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シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

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亀裂した身体から野生の花へ

クリスティーン・グライナー

室伏鴻の日記の中に、1998年に書かれた土方巽についての短い文章を見つけました。「亀裂した身体」……「もはやなにものでもないものという概念へとひらかれた踊る身体」について書かれているものです。

ここ数年、私はこの「亀裂した身体」について、非‐同一性への扉を開く可能性について考えてきました。それは何を意味するのか。

1983年、室伏は自身の舞踏体験について「偶然の出来事」という言葉を用いて語っています。もしかしたら、ある意味では、これらの「偶然の出来事」は、「亀裂した身体」と関係しているのかもしれません。というのも、私はたえず舞踏を、風変わりな美学的モデルやダンス言語のシステムとしてよりむしろ、与えられたパターンを壊し、アイデンティティを問いなおし、裂け目を掘り下げるための一種の器具(あるいは装置)として考えてきたからです。それは勿論ダンス経験であると同時に、身体と心と環境、生と死の状態、異なる意識レベルのつながりについてのラディカルな探求であり、(動きと思考の双方にかかわる)信念と習慣を問う挑戦でもありうるのです。

人間の姿(と人間の有機体)の解体に触発された作家への室伏の共感は、まさに理にかなっているように思えます。私は、バタイユにおけるアセファルと不定形の概念、ロートレアモンにおける同一性原理の否定、アルトーにおける身体(反有機的な身体)の多数多様性とその様々な領土性に──特に宇野邦一の分析によりつつ──思いを馳せます。……そして勿論他の多くの人のことにも。
ブラジルでは、特に政治的な危機が尖鋭化する時代の中で、次のような議論になおも力を感じ取っている若いアーティストたちがいます。つまり自分たちの声を肯定することも大事だが、与えられたアイデンティティに囚われない運動を活性化させるために、自己から離れて動くことも必要だというのです。

また最近私は、植物の生についてエマヌエーレ・コッチャが書いた数冊の本にとても興味を持つようになりました。彼の力強い文章を読むたびに、室伏や土方のこと、そして彼らが生命の他の形態へと開かれていることを(改めて)考えるのです。

この意味で、「亀裂した身体」は、花のように不安定な空間を構築する細胞のブリコラージュの一時的な組織化でもあります。それは世界を内側に閉じ込めたり管理したりする役割を果たすのではなく、接続面と「アジャンスマン」をもたらすのです。

花は、有機体としての花を外界に向けてデザインしているわけではありません。ただ着地する空間を構築しているだけなのです。能の美しい「花」とは違って、舞踏の花は、道具も器官も無く、その(性的および進化的)運命を他者たちの生命に委ねる、野生の花なのかもしれません。コッチャがいうように。

クリスティーン・グライナー

サンパウロ・カトリック大学で博士課程終了後、近畿大学、国際日本文化研究センター(日文研)、立教大学、東京大学、ニューヨーク大学などの招聘を受けて研究を行う。2010年よりCNPqのシニア研究員。現在はサンパウロ・カトリック大学身体言語科教授として、同大学東洋研究センターやボディー・リーディングシリーズなど多くのプロジェクトや研究機関のディレクターを務める。