第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 05

思考の零年──アルトーの裏返しの身体を通じた室伏鴻によるダンスの探求

スティーブン・バーバー

この短いレクチャーでは、室伏鴻による2014年2月のテクスト「「無数のニジンスキー」のために」で問われている、「無数のもの」という概念を探究したいと思います。室伏鴻の作品と、理論家アントナン・アルトーの作品とのあいだの相互関係を考えるにあたって、「無数のもの」がどれほど有意義な方法かを探ることにもなるはずです。アルトー作品は室伏に多くの着想を与えているのです。私はまずいくつかの日記断片を論じることから始めたいと思います。翻訳されたこの断片は「真夜中のニジンスキー」プロジェクトの一環をなすものであり、裁きという概念に室伏鴻がどう関わるかの手掛かりを与えてくれるものです。この断片は、晩年アルトーが1948年のラジオ作品『神の裁きと訣別するため』のために執筆した断片と響鳴しあっているのです。そのうえで、2014年ベルリンのトレップタワー公園記念墓地で行われた室伏鴻のパフォーマンスについてお話したいと思います。このパフォーマンスは、「真夜中のパフォーマンス」の一形態と見なしうるに違いありません。アルトーが晩年のラジオ作品とは別に「真夜中のパフォーマンス」を行ったとするなら、1948年パリで、彼の人生最期の週に行われた最後のインタビューに当たるはずです。私はこの「真夜中」の作品について論じます。そのあとで最後に、2004年2月にロンドンで室伏鴻と議論して過ごした夜の想い出に触れたいと思っています。第一に、1970年大阪万博での土方巽のライブ・パフォーマンスについて。室伏はその場に居合わせたのですが、これはほとんど忘れられている土方最後のソロ・パフォーマンスであり、土方の「真夜中」の作品と見なしうるものです。第二に、アルトーが晩年のラジオ作品の周囲で書いた断片への関心です。ドゥルーズとガタリの特異な創造的源泉ともなったものですが、アルトーの作品では「裏返しになって踊るダンス」という概念が問題とされています。変形する身体性を通した無数のダンス、無限の抵抗するダンスが問われているのです。

室伏鴻の日記断片において我々が目撃するのは、人間身体の物質の決然たる掘削、すなわち「外」の掘削です。「外」によるたえざるトランジットの命令が、固定された名づけを無効化するのです。くわえて裁きの身振りも掘削されるでしょう。裁きはたえず審問され、解体されねばなりません。掘削の場所を特定しうるとするなら、生と死のあいだで揺れ動きながら、変身が試みられる圏域に違いありません。室伏鴻は1990年の日記断片のなかで、ドストエフスキーにおける裁きと罪について思考しています。おそらく彼は同時にアルトーと晩年のラジオ作品『神の裁きと訣別するため』のテクストについても考えているのです。この作品は(打楽器や叫びと結びつきつつ)、裁きとペストの双方を無効にしうるダンスを構想するものです。アルトーはこう書いています。「ペスト、コレラ、疱瘡が存在するのは、たんにダンスが……まだ存在しはじめてはいないからだ」、と。

裁きは我々を打ち負かす……。室伏鴻の日記断片によれば、裁きがなくなると、別種の知が出現します。それは秘かな手段をもちいる身体、逸脱する身体に近接する知なのです。室伏鴻の日記断片には、反転し裏返しになった知が見いだされます。彼のテクストと資料を収蔵する尽きることなきアーカイヴに飛び込んで探究するのが、なぜかくも重要なのかが分かるでしょう。「真夜中のニジンスキー」プロジェクトをめぐる鴻英良のテクストが浮かびあがらせるのは、アーカイヴに飛び込むことは「レジスタンスの新らたな模索」となり、増殖してゆく監禁空間──刑務所、収容所、独房、檻──の探究となるということです。こうした監禁空間すべては、新らたで「秘かな」レジスタンスを通してはじめて無化されうるものでしょう。それは同時に痙攣でもあるレジスタンスなのです。

こうして私は、室伏鴻のダンスはレジスタンスを具現化したものだと考えるようになったのです。室伏鴻の作品をとおしてダンスは再想像されるでしょう。先程触れた1990年の日記断片において室伏鴻は、踊ることの目的をつぎのように宣言します。「いちばん危険で怪しいところ、それゆえ誘惑的な方へ、身を投げ出さねばならない」。──(ラジオ・プロジェクト『神の裁きと訣別するため』において)アルトーの求める煽動とも密通しながら。アルトーはこう書いています。「裏返しになって踊ること/まるで舞踏会の熱狂のようなもので/この逆さまの場所が真の場所になるだろう」。この場所は上手くいけば裁きの外の場所となるはずです。そうした空間を構想しうるとするなら。

