鈴木創士
土方巽の最も忠実な弟子でありながら、それぞれが唯一無二のものであった二人の言葉がおのおの別の世界にあったように、室伏鴻のダンスは師のそれと似たところがなかった。
しかし室伏が遺した膨大な手記の文章(『室伏鴻集成』、河出書房新社)は、師であった土方巽のそれとはまた違った意味できわめて独創的なものであり、舞踏史の遥か向こうで、それが彼のダンスと不可分であったことをわれわれに強く印象づけた。
端正とも言える彼の文章は、産みの苦しみをともないながら、暴力を孕みながら、どのようにして身体の限界を思考し、凝視し続けることができたのか。絶えず移動し続けた彼の身体の時間は、どのようにして言葉の肉となることができたのか。彼の手記はその問いの問いを、その問いの答えの、そのまた問いを、舞踏家として苛烈にわれわれに示しているように思われた。
言葉は、声となって、肉体の縁を通り過ぎ、外へと出て行くが、その当の言葉はウィルスのように外からやって来た。言葉が生命であり非生命でもあるのはその意味においてである。だから声から身体が出てくるのであって、その逆ではないのである。
身体も、とりわけそれが踊り語るときには、同じような様態にある。われわれは室伏のダンスにおいてそれを目撃した。矛盾のなかにあるこの肉体は言葉を徹底的に拒絶し、同時にそれを食べてしまう。肉体が、肉が、言葉となるのはその瞬間だけである。
だがそれを言い、それを語ったのは誰か。室伏のあのからだである。それはキリストのように「栄光の身体」を彷彿させるのだろうか。しかし彼の言葉は、いかに肉体をともなおうと、いかなる聖典も形づくることはないだろう。しかも身体は一瞬ごとに形を変え、意味を剥奪され、あまつさえ消滅してしまうだろう。ダンスに肉体の歴史はなく、肉体の勝利はなく、すべては消えるのである。
「ダンスとは肉体の外に出ることだ」、室伏はそう言っていた。書くこともまた肉体を通過し、肉体の外に出ることである。外にあった室伏鴻のダンスの身体は、きわめて稀なことに、その凶暴で美しい言葉を目に見えるように書き記したのである。
1954年、神戸生まれ。フランス文学者、作家、評論家、翻訳家、音楽家。甲陽学院高等学校卒業後、フランスに留学。帰国後ニューウェーブバンドEP4のオリジナルキーボード奏者として活動。著書に『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社、のち現代思潮新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』(現代思潮新社)、『ひとりっきりの戦争機械』(青土社)、『サブ・ローザ 書物不良談義』(現代思潮新社)、翻訳に、エドモン・ジャベス『歓待の書』(現代思潮新社)アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』(宇野邦一共訳)(河出文庫)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』(河出文庫)、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』(河出文庫)ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(松本潤一郎共訳、現代思潮新社)等がある。