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シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

09

ニジンスキーの残影と
苛烈な無為

越智雄磨

「私」という概念が崩壊しつつあると気づいた時、寺山修司は土方巽とカントールが、人間の肉体を「血の詰まったただの袋」としか捉えていないことに気がついた。
同じ頃、ミシェル・フーコーは近代的な人間の終焉を告知し、人類は初めてアポロ8号から撮影された宇宙空間に浮かぶ地球の画像を見た。人間中心主義は終わった、というのが言い過ぎとしたら、それが疑いの目で見られ始めた時代である。
それはまた、室伏鴻が土方巽の『肉体の叛乱』に気づいた時代でもあり、その舞台に吊られた中西夏之による宙吊りの真鍮板が無機的なものに特有のセクシーさを放っていたことにも気づいていたに違いない。

「死」の捉え方はどうか。「死体」として死を外在化するイヨネスコとデュラスの演劇は、俳優の身体そのものが「死」を内包していることを完全に見落としてしまっている、と寺山には映った。舞踏はどのように見えただろうか? 寺山には、それは死が身体に内在していることを自覚した身体と見えていた。
「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ」
舞踏において絶えず参照されるニジンスキーは、『牧神の午後』(1912)の最後に性的な忘我の痙攣をみせたとき、既に「小さな死(le petit mort)」を迎えていたのではなかったか。
近代的な人間像が引き抜かれた後に残った容器としての身体。資本主義が生み出した「個人」という幻想の内部が引き抜かれた後の空洞化した身体、その容器としての身体を徹底的に鍛えた舞踏家は、その空洞の中に死を一つ、二つと放り込む。

「個人」という幻想が引き抜かれた空洞化した身体は、ときに「狂気」という形をとって具現化する。狂気によって「私」を消したニジンスキーは、自身のことを「神」と思うこともあれば、「牛」だと思うこともあった。「黒人」や「日本人」にもなった。狂気の晩年、舞台上で20分間何もせず観客を見つめていた時、ニジンスキーは何になっていたのだろうか。何かになっていたとも考えられるし、何にもなっていなかったかもしれない。容器としての身体がそこに投げ出されていた。

血の詰まった袋、近代的な人間の終焉、「私」が抜けた後の空洞に死を浮かべた身体は、「中身のない人間」でもある。自身のアイデンティティを否定し、何か捉え所が現れそうになるとまたそれを否定し、否定し尽くす人間−芸術家のことをアガンベンはムジールの「特性のない男」になぞらえて、「中身のない人間」と呼んだ。自己のアイデンティティを否定しその外へ、アイデンティティが固まり始めたらまた外へと、無間の「踏み外し(faux pas)」を繰り返す室伏が到達したのは、そのような拒絶と否定性を原動力とした人間像だったのかもしれない。「内容」の表現を拒絶するダンス。いかなる同一性によっても尽くされることのない純粋な潜勢力を持った「誰か」として存在すること。室伏は舞台の去り際、突如「Il y a quelqu'un(誰かがいる)」と呟いたこともあった。自身のことを呟いたのかもしれないし、「誰かいるのか?」という問いだったのかもしれない。

ロージ・ブライドッティは、西欧近代が確立してきた常態性、規範性としての人間性(ヒューマニティ)の後に到来する人間のモデルをポスト・ヒューマンと措定した。室伏が、規範的な身体の否定と拒絶の連続の末に出現させる反-身体(antibody)、同定できない存在として舞台に出現させている「誰か」は、一種のポスト・ヒューマンだと言えるのかもしれない。「Battle without honor or humanity(名誉と人間性なき戦い)」を主題曲とした室伏の『墓場で踊られる熱狂的ダンス』が思い出される。『新・仁義なき戦い』と『キルビル』の主題曲に合わせて痙攣する身体もまたポスト・ヒューマンの変種であり、ジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」と共に現れる『DEAD 1』の銀塗りの逆立ちの死体もまたそうである。

「真夜中のニジンスキー」について想像してみる。
「私」を尽くした後の空の身体に、室伏が呼び込もうとするのが「死」と「狂気」を携えたニジンスキーの残影(survivance)なのだろう。室伏が身体を痙攣させる時、ニジンスキーの影もまた痙攣する。あるいは、土方巽が自身の肉体の中に姉を住まわせたように、室伏鴻はニジンスキーを住まわせていたと言えるのかもしれない。この意図的なアナクロニスムによる重層的な身体は、1912年の痙攣と2020年の痙攣を接続し、現行の秩序、属性、目的性、同一性から離別した人間の本質的無為を露わにすることだろう。
ある苛烈さと共に。

越智雄磨

ダンス研究。愛媛大学講師。専門はフランスを中心としたコンテンポラリーダンスに関する歴史、美学、文化政策。編著に『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』(2015)、論文に「ノン・ダンスにおける生存の美学 : フランスのコンテンポラリーダンスにおけるパフォーマンス的転回について」(2016)など。