バジル・ドガニス
ダンス、それは自己を消失させる。ダンスがダンスを消去するであろう。ならば、その時、誰が立っているのか、立つことが可能なのか。
〈死体〉であるだろう。自己の死体が踊るのだ。
踊りとは不可能事だ。
なぜなら、すでにその時、ダンスは他のものの生成に場を変えているから。
メタモルフォーゼ。
おそらく終わりなき変様なのだ。
ダンスとは偶然であり──未知なるものの到来である。
──室伏鴻「私は痙攣のダンサーである」メモより[*1]
映画じたいが一種のダンスであること──ダンスについての映画ではなく。
ダンスと映画の遭遇──ダンサーについての映画ではなく。
映画によって室伏鴻の踊りと想像世界を探るドキュメンタリー。
二〇〇六年十月のある夜、舞踏ダンサー室伏鴻と、ダンスと映画との関係について議論した。同じ日の昼間のワークショップに私は、アンジェの国立現代舞踊センターの若いダンサーたちの通訳として参加していたのだ。ふいに鴻──当時五十九歳──はにこりと笑うと、飲み続けていたビール・グラスを手にし煙草を口にやったままこう言った。「おい、バジル。おれの人生最期の十年の映画をつくらないか」。私は笑ってこう答えた。「あなたが亡くなるまで撮るなら、少なくともまだ三十年ありますよ!」。
というのも舞踏には、大野一雄という長寿の聖なる先例があったからだ。土方巽──鴻の思考と踊りの師匠──と並んで舞踏の共同創設者の一人である大野は、当時百歳になったばかりで、亡くなるのはその四年後のことだ。土方は五十七歳で亡くなったが、鴻は不摂生にもかかわらず、アスリートのような身体と鋼の健康をもちあわせていた。
私を説得するのに長い時間はかからずその晩には引き受けていた。挑戦を受けて立つ遊びのようにして。この驚異的なダンサーに対する尊敬の念ゆえに。彼は自分の身体を、流動する遊牧的な芸術作品に仕立てあげることで、ダンスという分野を超越し、芸術家の絶対的な原型のようなものになりおおせていた。生と作品が肉体のうえで混淆しているのだ。私が引き受けたのにはもちろん友情もあって、半ば遺言めいた作品をつくる役割を任せてくれたことが嬉しかった。
こうして、二〇一六年に訪れる予定の鴻の死から逆算してゆくカウントダウンが始まった。毎年のように、私たちは時間と費用を見つけては世界のあちこちで合流し、相互に歩み寄りながらダンスと映画を相互浸透させていった。そして毎年のように私は、彼が最終地点として設定した期日の馬鹿々々しさのことで鴻をからかった。
結局、悪い冗談のように、メキシコからブラジルに向かう乗り継ぎの途中で彼はこの世を去った。二〇一五年夏のことだ。彼が残酷にも自分で予告していた年より一年早いだけだった。彼の詩を読み返しながら、一九九二年の作品がふいに目にとまる。「渡り鳥の“渡り”、落ちて死ぬか?[*2]」。彼が自分でつけた芸名「鴻」は、ヒシクイという力強く飛ぶ渡り鳥を指す。渡り鳥の死。漂流し、脱領土化し、宙吊りにされ、地面から離れた死──無重力のなかでの。エッジとボーダーラインのダンサーが空中で舞うラストダンス。彼は生と死、芸術と生の境界線を、自身の生と作品のなかで絶えず移動させ続けた。
踊りは静止において 絶対的流動である。
──室伏鴻「Éphémère」[*3]
映画をスタートさせたとき、鴻と私は方向性を前もって決めていなかった。ただ、ダンスと映画が交叉する地帯に何かを到来させるべく共同作業する、という欲望を分かち合っていただけだ。そのことが何を意味するかはっきりとは分からなかったが、その一方で自分が何をしたくないかは理解していた。スペクタクルを撮影して並べただけのものや、鴻についての説明的で教育的なドキュメンタリーなんて真っ平御免だ。ダンサーの肖像を適確に描きだすドキュメンタリーを何本かすでに見ていたが、私が夢見ていたのは別のもの、つまりダンスと映画の一種のハイブリッドであって、まさに映画という媒介によってなされた私自身の舞踏の発見とリンクしたものだったのである。
二年間に渡る私の最初の日本滞在の折の二〇〇一年十二月、土方の設立した神話的なスタジオ・アスベスト館で、土方の未亡人である元藤燁子主宰のもと行われた未公開作品の最後の上映会に参加した。上映は四日間行われた。初日の早い時間に行き映画を一本見て、「アイデアを得て」、仕事に戻るつもりだった。
