シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6
鴻英良
この夏開かれるシンポジウムで発表してみたいと思っているものの準備に取り掛かったので、今日はそのへんの話をしようかと思っています。
うまくいけば「ドストエフスキーの真夜中から、真夜中のニジンスキーへ」というタイトルで、このプロジェクトと関わっていこうかなと思っています。
スティーブン・バーバーはネットに上げられたトランジットのテキストの中で、室伏鴻が日記の断片の中でドストエフスキーの『罪と罰』に触れているが、おそらくアルトーが1947年に書いた最後の作品『神の裁きと決別するため』の文章のことも同時に考えていたのではないだろうかと書いています。
英語テキストではドストエフスキーのJudgement and Punishmentと言う具合にJudgementと言う言葉を使っています。裁き、ですね。しかし、室伏さんのそもそものテキストは、「〈審判〉Process「罪と罰」」です。それが英語テキストでは、Judgment, Crime and Punishmentとだけ訳されていて、Processが抜けている。processというのは裁判の審理のことですので、バーバーさんのいうJudgment and Punishmentを、日本語で『罪と罰』と訳しているとすると、これは誤翻訳じゃないかと思うんです。なぜなら、judgement and punishmentが『罪と罰』の訳だとすると、『罪と罰』のタイトルとしては間違っているからです。とすると、これは結構重要な間違いで、色々なことを考えさせてくれている間違いでもあります。ちなみに、crime and punishment というのが『罪と罰』の普通の英訳です。ロシア語だと、Преступление и наказание。罪を犯すというのが、Преступление。それに対して、наказаниеというのは、罰が下されることです。Преступлениеは何かよくないとされること、そこへ踏み出す、つまり正しい道から悪の道に踏み出すという意味です。ですからラスコーリニコフが老婆を殺すということが、Преступлениеになるのかどうかということも含めてタイトルは選択されていて、それに対して裁くというのがpunishmentに対する振る舞いになるということです。ですから、一般的にПреступление и наказаниеを日本語で『罪と罰』と訳すのは、ありふれているかもしれませんが、定訳として正しいわけです。
ドストエフスキーの『罪と罰』自体への言及は非常に意味があるし、室伏鴻が日記の断片の中で『罪と罰』について触れているということも、どういう意味なのか考える必要があります。バーバーはDostoevsky’s judgments and punishmentsと言っている。コウ・ムロブシは自分の日記の中で、Dostoevskyのjudgementsとpunishmentsについて考えているというふうに言っている。
ドストエフスキーのjudgmentsというと、私たちは直ちに『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の物語を思い浮かべ、大審問官における裁きをめぐる議論という問題になってくる。またpunishmentといえばすぐに『罪と罰』の罰になる。この二つの言葉が出てくることによって、ドストエフスキーの体系、世界像の、かなりの、全体的な部分が関わってくる、つまり、『罪と罰』は好きだけど、『カラマーゾフの兄弟』は嫌いだ、もしくは僕はどちらかというと『白痴』がいい、いや『悪霊』でしょう、全部いいじゃないか、お前は大袈裟なことを言うなとか、そんなことを20代のドストエフスキーファンは議論する。
そしてこのjudgement、審判、裁き、そういう問題全体を室伏鴻が考えているということに、非常に意味があるとバーバーは考えたわけです。
室伏は、裁きを退けることで、異質な知がそれ自体を明らかにし、その逸脱と密やかな策略において身体と親密になると書いている。裁きを退ける異質な知というものがある。この裁きを退ける異質な知がイワン・カラマーゾフの思考とつながっているわけです。
この、裁きを退ける異質な知というものの意味。そういうものが逸脱や密やかな策略と関係してきて、そして身体とつながりを持つという言い方をしながら、バーバーが、ドストエフスキーの裁きと『罪と罰』に言及しつつ、ドストエフスキー的な世界の何かと関連づけながら室伏鴻について考えているということは明らかなのではないかと思っています。
