transit

シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

05

不確定なものとしての室伏

ジョナタン・カウディーヨ

室伏の作品に近づくのが難しいのは、根本的にとらえどころのないものだからである。このことが意味するのは、彼の死後であっても、彼のダンスとそれを説明する彼の言葉を、決定的な意味を持つ概念として捉えてはならないということだろう。たとえ他の哲学的・芸術的要素との対話があったとしても、私たちは彼の作品を作品自体、そして言葉自体から考えなければならない。確かに、室伏が自分の作品を考える上で重要な芸術家や哲学者との対話を確立していることは容易に理解できるが、同時に、室伏の作品はそれ自体がすでに思考の出来事であり、それは彼ら思想家や芸術家との対話が、単なる軽率な羅列というより、むしろ開かれた議論であることを示唆している。

研究者やダンサーの中には、室伏のダンスを彼の言葉から切り離すのは簡単だと思っている人々もいるようだが、私は、室伏のダンスと言葉は身体の根源的経験の中で共存しているので、それらを切り離すことは不可能なのではないかと考える。室伏の言葉は、彼のダンスを説明しようとするものではなく、その対象を支配しようとしない生成変化の過程を探求するものである。彼の言葉は説明するよりむしろ、謎を指し示す。この点で室伏はヘラクレイトスに近いと思うし、彼のテクスト性は、言うことと言わないことの双方で動いている。室伏の作品は、彼が言うところの「間」、つまり、習慣的な思考の限界の中で動くことを要求する、識別不可能性の領域で動いているように、私には思える。そしてこの肉体の原初的な経験は、存在論的不確実性の前に立つよう、私たちを永久に掻き立てる。この不確実性のなかでこそ、私たちは彼のダンスと言葉とともに、自分自身を見つけることができるのだ。

そしてこの不確実性、遊牧性、外れた領域、原初の場所においてこそ、私たちは理論主義の罠に陥ることなく、室伏の作品にアプローチすることができるのではないだろうか。室伏との関わりにおいて生じうるのは、例えば我々が生成変化の思想家たちに近づこうとするときに、いつも起こるような事態である。つまり、彼らを完全に理解したと確信したとき、彼らをきっぱりと分類したとき、彼らを何らかの一義的な理論的枠組に従わせたとき、私たちは彼らの仕事を裏切ることになるのである。

ジョナタン・カウディーヨ

メキシコに生まれる。2017年、イベロアメリカーナ大学で哲学の博士号を取得。近年は、芸術と、身体の脱構築との関係について研究。論文に“Thus spoke Ko Murobushi”、“Ritual and Violence in Greek tragedy”、“Law and Desire, in the psychoanalytic knowledge”など。著書にBody, cruelty and difference in dance butoh, a philosophical lookなどがある。現在、国立芸術センターで教鞭をとる傍ら、Hydra Transfilosofía Escénicaでパフォーマーとして活動。