だが私は一日中椅子に釘付けになり、その後三日間同じ状態だった。土方作品は、撮影、モンタージュ、ドラマトゥルギーのあらゆる慣習を侵犯しながら、魅惑的な磁場の強度に貫かれており、その狂った形式的自由に唖然としてしまったのだ。土方の湛えるこの未曽有の自由は、彼のダンス実践からやって来たものだろうと直観した。
感性の被った衝撃があまりに強烈で、私は映画とダンスに同時に取り組みはじめた。キャメラを買い、元藤燁子(二〇〇三年死去)のもとで舞踏の訓練を受けることに決めた。それからというもの日本での舞踏の巨匠や主要な代表者、たとえば大野一雄、息子の大野慶人、麿赤児(大駱駝艦を鴻や天児牛大──山海塾をのちに旗揚げする──と共に創設)、笠井叡、田中泯についた。
私は撮影し踊った。時々ダンスを撮影することもあったが、たいてい全然別のものを撮影していた。だがいずれにせよ、踊り手としての身体的で肉体化した意識のようなものをつねに忘れずにいた──踊る身体と撮影する身体の意識状態が、それぞれ互いの力の源泉となるのである。
ダンスと映画のこうした二重の孵化にかんして、私はある信条を持っていた。この信条はのちに自分自身の映画実践によって試され、確証に変わった──映画の種類が何であれ(ドキュメンタリーやフィクションであれ、古典的なものや実験的なものであれ)、撮影される身体はすべて、身動き一つしないものも含めて、踊る身体なのであり、同様に撮影する身体もそうなのだ、と。撮影するダンサーと撮影されるダンサー──撮影するものとされるものとの関係は、主体‐客体の単純な関係であるまえに、まさしく振付的なものなのである。それは、キャメラをあいだに挟んだ真のダンスなのだ。
鴻が二〇〇六年に、映画という形態で十年に渡って行われる長期間の遺言的ダンスへと私を招待したとき、彼もまたそうした予感をもっていたのだろうか。それまで知り合った他の舞踏関係者全員とはちがって、鴻が踊るのを私がはじめて見たのは、フランスに帰国した二〇〇三年、パリのベルタン・ポワレ・センターの小さな会場だった。土方の映画に出会ったときと同種の美的な衝撃を受けた。土方の真の生まれ変わりのように思えたのである。
紫色のライトに照らされた金属質に輝く爬虫類めいた身体、叫び声、石壁に対する怒りの爆発といった、かつてない存在感を今後決して忘れることはないだろう。室伏鴻には土方にあるのと同じ天性の身振り、強度、供犠的献身があったのだが、さらなるリスクも取っていたに違いない。制御を危うくすることを好む彼は、つねに自分自身の限界で踊り続け、驚異的な技巧を駆使しながらもそれをずたずたにし、そうして絶えず(自分自身を)驚嘆させ超克していくのである。この信じ難い存在感と強度を、映画という手段でどうすれば形象化し、感じさせられるだろうか。
ダンスの本質そのものである運動へと絶えず回帰し続けることを通じて、当然の如く、鴻は恒久的で遊牧的な運動、流浪に刺し貫かれた運動という存在様式へと立ち至った。
この放浪はたんに身体面ばかりでなく、精神的で肉体的な地理にも関わるものだ。──断絶を、エッジを、おのれの身体と意識じたいの縁を、いかにつくりだすか。自分のいる場所において──彼の思考、経歴、遍歴において──、彼方へと開かれる縁や地平において、倦むことなく「点」を射抜き続けるにはどうすればよいのか。
ノマディックにあっては、内が外へ連続することによって……全ては素顔へと露らわになる。[*4]
この意味で、多くの旅を重ね、絶えず移動を続けた鴻という偉大な遊牧民の忠実な肖像は、地理的な次元における途方もなく豊かな位相学を前提し、彼の経由した領土や文化ときわめて特別な関係を結んでいると言いうるだろう。だがそれだけでなく、精神的な無数の風景の内面的な地図にも関わっていて、それは文学、哲学、絵画、音楽──それにもちろん踊りによって形作られるものであり、彼の想像世界における真のロードムービーをなしている。
内と外、見えるものと見えないものという二つの次元、現実上と想像上の巡礼は、我々の映画の核心にあるものであり、その原理上の独創性をなすものだ。これら二つの次元と、それを構成するハイブリッドな素材すべてを、絶えず動的にアレンジしてゆくことで、映画は独自の運動、振付的なリズム、映画的な形態を生みだしてゆく。映画が差しだすのは、鴻という偉大な芸術家──日本においてだけでなく、国際的なダンス・シーンにおいても──と、彼の晩年の芸術的な変様とが有する、実践と想像世界の豊饒さなのである。この変様とは、映画という媒体との遺言的な出会いであり、私はその特権的な証人──変様した証人──となる幸運を得たのだ。
