transit

シンポジウムへ向けて 2020.3-2021.6

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ゾーエーの身体あるいは死体の、
一度として同じでない回帰・反復

竹重伸一

ジョルジョ・アガンベンは、『ホモ・サケル』の中で古代ギリシアにおける生を意味する2つの言葉、ゾーエーとビオスの違いに着目している。ゾーエーとは、他の動物と区別できない剥き出しの生きているという事実、アガンベンはそこまであけすけな言い方はしていないものの、奴隷である労働者の生を意味していると言っても間違いではないだろう。それに対してビオスとは、文化的な生、政治的な意識を持ったポリスの市民の生を意味している。古代ギリシアの民主主義は、実はビオスとゾーエーの間のヒエラルキーに依拠していたのである。一方アガンベンは、近代民主主義をゾーエーの権利要求及び解放として捉えている。これは、ゾーエーがビオスに侵入し、「身体を持つ」ことが政治的主体になったということである。言い換えれば、近代の法治国家で権力を持っているのは剥き出しの身体なのである。
だとすれば、ダンスという身体をメディアとするジャンルにおいてこそそのことは明確に表れているはずである。20世紀以降ダンスの歴史は様々な革新を経てきたが、私見によれば、我々が「ダンス」という名で観ているものの身体の大半はビオスの身体ばかりである。ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団の身体でさえそうだと思う。しかし、例外的にビオスの身体から逸脱して、ゾーエーの剥き出しの身体に達したダンサーが少なくとも3人いる。それが、ヴァーツラフ・ニジンスキー、土方巽、室伏鴻である。では、彼らのゾーエーとしての身体とはいかなる相貌の下に現れたのか?これは、本来一冊の書物にしなければならないテーマであるが、ここでは短いイントロダクションを提示したい。
アガンベンは、『ホモ・サケル』の中で近代のゾーエーの先行例として、古代ローマのホモ・サケルという形象を取り上げている。それは、ポンペイウス・フェストゥスが『言葉の意味について』の「聖山」という項に次のように述べている形象である。

しかし、聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪であると人民が判定した者のことである。
その者を生け贄にすることは合法ではない。だが、この者を殺害する者が殺人罪に問われることはない。最初の護民法には、「平民決議によって聖なるものとされた者を誰が殺害しても、それは殺人罪ではない」とある。悪い人や不純な人がホモ・サケルと呼ばれるのはそのためである。

つまり、ホモ・サケルとは犠牲化不可能だが殺害可能な生のことであり、言葉を換えれば、宗教的な領域からも法の領域からも逸脱した生のことである。更にそれに関連して、アガンベンは、古代ローマの「似像の葬儀」という興味深い儀礼を取り上げている。そこでは、主権者の死後、皇帝をかたどった蠟の像は「病人のように扱われ、寝台に横たわっていた。上流婦人と元老院議員が両脇に座を占めた。医師は像の脈を取って看護をおこなうふりをする。これが、七日の後に似像が「死ぬ」まで続けられた」。
この像というモチーフこそ、ダンスにおけるゾーエーとしての身体を考える上で極めて重要だと思われる。この点でアガンベンの別のテキスト、『思考の潜勢力』所収の「記憶の及ばない像」は大いに示唆に富んでいる。このテキストは、ニーチェの永遠回帰において回帰するものとは一体何かを論じたものであるが、ここでアガンベンは、ニーチェが永遠回帰する当のものであるという〈同じもの(Gleich)〉について考察している。ドイツ語のGleichは、ge-という接頭辞(集合的なもの、集約することを指す)とleichによって形成されるが、そのleichは、遡れば中高地ドイツ語のlichに、そして最終的には現れ・形象・類似を指す語幹ligにたどりつき、近現代ドイツ語ではLeiche、死骸となる。なぜなら、死骸とは、すぐれて[生前の故人と]同じ形象を持つものだから。つまり、永遠回帰する〈同じもの〉とは死骸という像と言い得るものなのである。そして、その考えを補強するように、アガンベンはこのテキストの最後において、シェリングの『神とは何か』から引用する形で、この「あらゆる思考に先立って存在を貫く」絶えず回帰してくる像は〈記憶の及ばないもの〉であるとしている。
〈記憶の及ばないもの〉、すなわち想起されえないものとは、時間が切断されたもののことであり、我々は、これがまさしく、室伏鴻が自らのダンスの試みにおいて常に強調していた言葉であることに思い至るのである。痙攣も室伏鴻のダンスを深く特徴づけるものであるが、痙攣は硬直を伴っていなければ単なる振付に堕してしまう。重要なのは硬直である。硬直。時間を切断すること。限りなく物質=死体に近づくこと。それは、ムーブメントの時間的展開だと思われていたダンスに対する革命的な挑戦=アンチ・ダンスの試みである。ニジンスキーの『牧神の午後』はこの試みの嚆矢に位置するが、残念ながら西洋においては今もってそのことが理解されているとは思えず、バレエの伝統の中に組み込まれてしまっている。とはいえ、バレエの伝統の中からニジンスキーが出てきたことには理由があると思う。世界のダンスの中でもこれほど身体のアクシスにこだわったダンスは他にないからだ。ムーブメントの流動性とダイナミクスを抑制するまでのそのこだわりは、明らかに身体の空間性を志向している。その空間性は、幾何学的な左右対称性、表象の空間である。そのアクシスを像として凍結し、ダンスする身体を時間の外へ、永遠に回帰する記憶の及ばない像=死体にすることこそニジンスキーが『牧神の午後』で試みたことではないだろうか。
恐らく、ニジンスキーのそうしたアンチ・ダンスの試みの革新性に最初に気づいたのは土方巽である。土方の「踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである。」という言葉は、この観点からもう一度考え直してみるべきであろう。「命掛けで突っ立った死体」はなぜゾーエーの身体と言えるのか?土方は、宇野亜喜良氏との対談「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」の中で次のように述べている。

最初にリズムがあってそれから動きがのって、という舞踏の起源譚を私は否定しているんですよ、リズムに下剤をかけなさい、と……。
日本の民族舞踊で豊年万作のリズムにのったものなどはおそらくこのあたりから坊さんが流れていって、居候してその代わりにリズムをあずけて労働を鼓舞した。ところが実際は彼らの労働の中から残酷さとか悲惨さをとり除いたら舞踏なんか八十%死んでしまうんです。

ここで土方は、舞踏を共同体の祭祀・儀礼(宗教的な領域)とは一線を画するものと規定した上で、そこから逸脱した労働者(ここでは直接的には農民)の剥き出しの身体を炙り出している。リズムに下剤をかけられ時間を切断されて硬直した労働者の身体とは、まさしくビオスに侵入して主権者となったゾーエーの身体ではないだろうか。そして室伏鴻の言葉に従えば、そのゾーエーの身体、あるいは記憶の及ばない像は、痙攣しながら終わりなく回帰・反復する。ただし、一度として同じでない形でである。「反復 同一なものの 一度として同じでない反復 それはたえずくりかえされる 起源なき空への連打!! そういう反復なのだ」

竹重伸一

1965年生まれ。ダンス批評家。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『図書新聞』『舞踊年鑑』、劇評サイト『wonderland』『WL』などに寄稿。現在、『テルプシコール通信』にダンス論「来るべきダンスのために」を連載中。