つまり監禁、上演、それに墓場……。作家ジャン・ジュネは、彼の作品を上演する理想の場所は墓場であると1960年代に書きました。墓場は巨大都市の中心にありながら、無人であり打ち捨てられたものでなければなりません──そして上演は、死んだようにひっそりとした夜中、すなわち真夜中に行われるのです。ジュネは自分が望んだのは、「光を放つ濃密な強度をそなえた唯一無二の上演だった。観客に火をつけ煽り立てるべく演じられるものであり、したがってそこにいなかった人々全員を照らしだし攪乱させるようなものだ」。私が居合わせた室伏鴻の最後のパフォーマンスは、2014年7月のトレップタワー公園記念墓地でのもので、この公園には、第二次世界大戦終結の際にベルリンにやって来たソ連軍の若き兵隊たちのための巨大な記念碑があります。ボリス・シャルマッツのキュレーションによる「20世紀のための20人のダンサー」というダンス・イベントの一環でした。記念碑の下にはおよそ七千人の兵士が埋葬されているのですが、死者の正確な人数は分かっておらず、結局のところ数え切れぬままになっています。つまりパフォーマンスは無数の数え切れぬ死体が存在する墓場で行われたのです。そこは広く開かれた空間でもありました。私が見た室伏鴻の他の公演はすべて、東京やロンドンの劇場やギャラリーといった閉じた空間で行われていたので、ベルリンでのこの上演はまったく異なる響きを帯びていました。室伏鴻は祈念墓地の中央付近にある台座のうえで二度踊り、幕間の休憩の際には隅のベンチに座っていました。他の公演者と対照をなすように、室伏鴻のダンスの写真はほとんど撮影されていませんでした。観客はパフォーマンスに深く浸り切っていたに違いありません。先ほど読んだジュネの引用にあるように、ダンスに「光を放つ強度」があり、死者というそこに「いない」者たちにも観客にも伝達されたのでしょう。こうした瞬間を表象によって再現しようとしても、異議の声があがり無力化されるでしょう。とはいえ数少ない写真に写っているのは100人近い観客が、墓地の上にある台座のまわりに集まり、そのほとんどが立っている姿です。30分ほどのダンスのあいだ、踊る室伏鴻のきわめて近くに数人がいて、ほかの人たちは後方におり、そのうち3、4人が地べたに坐っていました。パフォーマンスのあいだ室伏鴻は言葉を発していた、というか叫んでいました。ほかの多くの公演でもそうしているのですが、地面の向こうやその下に無数の数え切れぬ死体のある記念墓地の空間での叫びは、異なる響きを帯びたのです。

トレップタワー公園記念墓地でのパフォーマンスは、1960年代末頃からともに活動した土方巽を記念するものとなると室伏鴻は予告していました。このレクチャーを聞いて下さっている方々は、室伏鴻と土方の関係をご存知でしょう。土方は1977年のエッセイで室伏鴻への敬意を語ってもいます。2014年ベルリン公演のプログラムの覚書のなかで、土方の作品は「特に[日本の]学生叛乱のあと」に位置づけられ、「支配権力の役割は挑戦と転覆に晒されたのだ」と続きます。つまりここでも、無数の数え切れぬものが問われることになるのです。ひとたび役割が統一的なものでなくなり、無数の数え切れぬものとなるなら、無数の挑発的なしかたで演じられうるようになるでしょう。土方と室伏鴻については、この後でさらに語ってゆくことにしたいと思います。

ベルリンでのパフォーマンスは真夜中ではなく夕方に行われましたが、それでも強度が漲っていたために、墓地という空間でダンスが上演され実現される最後の刹那が伝達されたのです。マラルメとニーチェの想起と詩の傍らにある「真夜中」とは何でしょうか。行われた場所で消滅する可能性のあるパフォーマンスのことでしょうか。振付家や芸術家が何十年も作業を積み重ねてきたその果てで、はじめて行われうるものでしょうか。

室伏鴻の作品とアントナン・アルトーの連関をさらに探るために、アルトーが最晩年に行ったインタビューについて少しお話したいと思います。彼の生涯の本当に最後の週にフランスの二つの新聞「コンバ」紙と「フィガロ・リテレール」紙に掲載されたものです。この二篇のインタビューのために、アルトーは自分に会いたがっていたジャーナリストを招待し、パリ郊外の療養所の敷地内にある一部屋きりの棟に、夜遅く訪ねて来るよう伝えたのです。ジャーナリストたちが訪れた部屋は、マラルメの真夜中を想起させたことでしょう──「そして真夜中の現前は時の部屋の幻視のうちに滞留し続ける……」(『イジチュール』)。死が間近に迫っていた最中でのインタビューはいずれも、アルトーの言葉と身振りによるパフォーマンスだったに違いありません。彼は部屋に置いてある机にナイフを突き立て、訪問者に対する言葉の効果を高めました。