踊るものたちは気まぐれで、いちどだって同じ場所で同じ季節をむかえたことはないのだった。いつも彼らは移動中だった。季節の方も移動中だ。だから一年じゅう春ばかりを旅していることもあれば、冬から冬へと冬に追いつかれるように移動する冬の旅人であることもあるだろう。
移動するものたちは、考える。踊ることも旅すること。〔……〕仮の宿から別の宿への、移りゆき、放浪であると。〔……〕旅への旅なのだ。それは、絶えざる変形にさらされることであり、破壊されつつ、あらたに成形すること。痛み、ボロボロに傷つきながら、死にながら再生することなのだ。[*5]
──室伏鴻「「アリアドーネの」もうひとつの〈春の祭典〉のために」
鴻と共作するこの映画を構想するに先立って、私の立てた最初の問いはダンス撮影をめぐるものだった。
ダンスを裏切ることなしに撮影すること、その強度をイメージに刻み込むことはおそろしく難しい。ダンスは本質的にその場限りのものだ。あらわれるやいなや消滅してしまい、触知可能な痕跡を一切残さない。生起しては永遠に消え去ってしまうものを二度撮影することはできないと知りながら、カット割りするリスクを取り、フレーミングとキャメラの動きを変えることなど、どうしてできよう。この条件のもとではあらゆる「ミス」、まずい決断のすべてが、取り返しのつかないものになってしまうのではないか。
私はこの制約すべてを引き受け、それを美学的な姿勢へと変換した──鴻のダンスを撮影する際に絶えず自分自身の身体性を勘案すること、肉体をもつ私の視点の主観性を引き受けること、キャメラを私の身体を拡張したものとして取り扱うこと。そのために撮影においては、ダンスを見る観客のリアルな経験に最も近い状態へと戻る必要があった。つまり、軽くキャメラが動く長回しである。
私の眼差しが鴻の特定の身体部位──手、顔、足、さらには彼の姿を反射した像──に向けられても、撮影は継続されねばならず、こうした細部に焦点を当てる。そしてこの点に関して、私の知覚を補佐してくれるのがキャメラの知覚能力である。キャメラは私の身体の知覚能力に優るものであり、私の能力を変様させてくれる。
キャメラを介することで──とりわけズームは、舞台空間を邪魔することなく前方や後方への移動撮影を可能にし、カットを挟むことなくロングショットからクロースアップへと移行しうる──、私の身体はハイブリッドになる。キャメラは、ダンスの身振りの強度を損なわないだけでなく、私の身体だけでは望みえないスペクタクルの経験を私に生きさせるのだ。
私のキャメラ=身体は見ているだけにとどまらない。鴻の身体に触れ、遠ざかりもし、フレームから外し、ふたたびフレームに収めながらそっとかすめ、さらに衝突しさえするのだ──ちょうどダンスのパートナーがそうするように。メルロ=ポンティが「眼差しによる触知」と呼ぶものを心底から理解できた。視覚のもつ触覚的な性格が、これ以上ないほど明らかなものとして立ち現れたのである。撮影することはもちろん眼差すことなのだが、同時に触れることであり、さらには踊ることでもあるのだ。
あいだに置かれたキャメラ=身体による撮影は、それじたいが特有の切迫をもつダンス、パフォーマンスとなっていて、「失敗(出会い損ね)」があってはならないという責任と結びついた緊迫感が漂っていた。もしフレームが広すぎたり狭すぎたりしたら、もし私の身振りが乱暴すぎたら、特定の細部をとらえ損ねたら、私のダンスは鴻のダンスを裏切ってしまう。また仮にそうなってしまったとしても、少なくともその後の瞬間だけは裏切らないで済むよう、すぐ挽回しなければならない。
ただし、私のキャメラ=身体の存在を感じさせることは重要でない。私の動きとズームの使用はあくまで倹約的で有機的なものにとどまり、鴻のパフォーマンスと歩調を合わせる。撮影行為は、不動の固定ショットへとゆっくり漸近してゆくことで、忘れ去られねばならない。
ダンス撮影に関するこうした探究はさらに、身体化された有機的な美学となった。鴻が踊っていないときも、たとえば様々な対話や、日常を撮影する折にも、私はその美学を保ち続けたのである。
