうなのか。ここで非常に参考になるのが、「脱秩序化/再秩序化」というキーワードです。バレエであろうがファンクであろうが舞踏であろうが何であろうが、舞踊の技法というものを身につけるためには、一旦日常的な身体の癖を取り除かなければならない。そのあとでもって新たにしかるべき技法を身につける。取り除くというのを「脱秩序化」というふうに尼ヶ崎先生はおっしゃっており、身につけるところを「再秩序化」とおっしゃっている。この言い方は非常に多くの研究者に影響を与えていて、譲原晶子さんとか、名古屋大学の山口庸子さんも、同じことを言っています。海外でも、そういうことが言われております。ダンスによって新たな秩序化された身体は政治的な抑圧にも抵抗できるんだといったようなことが、フィンランドのダンスセンターのパンフレットに書いてありします。
ところがここで一つ問題があります。つまり、「脱秩序化/再秩序化」が舞踊の習得において重要であることはいうまでもありませんが、ただしそれは他の技法取得においても起こるということです。例えば、ゴルフのドライブを身につけるためには、物を叩く時の通常の私たちのやり方を完全に捨てなければいけない。普通、たとえば釘を打つとき、私たちは肩と肘をもってハンマーをコントロールします。ところが、ゴルフでそれをやると玉は飛びません。ゴルフの場合には、体軸を支点にして、腕はまっすぐなままで上体ごと回転させなければいけない。打ち抜く感じす。そういう、スポーツ、あるいはさまざまな職人仕事、たとえば旋盤工に習熟するためには、通常人がやりがちな体の使い方を一旦捨てて新しい動き方を身につけなければいけない。ピアノを弾くときには、オルガンみたいに指で鍵を押して弾いちゃうと音が出ない。叩かなきゃいけません。卓球をやっていた人がテニスやると、どうしても手首を使っちゃいますが、それはやめなきゃいけない。こうしたことが至る所にあります。したがって、「脱秩序化/再秩序化」は重要ですけれど、しかしこれだけで舞踊の身体を規定するのは難しいんじゃないかということです。
逆に、では舞踊の特殊事情というのは何でしょう。
ここで参考になるのは、さっきお話ししたメルロ=ポンティによる日常身体の現象学的分析です。彼によれば、日常身体はその都度の状況に自然に反応するのでした。逆に反応すべき状況がなければ体は動きません。これについては鷲田清一という有名な哲学者が興味深い事例を報告しています。鷲田さんの研究会で一度、ダンサーを呼んできてワークショップをやったそうです。そのダンサーは、人が自由に体を動かせば、すなわちそれはダンスになる、という考えの持ち主だったらしく、哲学研究者たちにも「好きなように動いてください」と言った。ところが、「好きなように動け」と言われても、人間というのは動けないんですね。苦し紛れにひとびとが何を始めたかというと、一人はラジオ体操第一を始めたそうです。状況がないところで、好き勝手に体を動かすということは非常に難しい。ところが実は舞踊というのはまさに状況がないところではじまります。日常身体は状況に反応して初めて動き出しますが、舞踊は日常的文脈がないところで行われるからです。状況がないところで体を動かさなきゃいけない。状況の代わりに動きを決めるものが何かというと、それが「振付」です。
しかし実はここで困難があります。つまり、バレエとか日本舞踊の振付、特にバレエの場合、振付というのは全部「パ」の名前で行われます。つまりさっきの「グラン・ジュテ・アン・トゥルナン」とか「アントル・シャ・シス」みたいな型です。従って、振付と技法は切り離せません。逆に、技法を身につけなければ、バレエは踊れません。そうすると、振付のことを考えるためには、まずそれぞれの舞踊における身体はどうなっているのかを見なければいけない。じゃあバレエの場合はどうなっているか。ここで再び「脱秩序化/再秩序化」というキーワードが役に立つわけです。バレエにおいて「脱秩序化」はどのようにして行われているか、「再秩序化」はどのように行われているのでしょうか。