一つめのインタビューは、「コンバ」紙のためのものです。ジャーナリストのジャン・マラビニは、木々のあいだを抜けながら、晩年のアルトーが夜を過ごした部屋へと向かう旅を次のように描いています。
「彼の住む陰気な部屋は、かつてオルレアン公が狩猟につかった棟の一つである。大きな暖炉の傍らで、彼は壊れそうな古びたベッドに横たわっていた。壁には表面を焼かれたドローイングがあって、ファン・ゴッホのスケッチを思い起こさせた。彼は自分の写真のうえに、私のための献辞を書いてくれた。「いかなる血の染みのなかへと、我々は共に旅することになるだろうか」。それから彼は自分のファン・ゴッホ論を一冊手にして、こう返答を書きつけた。「血の染みは暗闇に触れるだろう」……。外には樅の木があり、廃れた棟は茂みに隠れていた。彼曰く、この建物は屍体置場であり、それを囲む不気味な茂み──一方の森から二百メートル、他方の工場の煙突から二百メートル離れているにすぎない──は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「死の庭」に違いない」。
このインタビューのなかでアルトーは自分自身の死を問題にしていますが、その死が幾晩かあとにこの部屋で実際に到来することになったのです。ただしアルトーは死の彼方の物語を示すことで、この死をみずから招き寄せつつ、同時に否認し拒否してもいたのです。彼はジャーナリストにこう語っています。
「私が語っているのは、我々が人間存在についての特殊な概念を失ってしまったということだ。西暦1000年頃は、誰も死ななかった。人々が何世紀も生きた時代があったのだ。当時は生ける屍の村々が存在していた。アジアの隔絶した地域にいまなお存在しているように……。哲学者たちが一方には精神、他方には身体があると信じているかぎり、世界が前進するはずがない。重要なのは人間身体であって、それは思考するやいなや失われてしまう。かつては行為が直接的だった。精神的な議論のようなものは存在しなかった。あるものを摑む摑まないということで、手が自分自身と争うことなど断じてなかったのだ。」

二つめのインタビューでは、ジャーナリストのジャン・デテルヌが部屋を訪れるのですが、彼を前にしてアルトーは怒りをいっそう顕わにします。机にナイフを突き立てて自分の言葉を強調するのです。デテルヌはこう述懐します。
「ここから逃げる手段は一つしかない!」
アルトーはポケットからナイフを取り出すとゆっくり刃を引きだし、突然机に突き刺す。机には刺した痕がいくつも残っていた。
[インタビューはこう続く]「ここから逃げる手段は一つしかない──ナイフだ。そう、悪漢たちに対抗する唯一の武器。悪漢たちの犯罪はまだ十分に顧みられていない。今の我々みたいに白痴じみたお喋りを続けるのではなく、すぐ行動に移すべきだったのだ。他処には、そう他処には行動に移したり、行動の準備に励む人々がいる……。私は長い間、規範の外にあるテクストに取り憑かれてきた。文法の外で書こうとして、言葉の彼方にある表現手段を見つけようとした。今もその当時も、そうした表現の極めて近くにいると思っていた。だがすべてが私を規範へと連れ戻すのだ。」

アルトーの死の直前の二篇の異様な「真夜中」のインタビューには、室伏鴻の書く無数の存在と響鳴するものがあるように思います。つまり縁にある「外」の言語とダンスの無数の存在のことです。それは真夜中において、夜の深淵において最も上手く駆動するのです。掘削・問い・審問を要求するダンス。ダンサーたちや作家たちの無数の身体と響鳴するダンス。

2004年のある晩、室伏鴻と会ったのはアルトー作品について対話するためでした。さらに彼が土方巽と過ごした時間についても話しました。1970年大阪万博の「ペプシ館」で、土方のパフォーマンスを見た経験を語ってくれたのです。実際には土方は、万博の二つのパビリオンに出演していました。一つは「みどり館」で上映された映画で、大阪に拠点をもつ多くの企業によって委託されたものです。観客を没入させる全天全周方式が採用され、約800万人の来場者が見ました。この映画のフィルムは、慶應大学土方巽アーカイヴの森下隆によって、数年前に奇跡的に発見されました。また大阪府日本万国博覧会記念公園事務所には「みどり館」について多くの記録が保存されています。