一般的な知に対して、反転した知で、普通の知的な理性というものに対する完全に敵対的な、近代合理主義を超越するような形、転倒した形で自立してくる知の形式というのが、ドストエフスキーのイワンが主張しようとしていることであると一般的には言われているので、おかしなことを言っているわけではないのですが、ただその実態が何かということに関しては、わからなくなるということなのです。
室伏鴻集成の187ページに、前後との関係がよくわかりにくい状況で、「法とは何か、掟とは何か」と書いてあって、その後に「審判、process、罪と罰」と2行だけ出て来ます。その後がどう続いているのかよくはわからないのですが、ただ、いずれにしても、室伏鴻がドストエフスキーの思考に興味があると言っているということなのです。
ここから、イワン・カラマーゾフ的な思考とかラスコーリニコフ的な思考と、室伏鴻のダンス、舞踏というものがどういうふうに関連しているのかということを考えていくための、具体的な手がかりがどれだけあるのかは分かりませんが、ただ無関係ではないということだけは確かです。
そういうわけで、今日の話は証拠なし、論証なしで、6月までに証拠を集めて「ドストエフスキーの真夜中から真夜中のニジンスキーへ」という発表をするということで、今日は、ドストエフスキーが「真夜中のニジンスキー」とどうつながるのかということを明らかにしようと思っています。
ちょっと驚いたのは、こういうことを考えるプロセスの中で、室伏鴻がニジンスキー、ドストエフスキーなど色々なものに関心を示しているということ。こういった問題が室伏鴻の中でどう繋がるのかということを調べていかなければならないと思っています。
ニジンスキーの「真夜中」について考えるとき、室伏鴻が頻繁に言及しているのがニーチェです。「真夜中」はニーチェの用語だという言い方もしていて、又、ニーチェの超人の思想などに対する関心なども室伏鴻の中にかなりあった。そして、2014年、丁度「真夜中のニジンスキー」という作品を構想し始めた頃の日記に、盛んに「真夜中」っていう言葉が出てきます。
「私は考えない、思考せず、マラルメの、いや、ニジンスキーの牧神を踊る。真似るのではなく。ただ「真夜中」についてだけは、考えたすだろう。」
この文章は結構重要だと思います。マラルメの思考とか、ニジンスキーの牧神に、「真夜中」をプラスする、考え足す。つまり、自分は、ニジンスキーの牧神の中に「真夜中」を足す。マラルメのイジチュールの中にある「真夜中」を足す。そしてそれはニーチェの「真夜中」でもある、というふうに言っています。つまり、「真夜中のニジンスキー」について考える場合、マラルメのイジチュールとニーチェを参照しつつ、室伏鴻が作ろうとしていた何かを探っていくという作業をしなくてはならなくなるだろうということが、このノートから読み取れる訳です。
「一つの古い重い、音の低い鐘がある。鐘があるわけです。その低い唸りは夜毎、あなたの洞窟まで上がってくる。この鐘が真夜中に時を打つのを聞くとあなたは一から十二までの間にあのことを思うのだ。」これは、ニーチェからの引用ですが、このニーチェの引用がだんだん変容していって、「死者の死・人間の没落・炎に包まれたモノリス、そして舞踏、病者の光学、リング・デア・リング(輪の中の輪)」と、この辺から室伏鴻が付け加えています。終わりの三行の「炎に包まれたモノリス、舞踏、病者の光学、それからリング・デア・リング」、あのこととはこの三行のことをいっているのです。これはニーチェの中には出てきません。
あのことを思う、何を思うか。俺ならこう思うよっていう加筆ですね。何を付け加えるかが結構重要な訳です。
しかし没落は勿論、病者の光学、輪の中の輪はツァラトゥストラのキーワードです。そしてさらにチラシの裏に一行、「今埒に世界は完全となる。真夜中はまた正午なのだ。」。これはつまり、世界が完全になるためには、「真夜中」、そしてそれは正午でもあるものですが、それが存在しなければならないということを言っていて、しかもこれは勿論ニーチェが言っていることだということを書きつけながら、ニーチェにおいては、「真夜中」の太陽と同じく正午の太陽は、絶対的な闇であろうというように思索を続けている。そしてゼロについて考えることが、自分がワークショップでやろうとしていることだ、舞踏とは何か、と言いながら、だんだん眠くなってきたので今夜はここまでだ、と書き足すんですね。