4.
バレエ身体の統合性

日常的身体における身体各部には連動性があります。歩くときには、右手と左足、左手と右足を交互に出し、それにあわせて腰を支点に体をひねり、傾きそうになったときには、脚を出したり、背中をそらしたりしてバランスをとるといった連動性です。ところが、バレエにおいては、そういった連動性を分断する、いわゆる「アイソレーション」がおこなわれます。連動性を分断し、日常身体を脱秩序化する。次に、再秩序化しますが、それは動きの中心や起点を多数化しながら物理法則を最大限に利用できるようにするという形になります。具体的に申しましょう。
まず、物理法則からみてみます。日常生活においても、もちろん物理法則は活用されます。垂直飛びをするときには、足だけじゃなくて腕を下から上へと振り上げたりする。家事をするときでも、できるだけ背中を伸ばして重心を上げるようにするとそれだけ動きが軽くなる、みたいなことです。ところがバレエの場合には物理法則がより徹底的に活用されます。さっきお話しした回転の場合、体全体をストローの中に入れるというようなことが言われる。さっき言ったように、できるだけ動いている体を細くするわけですね。それによって回転ができやすくするようになる。ちょっと難しい言い方をすると、体の外周をできるだけ小さくして、その回転運動を妨げる慣性モーメントを最小化して少ないトルクでもって回転できるようにする。つまり、抵抗を少なくして、軸運動の力をできるだけ最小で動くようにするということですが、同じようなことがバレエの場合にはいたるところで使われています。
例えば、重心を高くするために、背中を伸ばすだけではなく、筋肉で内臓を動かすと言います。胸郭を引き上げるとよく言いますが、内臓をできるだけ上に持ち上げて、上の方に重心を持っていく。それによってバレエでは、足腰で上体を支えるのではなく、胸郭によって足や腰を吊り下げると言われます。「腰で立つ」というやり方です。この感覚は、実はわりと日常的に再現可能です。「正しい歩き方」というのがあって、まず踵から接地して、着地点の前に移動しながら、最後、つま先で蹴る。そのとき、ふくらはぎをきゅっと絞るとすごい勢いで前に進めます。これをやると、腰ではなく、まるで、胸から下で歩いている感じになります。胸から足が生えている、火星人的な感覚になる。そのもっとすごいことをバレエの人はやっているわけです。
そのようにして「腰で立つ」、あるいは、普通だったら肩から動く腕を、肩甲骨から動かす。骨盤に対する大腿骨の角度を、通常とは九十度横になるようにして、足が左右に開くようにする。そういうことを色々やって、結局、普通だったら一か所か二か所しかない動きの起点を、例えば股関節や胸椎、肋骨、仙骨、インナーマッスルなど多中心化するということです。それによって、体の各部位がばらばらに動く独立性が生まれ、様々な部位が動きの軸や起点、支点になる。しかも、全体の形はダンサーがコントロールし、体全体の共同性を追求して、きれいな形をつくる。だから、結果的にはバレエの身体とは、動きの原動力や起動因というものを多数化しながらも、「ダンサー自身=わたしが動く」という形で、ダンサーが一人称で制御します。
しかもバレエダンサーは、多様な「パ」、動きの型を習得しています。その結果、バレエダンサーは、動きの原動力を、その都度の状況ではなく、自分が習得した技法に持っています。つまり、「アラベスクをやってください」「アントル・シャ・シスをやってみろ」と言われれば、何の必要もなくてもアラベスクやアントル・シャ・シスができるということです。このように、通常の日常的な身体なら、外部にあるその都度の状況に応じて動くけれども、そのような状況をバレエダンサーは必要としないわけです。
また、通常であれば身体は勝手に動いています。歩くとき、勿論「私が」歩いているけれども、しかし歩行は自動的に行われている。「非人称的」に歩行しています。けれどもバレエダンサーの場合は、バレエダンサー自身がすべてをコントロールしている。つまり、日常的身体は、状況に埋没した非人称的な身体だが、それに対してバレエの身体は状況から独立し、自分の中に原理を持った一人称的身体だという点に違いがあります。日常身体とバレエ身体は、身体の個々の動き方や筋肉の付き方、見た目の美しさなどが違うのではなくて、身体が動く原理、身体をまとめあげる、あるいは統合するメタレベルでの構造が違うということです。同じようなことは、モダンダンスやファンク、トリシャ・ブラウンなどのポストモダンダンス、また、コンタクトインプロヴィゼーションなど、どんな場合でも言えますが、ここでは省略することにいたします。

