transit

シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

01

収容所の愉楽

鴻英良

私は、あるとき、室伏鴻の「真夜中のニジンスキー」というプロジェクトがある空洞の中への生成の試みなのではないかと直感し、これがあらゆるときに必要とされる、いや、20世紀の人間の活動の中心的特質であったレジスタンスの新らたな模索がなされる場所になるのではないかと思いはじめた。
何に抵抗するのか。20世紀には、多くのレジスタンスの試みがあった。うずくまる身体、それは抵抗の姿勢だった。挫折。20世紀は、同時に無数の挫折を積み重ねた悲劇の時代でもあった。だが挫折は同時に革命の、敗北した革命の実践とともにあった。多くの戦争もあり、多くの人々が殺された。「革命と戦争の時代」。20世紀を多くの人々がそう呼んだ。だが、20世紀が終わり21世紀に入ったとき、そして21世紀も最初の20年を終えようとしつつあるころ、私は、21世紀は「革命なき戦争の時代」と後世呼ばれるようになるだろうと思いはじめた。その時代を特徴づける言葉、それは「収容所の愉楽」である。19世紀にヨーロッパ各地で監獄が誕生した。そして20世紀に収容所が出現した。「近代的なもののノモス(生政治的範例)としての収容所(The camp as the ‘Nomos’ of the Modern)」というテキストがジョルジョ・アガンベンの著書『ホモ・サケル』の中に載っている。監獄から収容所へ、この事態の悪化の只中で、人間はそれに抵抗してきた。その姿をどう表象するのか。たとえばベケットの『ゴドー』、これこそまさに抵抗の、人間の抵抗の持続的姿ではないのか。ウラジーミルやエストラゴンのように身体を痙攣させること、それが室伏鴻の舞踏だった。監獄も収容所も、それは破壊すべきシステムである。中にいるものは脱出をはかり、その崩壊を願い、その破壊に向けてレジスタンスを開始する。それが古代ギリシヤ以来、人類が続けてきたことであり、そのことを演劇が、舞踏が、ひとつのモデルの形成努力として実践してきた。つまり、収容所の愉楽を拒絶することの現実的実践。ベケットの『ゴドーを待ちながら』も、室伏鴻の『〈外〉の千夜一夜』も、そして我々が、室伏鴻の未完のプロジェクト「真夜中のニジンスキー」を室伏鴻の死後、「真夜中のニジンスキーへ」と名づけてその実践を先へと指し向けようとしているのも、この、革命なき戦争の時代にヴィジョンを構想しようとする試みなのだ。世界の新らたなヴィジョンを構想することを放棄し、忘却と断念を享受しつつ収容所の愉楽の中にぬるま浴のようにつかっている21世紀の人々を拒否し、糾弾するためなのだ。
室伏鴻は真夜中に痙攣した。われわれも真夜中のニジンスキーに向けて疾走し収容所の愉楽を粉砕しなければならない。

抵抗しなければならない。しかし私は知っている。
抵抗は成就しない。敗北する、いつでも。だから絶対的に〈痙攣〉なのだ。

収容所の〈外〉へ、マラルメの〈真夜中〉へ、ニジンスキーの〈牧神〉とともに私は思考する。
21世紀を転覆するために。

鴻英良

1948年静岡生まれ。演劇研究。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士過程修了。ウォーカー・アート・センター・グローバル委員(ミネアポリス)、国際演劇祭ラオコン(カンプナーゲル、ハンブルク)芸術監督、京都造形芸術大学舞台芸術センター副所長などを歴任。著書に『二十一世紀劇場:歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社)、共著に『反響マシーン──リチャード・フォアマンの世界』(勁草書房)など。訳書に、タデウシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社)など。「鴻英良による挑発と洗脳のための猿の演劇論」を展開中。