つまり、ここではニーチェの「真夜中」というものが問題化されている。マラルメ、ニーチェ、ドストエフスキー。室伏鴻は私と同い年なのですが、その当時の学生が二十歳前後に読んでいたものといえば、ドストエフスキーとマラルメとニーチェ。人によっていろいろ違うのでマラルメが入っているかどうか分かりませんが、ドストエフスキーの、イワン・カラマーゾフが語って聞かせる大審問官の物語は、それをどう読み解いていたのかというのは別として、誰もが読んでいたという感じです。
室伏さんのこのテキストが『ツァラトゥストラはかく語りき』のどこから引用されているのか探してみたところ、第3部の「第2の舞踏の歌」というところから引用されていました。
「――その鐘が真夜中に時を打つのを聞くと、最初の一つから、最後の十二までの間、あなたはずっとあのことを考えるのです。――」あのことが何かということはニーチェのテキストには書かれていないのですが。あのことっていうのが、さっき室伏が、自分は舞踏をやるにあたってあのことが、これは、ツァラトゥストラに対して、生、生きるっていう、生の精について語っている言葉です。そして、ツァラトゥストラはその後にそれに応えて言うわけです。だから、こういうのを、私というのは生命の精なんだけど、私とあなた、ツァラトゥストラ、あなたとの関係の中で、私があなたツァラトゥストラの知恵に負けまいと意地を張ることによってあなたの問題にする例の知恵、絶対的な知、この絶対的な生と絶対的な知という二つのものの関係に対して絶対的な関心を抱くツァラトゥストラが、その思考を、どういうふうに具体化していくのかということが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に色々な形で出てくる訳です。これについては誰もが言っていることなのかもしれません。しかしそういったツァラトゥストラの語りの中で息づいているものが、ドストエフスキーからニーチェへの移行というものの中にあって、そして、それに室伏鴻が反応、共鳴しているのは明らかだと思います。それがどういう共鳴状態なのかということは、この室伏のテキストとニーチェとを比較することで、明らかになってくると思います。
読み進めるうちに、ツァラトゥストラはこう言ったとニーチェは叫んでいますが、それは『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の続きなのだということに気がつきました。
ニーチェは、イワンが大審問官の話を借りて語ろうとし明らかにしようとしていることを、どう展開すべきか考えているわけです。つまりニーチェは『カラマーゾフの兄弟』の続きとして、ツァラトゥストラの歌を書いたのです。なぜなら、『カラマーゾフの兄弟』は、1881年に出版されていて、ドイツ語へはその年かその翌年ぐらいに翻訳されていると思いますし、そもそもそれ以前に『罪と罰』、『白痴』を書いた超有名作家の最新作ですからニーチェは確実に読んでいると思います。ですから1983年か1984年に『カラマーゾフの兄弟』を読んで詩作を大いに刺激されたニーチェが、『ツァラトゥストラはかく語りき』を書いたことは歴然としています。
このことは誰もが言っているに違いないと思います。それくらい明瞭です。だから、室伏鴻にとって、イワンのjudgementについての物語と、ニーチェのツァラトゥストラというのは、当然つながっている。学問的云々とは全く無関係に、研究者が何を言っているかとは関係なしに、続きとして実際に読んでいるという話なのです。
もし、非常に重要な人がニーチェとかドストエフスキーについて語るとき、仮にこれは続きであると発言していなかったとしたら、あまりに当然なので、言うのも馬鹿馬鹿しいから言ってないにすぎないという事だと思います。誰もが両方読んでいるでしょうし、片方読んだ人は、もう片方を一度は読んでいるでしょう。
ニーチェがドストエフスキーを読まないなんていうのは、あり得ないでしょう。
つまり「ドストエフスキーの真夜中から真夜中のニジンスキーへ」という話の中に、それを可能にするものとしてニーチェのツァラトゥストラの「真夜中」というものがある。では、ドストエフスキーの大審問官、イワン・カラマーゾフが語っている大審問官の物語というのはどういう話なのかというと、それはイワンが書き上げた叙事詩「大審問官」を弟のアリョーシャに語って聞かせるという話です。
15世紀のスペインのセビリヤの町の広場に、ざわめきのようなものが起こった。ある人にいろいろな人たちが近づいていって、願い事を言うと実現してくれる。