5.
舞踏身体における解体の連続

舞踏の場合です。舞踏においても、先ほどの「脱秩序化/再秩序化」が行われます。
「脱秩序化」に関しては、三上賀代さんや小林嵯峨さんが書いておられます。たとえば、入門者はまず「鶏になれ」と言われる。元々持っていた戸籍や名前、自由、権利など全てを失い言葉すらも話してはいけないという、自己放棄が要求されます。さらに歩行法も独特です。「ガラスの目玉」をつけて「蜘蛛の糸で関節が吊られている」歩行法、「立ちながら吊られている」歩行法などがある。そのうちの「寸法の歩行」に関しては、「天界と地界の間を歩くのではなくて移行する」、また、「ガラスの目玉。額に一つ目をつける」。視線を消すわけです。あるいは、「見る速度より移る速度の方が迅い」。歩行そのものについて、「足裏にカミソリの刃」「蜘蛛の糸で関節が吊られている」とか、「歩きたいという願いが先行して、かたちが後から追いすがる」みたいなことがいわれます。これは明らかに、日常的な身体、もしくは自我のあり方、あるいは先ほど言ったメルロ=ポンティの「身体は状況の中にあってそれに反応している」というその構造そのものを破壊している。つまり、「ガラスの目玉」は、これは通常の一人称的な意思を否定している。さっき、歩行は自動的に行われると言いましたけれども、どこに行くかを決めるのは自分なので、そういう意味では一人称ですが、そうした意味での意思が否定されます。「かみそりの刃」というのは、日常的に自動化され、習慣化された歩行の自発性を排除している。非人称的な身体のあり方さえも否定されるわけです。その結果、日常の身体とは縁遠いもの、つまり、「命がけで突っ立った死体」、といったものに変貌するきっかけがえられるわけです。
舞踏においては、まず、日常自我や日常身体が否定され、しかも、日常身体の非人称性も一人称性も否定される。日常的な歩行においては非人称的な身体が状況に応じて動き、バレエの身体は、一人称的なダンサーが多中心的身体を、状況とは無関係に制御しているわけですが、舞踏の身体はそのどちらもない。
ダンサーによる制御がないことがよくわかるのが、三上さんの本にある「牛になる」というレッスンです。ここでは非常に多くの指示がなされます。一つの形をつくるために、「重さがはこばれる/脚の蹄/手のひづめ……背中のSの字/腰の羽根/左脇のボボボー/頭にダリア——頭が下がる/背中にこびとが走る/左脚のバッタ」などの指示が与えられる。それに対してダンサーはなにをしなければならないか。「背中に小人が走る」という指示の場合、ダンサーは、背中を走っている小さな人を視覚的に想像するのではありません。そうではなく、自分では見えない自分の背骨の上を移動している小さな人の足裏が背中に触るその感覚、つまり、お母さんが胎内の自分の胎児に足で蹴られてそれを子宮で感覚するように、自分の背中にその小人が走っているその足裏の軽さであるとか、躍動感であるとか、背中を押す感じとか、そういうものを触覚的に想像する。すると身体が自動的に反応します。このメカニズムも追体験はある程度可能です。たとえば、今ここにいらっしゃるみなさんであっても、今背中にムカデがいると想像していただくと、何か背中がぴくっとする。いずれにしても、身体の各部位の自然な反応ですね。これは、メルロ=ポンティ的な意味における状況に対する身体の反応とよく似てはいますが、メルロ=ポンティにおける反応が、一個の体、全体の統合における反応であるのに対して、土方の場合は、背中や首など、身体各部位が勝手にそれぞれ反応している。そこに統合性はありません。三上さんによると、この訓練によって身体自体が解体され、やがて、解体が自動化される。
ここでバレエと舞踏とで身体がどう違うか、浮き上がってきます。バレエの身体は、まず、日常的身体における自発性と統合を否定する。「脱秩序化」ですね。次に、インナーマッスルや肩甲骨など、動くポイントや軸、支点を多中心化し、物理法則をも活用しながら、結果、体内に起動因を持つ一人称的な制御メカニズムができあがる。それに対して舞踏においては、まず、非人称的な統合が否定される脱秩序化がおこります。次いで、身体各部位に微分化された状況に対応しながら、非人称的統合の解体が自動化される、そのような二重の意味での裏切りが、しかもメタレベルでおこなわれます。つまり、例えば歩き方が、日常とバレエ、また、舞踏とで違いますが、そうした見た目の違いではなく、身体全体がどのように統合されるのか、されないのか、あるいは一人称的なのか非人称的なのか、あるいは人称的なのかアンチ・人称的なのか、そうしたメタレベルの構造が舞踏とバレエでは違うということです。

