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シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

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日記  Paris 1998/5/4

室伏鴻

(前略)
フランシスの部屋で(なんて暗くて、気分のこもる部屋、スタジオだろう)シャワーを浴びながら、
≪意味、すべての意味からの逃走≫
ということばが浮かんで来る。
不可能なものとして常にすでに足元にありながら、
決して到達するということのありえない、唯一的な意味、sens、とは
意味、すべての意味の起源、とその派生の問題だ。
そして何故、近親相姦のタブー、親殺しのタブーが絶対的な意味であるかが問われた。

起源について知っているもの
はじまりの言葉とは 律法である。
すべての言葉 意味の起源にある〈法〉。
宗教・国家的一件へと 当然ながら それはつながっていて 芸術とは、そのどこに位置しはじめたものなのかが 問われる。
事は至極単純なのだ と言いたかったのだ。
言い切ってしまうことのできることが、差し控えられている。

宇野邦一との対談が想起された。
至極単純にすべての意味から逃走する、ということしかないのだ と。
唯一の意味の達成なのではなく、
無数の意味の産出する場──非・場にこそ、乗り合わせねばならない、
躍る―踊子 というのは、 意味が 唯一の起源―法へと収斂されてゆくことのギマンを暴くという作業 なのだと。

躍る―踊ることのキワドさ 踊りは そのキワドサに於てしか 踊りではないという言い様は われわれの〈生〉についてもいいうるであろう。
なぜ、土方巽という名以外のButoが 彼の舞踏との同一性においても差異においても 明確に語られないか。

彼以上のキワドサを生み出しえないからだ。

キワドサにスタイル・フォルムが必要だ。
キワドサにおいては、無数の名、命名の行為も、刻印も碑名を宛て、あるいは、単に宛名に終わる名が可能であり、それは、宇野邦一が〈即興〉についての土方の意見を語ってみせた時、あらわになっていはしまいか。

すなわち、人生そのものが、即興なのですから、その即興を封じ込めたいとする欲望。
〈命と形の相克の問題〉

命、うつりゆき、ふしだらになり、
アナーキーで、はかない、
むごたらしく、滑稽で、無意味な沢山の意味、
虫けらのように短命で、有限の、
即興曲、束の間、われわれは、たかだか50年の生を、ほうの一息で、終えてしまう。

それらに、固有の形と名を与えるということが、
創造、芸術、英雄的な行為であろうか。
歴史に名を残すこと。
名も意味も、有限な短命なものであってみれば
歴史への参加をこえて、絶対的な名
無限というものを手にする方図をと
誰れもが、自然―母への反抗を企図する、その同じ埒内にある。

そして、それへの反抗―投企、たえざる参加、という主体的行為への信頼(サルトル)以後
主体こそが豊饒な闇の版図をひろげてその深淵をその未開を開拓されることを待ちのぞんでいた。

「命が形に追いすがる。」
と土方は言った。
「形が命に追いすがる。スタイルがすべて」
ともよく言った。

なにやら、僕の中で混乱があるのだ。
僕は土方の「肉体の叛乱」に、命が形に追いすがっている、その命を見たのだ、と言いたい。が、その形の発明にこそ、彼の創始したものとして語られ得るものがあり、その形と名の傘下に、僕もあなたもおさまってしまうのだ。
正確にいえば、踊りとは、命と形の間にその追いすがる形(出来てゆく形)、あるいは、逃走の形(崩れてゆく形)として、見えかくれするものだ。
(ニーチェがいっている。流れの絶対を感じられないが為に〈形〉を通して、流れを見たといおうとするのだ、というイミですべての〈形〉は仮象である。)
しかし、この堂々巡り、追いすがっているそのキワドサに〈形〉が
逃走のそのキワドサに〈形〉が
発見されねばならない。
が、・・・・・それこそ、固有のものでありつつ普遍のものであり得る、絶対的意味、即ち、絶対的流動、というものだ!!

ようやく、今日の核心に近づけたようだが、つまりは、〈絶対的流動〉という、もはや、私にも、あなたにも、すべての誰彼のものでもあり、──そして、すべての誰彼の私有に帰することのないもの──非名のもの、
匿名の力、意志 といっていけば、

絶対とは、母なる自然
名のある神の名に隠された力
に行きつくまいか?
分離 された、あらゆるもの
分節 された、コード化された、あらゆるもの
では、季節、は?
では、地帯、は?
そうして、産出された、男であり、女であり、
幼児であり、不具者であり、日本人であり、
ヨーロッパ人ではなく、猿でも蛇でもなく、
龍神でもなく、草葉でも、草葉の陰でもなく、鉱物でもない
差異化されたもの、とは
その唯一根源にある意志力によって、差異化され、命名された、その差異化する力そのものを宿しつつ、有限化されたのだ。
差異化する、根源にある、流動によって、
無数の、名・形・力が限定されているだけだ。
それらは、交換が可能であり、
変換と変形と交通が可能であり、
結合させ、より道させ、迂回させ、様々の過程に、別の過程をもって侵入することが可能な、限定、すなわち、終りなき、それ自体が移行の過程にある、道標なのであり、・・・・・
一回性の私の歴史!?

すべてが、許され、許容されるとして、
いったい、〈疎外〉されたもの、
達成、流動する力によって
流動することから、閉ざされたもの
は、いかなる、流動、を、生きるのか?消滅という宿命・エフェメールを、───パラノイア、と、スキゾフレニー?の抵抗器にかけられながらも、あくまでエフェメールなのだ。

タネムラさんの本と、並行させて、
アンテ・エディプスをよむというアイデアがあったのだ。
しかし、それ以前に、シャワーを浴びながら、もっともっとカンタンに、いくつかの踊りについての断章をものにしてゆく方法が思い浮かんだのだけれども、何だかどこかへ行ってしまったようだ。
7時半を回わった。フランシスのへやへ戻る時間だ。