シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6
室伏鴻
切り詰めること。貧素の極限まで追い詰めるようにして踊ってきた。
外の線を引き込み、旅と放浪と亡命の線を身体上に極限して、踊ってきた。
息で別の息に交接し、複数の息と複数を暴力的に引き出す。窒息させる。
みずから窒息する、踊らない白い沈黙であること。
(私の息のなかにはつねに他の息がある。私の思考のなかにはつねに他の思考があり、私のもっているもののなかにはつねに他の所有がある。重要なのは、すべては複数であり、私は他者であり、何か別のものが、思考という攻撃、身体の多数化、言語の暴力において、われわれのなかで思考しているということ。ここに楽しい知らせがある。)
夜の外の夜の声、叫びと沈黙。すっ裸で、声と息の「裸形性」にさらされること。
むき出しにされた裸体にはなにがある。汚染された裸体には、死と愛の、病と屈辱があるだろう。
痛んだ骨と筋肉のあいだの軋み、こ擦れあい。
皮膚の表層のギザギザになにが棲んでいるの?記憶の途絶した血と海の多数多様体?
隠れながら露わになる、露わになることで隠れてゆく流動する水銀の不定形。
匿名の、名を奪われたものたちの形。
いつ跳ぶの?いつ走るの?
私の裂け目を愛撫するように、亀裂とひびは、いつ電撃のように走るの?
その潜勢する力を外部へと告発し、見えるものとするために、私は、私の攻撃する思考で耐えていかなければならない。じっと待機しなければならない。
誰かが静かにやってきて、私のリミットに触れ、引きずりだし、晒しものにするまで。
誰が鳥や獣の泣き声へ(私を、もはや私でないものを)追い込むの。そして、なぜ見物たちは、そこに必要なの。
錯乱と孤独が、私のなかの分裂となにか得体の知れない力が、むき出され、どうしたものかと困惑し、統制を欠いて、そこで怯え、緊張し、痙攣し、防御する力と攻撃する力のせめぎ合いの、偶発する力の場へとひきすえる。
見物たちもまた、そこへ到来する。彼らの息づかいを背中で感じ、閉じた視線で私は交流させる、別の息、私の他者を交流させる、私も見物だ。
非対称の、非人称の、場所なき場所での相互に「到来すること」が全てなのだ。この息と無数の息の交流が全てなのだ。それから外れてしまったら、すべてが台無しになる。
しかし、私は外れるだろう。私は外らす、外らしつづける。外れなければならないのだ。
ここが重要だ。
なぜなら、「交流の絶頂」というようなもの、それは非対称なものなのだ。
それは、一致のなかではなく、相互に外れあうことのなかにある。だから すべてから私ははずれていなければならないのだ。外の力とはなんなのか。
亀裂が亀裂の中へと解消されるのではなく、無数の息がひとつの息の中に同一化するのではない。
亀裂が亀裂にむかってあらたな亀裂を走らせる。息づかいの交ざり合いは、一瞬の息の消失点で他の息を産むのだ。私たちは出来事へとひきだされる闘争の場にある。はじめての反復、「こんなのはじめて」のその反復となるのだ。
もはや踊りではない。踊りであることの同一性が目指されていたのではない。亀裂した身体によって踊る身体に亀裂を入れ、もはやなにものでもないもののほうへとひらくこと。
未知の相互に交流し合う遭遇の、場所なき場所、初めての、一回性の、エフェメラルな、出来事として到来し、体験と交流の頂点を一瞬指し示しながら、消えてゆく、なにものでもないものの強度とその反復。