6.
おわりに

これまでの話をまとめます。
舞踊の身体は、日常の身体が「脱秩序化/再秩序化」されたものと言われておりました。しかし、それでは、スポーツや職人仕事の身体と差別化できません。「脱秩序化/再秩序化」は、舞踊身体が成立するためのいわば必要条件にすぎず、十分条件ではない。それ以外に、もうひとつの要件を考えなければいけない、という話でした。それが、つまり状況の欠如という構造です。通常の身体であれば一定の状況に対して身体が自発的に反応していきます。ところが一般に舞踊において状況は欠如しています。つまり日常的な文脈からすれば無用の動きで、そのために振付や技法が必要になる。
ただし。そのあり方がバレエと舞踏では違いました。バレエにおいては通常身体においての各部位の連動性が遮断され、身体各部位の独立性が確保され、アイソレーションが起こります。それから、肩甲骨だとか仙骨など、通常は用いられない関節、インナーマッスルによってによって可動域が拡大する。その結果一人称的に制御され、技法のうちに起動因を持つ動きが状況とは無関係に紡ぎ出されるわけです。舞踏の場合、人称的・非人称的統合そのものが否定される。
逆に、日常的身体も、舞踊と同じく「脱秩序化/再秩序化」が要求される職人、スポーツの場合でも、最終的には身体が非人称化されます。ここがいちばんのポイントです。つまり、職人やスポーツ選手の場合も「脱秩序化/再秩序化」は行われるけれども、しかし、職人やスポーツの場合、それは再び非人称化される。野球選手にしても職人さんにしても、一旦技を身につけてしまえば、それはその都度必要に応じて自然に繰り出される。野球の選手が一々来た球を見て色々考えながら打ったりしない。サッカーの選手は、状況に応じて、いわば自動的に反応しているわけで、その場で考えたりしない。技を非人称化するのが練習です。
それに対して、バレエや舞踏は違います。舞踊の場合、それ以外の身体における非人称自発性における統合そのものを逸脱している。それは日常的身体ばかりではなく、職人やスポーツの選手における、再秩序化された非人称的自発性も逸脱している。非人称的一人称的な制御、統合ということが否定され分断されながら解体される身体である。一方、バレエの場合には、多中心的な身体を一人称的に統合する。そして、いわば、状況を内側から生み出す身体になっている。
日常的身体、それから舞踊以外の「脱秩序化/再秩序化」された身体と舞踊の身体はどこが違うかというと、非人称的自発性を否定しているところです。ただし、否定の仕方が色々あって、バレエの場合には一人称的に制御統合される。ところが舞踏の場合、非人称的制御を否定するだけじゃなくて、統合という最も基本的な基盤さえも否定してしまう。その意味で、舞踏とは、バレエや日本舞踊、それ以外の舞踊よりも更に徹底的に日常から逸脱した技法と言える。こうしたことが、現象学的な身体分析によって明らかになったわけです。もし舞踏の身体に、何か極めて得体のしれない「闇」が感じられる、たとえば、室伏さんの舞台に、ある種、日常、あるは他の舞踊ではありえない何かしらの力、あるいは、名づけようがないものを感じるとすれば、それはまさにこうした日常的あるいは他の舞踊における一般的な身体の統合構造を根本的に逸脱している、あるいは破壊しているという点に、その理由の一端があるのかなとも思われます。

ご静聴ありがとうございました。

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Profile

貫成人

神奈川県生まれ。東京大学文学部哲学科卒。85年同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。1988年埼玉大学教養学部専任講師、90年助教授を経て、2000年より専修大学文学部教授。1986-7年,1996-7年在ヴッパタール大学。2005年「経験の構造 フッサール現象学の速度性モデル」で東北大学より博士(文学)。舞踊学会常務理事、日本現象学会編集委員。
現象学、舞踊美学、歴史理論/身体論、歴史と世界システムの理論を研究対象としている。コンテンポラリー・ダンスを中心に、舞踏批評も行う。

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