鴻の身体的強度を裏切らないようにするという配慮のもと、スペクタクルやパフォーマンスをしていないときも含めて、彼の撮影を続けた。──それにしても、鴻のようなダンサーが踊るのをやめることなどあろうか。彼の世界内存在はいわば絶えざる踊りであって、その踊りのなかに撮影者のキャメラ=身体を引きずり込んでゆくのではないか。
映画を織りなす素材は、鴻のパフォーマンス、対談、彼の書いた詩的・理論的テクスト、アーカイヴの写真やフィルムなど多種多様であり、こうした素材の性質上、理詰めの物語構造ばかりでなく、音楽的で詩的な構成をもつモンタージュが要求された。
この特質こそまさに、クレール・アテルトン(クレア・アザートンClaire Atherton)の編集による映画に見出されるものなのだが、光栄なことに、彼女が私の映画の編集を担当してくれることになった。クレールは決して出来合いの観念や理論から出発することなく、フィルムという素材に向き合い、きわめて鋭敏な感性で仕事をする人で、異なる素材がもたらす強度──すでにそこにある強度であれ、これから到来させる強度であれ──の傍にずっととどまり続けるのだ。
その一方で、これらの素材を含む映画の撮影は十年に渡るものであり、さらには室伏鴻の人生と作品の三十年分のアーカイヴ──フィルム・写真・テクスト──を利用することもできたために、とにかく相当な分量の素材をまえにして身動きできなくなる可能性もあった。
この映画において、クレール・アテルトンは絶対に欠くことのできないパートナーになった。映画の素材すべて──とりわけ私にとって感情抜きでは語れない素材──から距離を取ることを可能にしてくれたうえに、無垢な感性と詩的な用心深さをもって、この広大な素材のなかを航海する自由を発見してくれたのだ。この自由を奇妙な仕方で──死後に──我々に与えたのは、鴻自身だった。
クレールと一緒に行った最初のラッシュ試写は、二〇一二年に私が行った鴻との対談だった。その対談で彼は、この映画の企画が始まってからすでに経過していた六年間を振り返ったのだが、その最初の言葉は次のようなものだった。「いつのものかも分からない公演を撮ったものとか、室伏鴻の踊りの映像を見ることなんて全然興味がない。俺が見たいのはお前のモンタージュなんだよ」。キャメラに相対しながら語るラッシュのなかの鴻は、文字通りクレールと私に向かって言葉を投げかけてきたように思えた。膨大な素材と成し遂げるべき課題の大きさをまえに尻込みする我々に対して、まるで墓の彼方からやって来て、「モンタージュだけに集中しろ」と発破をかけに来たようだった。こうなったら、映画の主観性と創造的な自由すべてを引き受けねばならない。鴻の作品にばかり忠実に従っているわけにはいかないのだ。
だがそうは言っても、モンタージュの過程で私は新たな困難に直面することになった。鴻の踊りとの肉体的な関係にもとづいて、身振りが有機的に産まれてくるところを一貫して尊重する長回しのショットがすでに手元にある。ではこの素材を破壊することなしに、どうやって裁断し、つなぎ直せばよいのか。
ここでも、クレール・アテルトンの感性と自由が決定的なものとなった。思い切ったつなぎのもつ力や豊かさを実感した私は、全体としての一貫性の感覚を保ちながら、自分で撮影した素材に対していっそう自由に関係し始めた。キャメラが私の身体の知覚能力を増幅させ、現実に関する私の経験をハイブリッド化するのと同様に、モンタージュは予見しえないアレンジメントを実験し生きることを可能にするのだと考えたのだ。
こうしたモンタージュ概念は舞踏の本質そのものに完全に叶うものである。舞踏は、身体を運動状態に置くために、モンタージュの原理──感覚、状態、想像のモンタージュ──に依拠するものなのだから。ダンサーの想像世界こそが、ダンサーの身振りをはぐくむ感覚的で詩的な素材を提供し、絶えざる変様を身体にくぐり抜けさせるのだ。
師である土方に倣って、鴻は詩的言語と、そこに潜む感覚的なモンタージュの閃光をもちいて、自分の身体を運動状態へと駆り立てた。同様に映画のモンタージュも、鴻の死体に生命をふたたび与え、彼の想像世界の深みへと侵入することを可能にするだろう。
ようやく映画がかたちを帯び始めた。動画と写真からなるアーカイヴの映像、私自身が撮影した公衆をまえに踊る鴻や私のキャメラのためだけに踊る鴻の映像、鴻が執筆したテクストをクレールと私が再編集したもの。まるでアリアドネの詩的な意味の糸が、このイメージの迷宮のなかで、鴻の創造的な狂気と内面性のもつ何がしかを復元するかのように。