自分の子供が死んでしまった母親がその子供の遺体を抱き抱えながら訴えている。この子を蘇らせて欲しいと。そうすると死んでいた子供が蘇るんですね。母親の歓び。ラザロ復活の聖書のシーンが、15世紀セビリヤの広場で再現される。これは誰なのか。これはイエスに違いない。どよめきが広がる。それを枢機卿の大審問官が物陰からみていて、あの男を捕まえろと命じる。兵士たちがやってきて、彼を捕まえ引き連れていって、部屋に閉じ込める。そして閉じ込められた青年の前に大審問官がやってくる。
大審問官が、お前はイエスかと問う。その男は答えない。すると大審問官は男に話し始める訳です、延々と。なぜお前はあれから1500年近くたった今ここに出て来たのか、出て来てはいけなかったのだと。
理性第一主義で、論理だけによって生きていく、イワン・カラマーゾフという人間、純粋な愛に生きているアリョーシャという弟、欲望に狂ったディミトリという兄、そういうカラマーゾフ三兄弟がいて、そしてちょっとおかしい、奇妙なスメルジャコーフという私生児がいる。この4人。3兄弟プラス1人が『カラマーゾフの兄弟』の主要な登場人物です。こういう類型の中で、イワンの論理性、理性が、問われる。
イワンは大審問官が言ったことを話すわけですが、イワンは大審問官の理論に加担するような形で大審問官に言わせているわけです。どんな論理を言ったのか、どの程度緻密なのか。「お前に我々は言う」お前というのは、イエスです。たとえば「お前に対して我々はこう言う。我々は我々を裁く」というふうに言うわけです。しかし、肝心なのは、お前でも我々でもない。これはイワンの論理です。おまえでも、我々でも。つまり、イエスと大審問官という (イエスはずっと沈黙しているのですが)二極の、両極としての戦いが展開されている。しかし問題は、お前でもないし、我々でもない。我々の外へ、我々とお前の外へ。問題は〈外〉だということ。〈真夜中〉と〈外〉が、こんなにつながっているのだということ。
何々しなくてはならない、どういうところに行かなければならないという秩序の要請があるときに、秩序の中に落ち着かせる、そういうプロセスの中で、お前でも我々でもない〈外〉へ志向することがなされなければならないということが、イワンが大審問官の物語を借りて言っていることです。
だけど実際にそういうイワンの思考の前で、大審問官がイエスに対して何を要求しているかということが大きな問題なのです。
お前が何故ここに来てはいけないのかというと、我々は1500年かけて、お前の名を、お前の奇跡を使いながら一つの世界を構築してきた。その世界の中で、人々は、お前が歌い上げた自由を享受しているつもりになっている。自由の中にいると信じて疑わない喜びを感じている。だから、従順なものへと人々を差し向けるそういう王国が、自由の王国としてイエスの名の下に出現した今、お前がそういうものを壊すような形で出現してきたということがいかに迷惑なことであるかということを、お前は理解しなくてはいけない。
大審問官はこのイエスかもしれない男にこう言うわけです。
これは「収容所の愉楽」という21世紀のきわめて重要なテーマにつながってくる。15世紀、キリスト教の王国が実現したと考えているキリスト教会の権威が、スペインのセビリヤの広場においてこのようなことを発言する。つまりそれは、権力の構造を明らかに自覚してそれを意図的に遂行している非常に有能な統治者が、自由の王国というものが築かれていると主張しているということを、1880年頃のドストエフスキーが、ロシアにおいて『カラマーゾフの兄弟』の中に書き入れたということなのです。
老大審問官は、彼らに気取られないように自分たちは幸せだと信じさせる、と何度も言っています。彼らというのは、人々。つまり大審問官本人がこの物語の中で、人々に気取られないようにといっているのです。人々が、自分たちが収容所の中にいるということを気取らないようにと。 それは喜びに満ち溢れていて、彼らに自分たちは幸せだと信じさせることに我々は成功している。それなのになぜその場所にお前は出てきた、と問い詰めているのです。私はイエスのためにやっているのだ、お前なんかクソ喰らえだと、大審問官が言うわけです。
ウォリンスキーは『カラマーゾフの王国』の中で、群衆の権力への盲従ということの重要性、そしてそれが可能になった構造についての認識が、大審問官の反キリスト像として提示されていると言っています。『カラマーゾフの王国』は1909年の出版ですが、1909年というのは、ロシア象徴主義の時代です。この時代は、文化的には、フランスのマラルメなどのいわゆる象徴派といわれる人たちよりもずっと後の時代で、いわゆるロシア象徴派の詩人といわれる人たちが華々しく活躍した時代です。チェーホフの『カモメ』が1898年、そして1904年に『桜の園』。このあたりがロシアリアリズムの黄金時代の最後とされています。