一方、万博での土方のソロ・パフォーマンスの上演は少人数の観客向けに、万博開幕前の1970年3月11日にペプシ館で行われました。当時、室伏鴻は土方巽のところで働いていたのです。ペプシ館内部はすべて鏡で覆われ観客の姿を逆さまに反射する仕掛けになっており、観客は上下反転した裏返しの身体になります。音響芸術の体験に焦点を当てたペプシ館は、芸術への企業の関与を推進する目的で、ペプシ社によって委託されたものでした。ペプシ・コーラ社長ドナルド・ケンドールは、パビリオンの開場式でこう宣言したのです。「ペプシ館は芸術への企業参加の先例となるだろう」。そしてペプシ・コーラ社の重役たちは、土方巽のパフォーマンスについてこう判断を下しました。これは自分たちの望むものでなく、ペプシ社を代表するものではない、と。土方のパフォーマンスは二度と再演されることはなく、ペプシ館で予定されていた以後の公演はキャンセルされました。室伏鴻の目撃した一度きりの上演は、土方最後のソロパフォーマンスだったかもしれません。カンパニーで踊る作品のなかのソロという意味ではなく、全篇一人で踊るソロとしては最後ということです。それは失われた作品、消滅した作品のアウラを放っています。おそらく「真夜中のパフォーマンス」のアウラを。

ロンドンで行われたアルトーの作品をめぐる室伏鴻との議論で主な話題になったのは、ラジオ作品『神の裁きと訣別するため』の準備のために執筆された断片と、残存する録音そのものでした。録音で聞こえるのはアルトーの叫びであり、彼が打楽器と木琴を叩く音です。協力しているのは俳優・監督のロジェ・ブラン。後年ベケットやジュネとの作品で有名になる人です。このレクチャーをご覧になっている方々は、このアルトー作品が、1980年代の晩年の土方巽にとって決定的な重要性を持つことをご存知でしょう。くわえて土方がアルトーに関わるに当たって、宇野邦一の介在がどれほど決定的だったかもご存知のはずです。このアルトー作品はダンスという存在についての倦むことなき問いかけであり、神やその他の権力による人間身体への裁きの拒絶でもあるのです。

アルトーは自身の作品の極限的段階において、こう信じていました。ただダンスだけが、人間身体を破壊するものに抵抗することを可能にする。つまり身体変形の過程から生みだされるダンスだけが、人間身体による抵抗を可能にする。ダンスに関する刮目すべきマニフェストであり、室伏鴻の作品と響鳴するものだと思います。徹底的な闘争や戦いとしてのダンス、激しい異議申し立てとしてのダンス。深夜アルトーの部屋を訪れる暗殺者たちに対抗する闘争、死やその他の権力に対抗する闘争。こうしたダンスこそ、アルトーが「器官なき身体」と呼んだものの起源にあるものであり、ダンスをおのれの起源へと回帰させるダンスとなるのです。──起源におけるダンス、断片としてのダンスが、身体と同時的なものであったとするなら。さらにダンスは、ダンスについて書く行為を含んでいます。決して骨抜きにされることなく、何にもなびかない無数の形態と形象をもちいて書くこと──室伏鴻の日記断片や、将来の作品を準備するためのテクストに見られるように。すでに述べたように、アルトーは「裏返し」のダンスという構想を書きつけています。さらに1930年代の名高い「残酷劇」との関連でもダンスを引き合いに出すのです。いまやダンスだけが、「凝固した空虚にほかならない黴菌の世界の破壊を通して」、先行する作品を完成させうるのだと。

ロンドンでの室伏鴻との対話は、2013年横浜での彼の公演「アルトー二人」の11年前でした。私はこの公演を見ることが叶いませんでしたが、アルトー作品との長年にわたる関わりを煮詰めた公演だったに違いありません。アルトーとの関わりをめぐって1999年に書かれた室伏鴻の抜粋で締めくくることにしましょう。渡辺喜美子が運営する素晴らしいアーカイヴ・プロジェクトからの抜粋であり、アルトー作品をめぐる対話の中で発せられた室伏の鮮烈な言葉を想起させるものです。「アルトーの戦いへの共感とともに、私は踊り始めた。私のミイラの踊りもまた、私の身体と言語の裂け目をえぐり、むき出しにしてみることだった。死と生の境い目で、踊りからはぐれてしまった身体の踊りを発明する事だった」。

スティーブン・バーバー│Stephen Barber

作家。著書にWhite Noise Ballroom (2018)などがある。近年の作品に、土方巽とのフィルム上でのコラボレーションとしてFilm’s Ghost(2019)、また、アントナン・アルトー、ジャン・ジュネ、ピエール・ギュヨタ、エドワード・マイブリッジについての著作がある。日本語をはじめフランス語、スペイン語、中国語など多言語に著作が翻訳され、多くの国際的な賞を受賞。現在、キングストン芸術大学(ロンドン)映像芸術分野の教授、および、ベルリン自由大学のパフォーマンスカルチャーセンターのフェロー。数回にわたり、室伏鴻とアルトーについての対話を行なっている。