映画は前もって決めたわけではなく、50分という適切な長さになった──室伏鴻の公演の平均時間である。息を引き取るその瞬間まで、鴻のパフォーマンスはどれも彼の生全体を凝縮したものであり、彼の作品全体を根底から問い直す機会でもあった。同様に映画もまた、それ独自の手段のみをもちいて、鴻の作品の目に見える本質が秘めている何かと、さらには彼の不安な内面を復元するべく努めるのだ。
音もなくヒラヒラと枯葉が燃えるように転覆した。炎の中の炎。いや幻視であろうか?〔……〕私たちは、乱流である。私たちは散乱し、無数に反射する光の粒子の、そのざわめきの、死へと限りなく近接してフルエテイルモノである。
──室伏鴻「[背火、それは 放浪のかたちである][*6]」
この映画はいわゆる物語を語るものでも、鴻の伝記を語るものでもなく、むしろ映画という形態によって、彼の作品と想像世界の何がしかを共有しようとするものである。だからといってこの映画が、純粋な抽象であるとか、美学趣味の省察であるというわけではない。というのも、潜在的なものではあってもリアルなドラマトゥルギーが、鴻の生と作品全体を鮮烈なしかたで構造化しているからだ。
このダンサーの世界内存在は、二つの出来事によって後戻りしえないしかたで変様を被った。一つは、舞踏の天才的な創始者・土方巽との出会い。もう一つは、修験道修業のなかでの木乃伊との出会いである。木乃伊は、腐敗を拒むことによって、身動きせず放つ強度によって、生と死の境界を攪乱する。舞踏から木乃伊へ、木乃伊から舞踏へ──そしてそれらが様々に姿を変えたものへ。
一九六八年の土方巽『肉体の叛乱』を見て美的な衝撃を受け、舞踏への一歩を踏みだした鴻は、ダンスに背を向け、日本北西部の出羽三山修験道で山伏体験を行ったのだが、そこで一九七〇年代半ばに木乃伊に出会った。その後、修験者としての修業を放棄し、舞踏へと回帰した彼がつくったのが「木乃伊の舞踏」というスペクタクルである。十年以上前に舞踏のウイルスを鴻に感染させた土方は、このパフォーマンスに感動し、自身の死から一年経った一九八七年刊行『美貌の青空』の一節を、まるごとこのパフォーマンスに捧げたのである。このテクストを読んだ鴻は自分の踊りをさらに進化させ、木乃伊のようなラディカルな純化と削ぎ落としの道を歩んでゆく。精神的な父・土方の孤児である鴻は、特記すべきことに、自分の作品を通じて土方との議論を続けていくのである。ダンスを通じて鴻は、木乃伊というラディカルな他者への変様と、舞踏との不可能な綜合を繰り返し目論むことになるだろう──鴻のダンスに関する土方の卓抜な言いかたを借りるなら、「苛烈な無為」へと最終的に到達するために。
今の時点から振り返ってみると、木乃伊の永遠性に憧憬を抱く修験者の十年にも渡る禁欲と、私のキャメラの共犯的な眼をまえにして鴻が生きた十年間を、重ね合わせてみたくなる欲求にかられる。身動き一つしない禁欲ではなく、映画によって、映画による運動への絶えざる讃嘆によって、おのれを木乃伊にするのとは別のしかたで、永遠性に辿り着こうと決めたのだ。
鴻に対して個人的に感じている恩義の感情と、私を彼に結びつけている理屈抜きのつながりを超えたところで望むことがあるとするなら、我々の出会いから誕生した映画によって、鴻の才能のうちの何がしかが、出来るかぎり多数多様な観客に共有されることだろう。いずれにせよこの無謀な賭けこそ、人間的で芸術的な未曽有の冒険を導いてきたものであり、今までのところ──そしてこれからもそうであってほしいのだが──、十年以上に渡る小さな奇蹟の数々を可能にしてきたものなのである。
今更いうまでもない。
漂泊の民だ、遊行の身だ、
いや、野性の花です。
〔……〕
もともと、死なないという目的も、
元気に生きるなどという目的も舞踏とは無縁だ。
官能と冷や汗のダンスなのだ。
──室伏鴻 「舞踏の死」
ギリシャ系フランス人哲学者、映像作家、シナリオ作家。フィクション短編2作品に続き、2018年には初の長編作品『Meltem』を撮り、2019年フランスで公開された。同年、室伏鴻を10年に渡って撮影したドキュメンタリーフィルム『絶えざる変様/室伏鴻』を完成させる。