『カモメ』の中に劇中劇が出てきますが、あれがいわゆる象徴派の演劇です。19世紀末のロシアの象徴派の詩人と哲学者、そしてそれを代表する一人であるウォリンスキー。そういう人たちがドストエフスキーの作品の哲学的な意味というものに耽溺していた。
ここで問題は『カラマーゾフの兄弟』の中の大審問官の中に、外の思考というものがあるということです。お前でも我々でもないという「真夜中」の思想。つまり、時間の空洞、あるいは秩序の空洞というものがあることを前提にしつつ、現実の中では群衆の権力への盲従が、収容所の愉楽というものを作り出しているという認識。そして、その事に気づいていない人間は幸せであるし、気づいている人間は統治者として有能である、と言っている訳です。既にこの段階で、ドストエフスキーの作品の中にそういうものが書かれているだけではなくて、1909年にはウォリンスキーも同じことを指摘している。
ここで私たちは、ドストエフスキーがイワンに喋らせている、大審問官の話の最後のシーンでの統治者の知的な水準の高さを、例えば、エドワード・サイードの『文化と帝国主義』の中の、イギリスによるインド植民地統治がどういう知的構造に支えられていたのかという事と、つなげて考えたりする事もできます。
しかし、この話では、大審問官は90歳という設定になっています。その当時の寿命から考えると、非常な長命です。ですからウォリンスキーは、これは90歳の老審問官が死ぬ直前に見た夢ではないかといっています。老審問官の、15世紀に壊れようとしているものに対する恐怖。あるいは創り上げたものを壊そうとする者に対する恐怖。だからこの広場の光景自体が、現実には存在していなかったのではないかと主張する人もいるわけです。
結局、そのイエスかもしれない男は大審問官がいろいろ言った後に、これは有名なところですけど、お前は何も答えなくていいと言われる。男は何も喋らず立ち上がると、老審問官の唇にくちづけをして立ち去っていく。彼はドアから消えていくのですが、老審問官はそれを追いかけることもしなかった。
その時私は、大審問官は、俺にはお前を直ちに磔にして、火炙りにして、苦しみの中で殺すことができると言ったけどそれをやらないで済んだ、やらないで済んだから、残忍な私がそこにいなくて済んだって安堵したのではなく、もし磔にして火炙りにした場合に、その男がもし本当に神だったら助かってしまう、奇跡が起きる、そうしたら築き上げてきた管理の収容所王国が崩壊してしまう、そういうことを恐れたのだと思いました。だから立ち去る自由を与えた。いや、立ち去ってもらって安堵したのだと思います。
そういう思索を絶え間なく〈外〉へ向けていくドストエフスキーという作家がいる。そして室伏鴻の〈真夜中〉が〈外〉とつながるということの元に、大審問官までも引用することが実際に可能である。ある種の時代の精神の中で、ニーチェ、ドストエフスキー、ニジンスキーという具体的な個人名までつながるようなことがある。普通ニジンスキーまでなかなかいかないですね。
ニジンスキーをやっているような人が、誰もが惹きつけられてしまったニーチェとドストエフスキーを読み、そうしてこれらがつながっているということがわかる。そういう流れが、20代の室伏鴻の中に、例えば既にあって、それが死の直前、60代になって再びつながって、「真夜中のニジンスキー」というタイトルが想定された。そういった痕跡が、少なくとも今ぐらいのレベルでは見ることができるのではないかと思います。
ニーチェとドストエフスキーというのは、いわゆる研究テーマとして、ものすごく色々な研究書があり、様々なことが議論されているのは当然ですが、そういったものを読んでいくことによって、「真夜中のニジンスキー」というものを提案した室伏鴻に答えていく、レスポンディングという作業が先に進むかなとちょっと思い始めました。
というようなことで、今日は、前哨戦です。ありがとうございます。
1948年静岡生まれ。演劇研究。東京工業大学理工学部卒、東京大学文学部大学院修士過程修了。ウォーカー・アート・センター・グローバル委員(ミネアポリス)、国際演劇祭ラオコン(カンプナーゲル、ハンブルク)芸術監督、京都造形芸術大学舞台芸術センター副所長などを歴任。著書に『二十一世紀劇場:歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社)、共著に『反響マシーン──リチャード・フォアマンの世界』(勁草書房)など。訳書に、タデウシュ・カントール『芸術家よ、くたばれ!』(作品社)など。「鴻英良による挑発と洗脳のための猿の演劇論」を展開中。