シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6
スティーブン・バーバー
室伏鴻の日記において、私たちは、人間の身体にかかわるすべてのこと、名前を無効にする交通の要請としての〈外〉、そして永遠に問い続けられ粉砕されねばならない裁きの身振り、といったことの果てしない探求を目撃する。
まさにそのような地帯でこそ、生と死の間で揺らぎながら変容が試みられるように思われる。
室伏鴻はこの日記の断片の中で、ドストエフスキーの裁きと罰について触れているが、おそらくアルトーが1947年に書いた最後のラジオ作品『神の裁きと訣別するため』の文章のことも、同時に考えていたのではないだろうか。それはダンスが(ドラムと叫びとともに)、裁きとペストの両方を無にすることを想像させる、「そこにはただ /ペスト / コレラ / 天然痘だけがあった。なぜならダンスがまだ存在し始めていなかったからだ」。裁きとは、つまり私たちを敗北させるものである……
室伏は、裁きを斥けることで異質な知がそれ自体を明らかにし、その逸脱と密かな策略において身体と親密になると書いている。
室伏鴻の日記の断片の中に、私たちはその逆転された知を見出すだろうか。だから彼の終わりのないアーカイブにおいて(そのアーカイブに飛び込むことによって)、それを探求することが重要である。
鴻英良が『真夜中のニジンスキー』プロジェクトに向けて書いたテクストで強調するように、その跳躍は「抵抗のための新たな探求」を、つまり幽閉の増殖空間——監獄、収容所、政治的陰謀の新たな探求を含んでいる。これらすべてはどれも新たなものでしかありえない「隠された抵抗」によってのみ、廃絶されうる。この抵抗とは同時に痙攣である。
室伏鴻のダンスはこの抵抗を体現するものであろう。
だとするなら、室伏鴻の作品「どちらにしろ、一番危険で怪しいところ、それゆえ誘惑的な方へ、身を投げ出さねばならない」を通して、そして『神の裁きと訣別するため』に書かれたアルトーの要請「裏返しになって踊ること/ダンスホールの錯乱の中でのように/そしてその反転した場所こそが真の場所となるだろう」を経由して、ダンスは再定義されるかもしれない。
それこそが、裁きの〈外〉にある場所……
作家。著書にWhite Noise Ballroom (2018)などがある。近年の作品に、土方巽とのフィルム上でのコラボレーションとしてFilm’s Ghost(2019)、また、アントナン・アルトー、ジャン・ジュネ、ピエール・ギュヨタ、エドワード・マイブリッジについての著作がある。日本語をはじめフランス語、スペイン語、中国語など多言語に著作が翻訳され、多くの国際的な賞を受賞。現在、キングストン芸術大学(ロンドン)映像芸術分野の教授、および、ベルリン自由大学のパフォーマンスカルチャーセンターのフェロー。数回にわたり、室伏鴻とアルトーについての対話を行なっている。