越智雄磨
01
舞踏の始点としてのニジンスキー/「私」の崩壊
「ニジンスキーがあって、発狂の正常があって、私の踊りが始まる」[*1]。そのように述べた土方巽は、ニジンスキーを最上の舞踏家と考えていた。しかし、その評価が向けられるのは、ニジンスキーがバレエ・リュスのダンサーとして世界中の絶賛を一身に集めていた時代ではなく、狂気に陥った晩年のニジンスキーに対してである。土方は、宇野亜喜良との対談において肉体を熟視することの名手として狂気のニジンスキーを称えている。
土方が踊ること以上に、肉体を熟視することを重視してきたことが、このニジンスキーの評価からも窺える、それこそが舞踏における要件だったと考えられる。だとすれば、舞踏は、「踊ること」の外にあるのではないか。『肉体の叛乱』を観た直後、土方の門下に入り、土方からニジンスキーの動きを学んだ室伏鴻はそのように考えていた。
われわれは われわれの踊りを見出す
踊りの外に
そこはすべての内部に外部をひくことだ
われわれの内部をつまずかせること
ニーチェのように ニジンスキーのように[*2]
ニーチェとニジンスキーは狂気という共通点を持つ[*3]。そして、この両者は室伏にとっての重要な参照項であり続けた。1980年の『ツァラトゥストラ』、2015年の未完の『真夜中のニジンスキー』。だとすれば、舞踏にとって、室伏にとって狂気は目指すべきものだったのだろうか?
たしかに、芸術における明晰な自我が起源となる表現の失効、あるいは理性的な「私」を根拠とする表現の失効は、1960年代から70年代にかけての前衛芸術家たちの共通認識だったかもしれない。少し迂回するようだが、同時代の演劇人である寺山修司は、「無化の影」と題したエッセイの中で、「私」という概念が崩壊しつつあることを直観していた。寺山曰く、
バビロニアの占星術以来、産業革命を挟んで今日まで、人々は、個人の内面の確保におびただしいエネルギーを使ってきた。だが、個人というの名の密室が、資本主義社会の下で分配に預かったささやかな幻想に過ぎない、と気づいたとき、それまでの「私」という概念は一気に崩壊し始めたのである。[*4]
寺山は、1960年代から70年代にかけて同時代の様々な領域のアーティストが「私の無化」を何らかの形で表していると考えていた。また、すべてのアーティストにとっての課題は、かつての「内面の神話」と葛藤し、それを克服することであるとも考えていた。文学においてはルイージ・マレルバ、トマス・ピンチョンらが記述者としての「私」を否定し、舞台においてはロバート・ウィルソンやピーター・シューマンらが俳優という代理人を否定していたことに、「私の無化」という同時代的な現象を寺山は見出した。[*5]
また、寺山はカフカの表現を借用して、身体を「血の詰まったただの袋」として捉えなおし、主体を問い直す必要性を説いてもいた[*6]。このような認識を持っていた寺山が「命がけで突っ立った死体」をテーゼとした土方巽の舞踏に無関心であったはずもない。寺山は、土方に連なる舞踏の系譜を、容器としての肉体を徹底的に鍛え直す実践としてみなし[*7]、舞踏のうちに、近代的自我から解放された「私のいれもの」あるいは「死の表徴としての他人の肉体」[*8]を提示する行為を読み取っていたようである。それは、従来の「ヒューマニズム」から脱する試みでもあった。寺山のいう「舞踏および可能性の演劇について語ることは、死体を語ることと同義だと言ってもいい」という言葉は、そのような背景、内的自我という神話に立脚した表現の死とともに理解されるべきであろう。ミシェル・フーコーは1966年(室伏鴻が早稲田大学で芸術活動を開始する前年、寺山が天井桟敷を開始する2年前)に刊行された『言葉と物』において、「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ」と、近代に形成された「人間」の死を告知していた[*9]。そのことを踏まえれば、舞踏は「人間の死」の具現化だったとも解釈できるのではないか。
寺山は、別のエッセイ「アルトー──わが残酷演劇宣言」で、従来の舞踊の限界についても語っている。その限界とは、つねに舞踊の出発点が「私」や「自己」にあり、そのために自己肯定と自己無化を抜け得ないということである[*10]。ここで寺山が考えている一般的な舞踊の限界とは反対に、「私の無化」を通じてその限界、近代的エピステーメーの中に成立した「人間」を通過するものとして土方らの「舞踏」を考えていたと言える。寺山流に舞踏を解釈すれば、身体の優位にあって、身体を統御してきたと考えられる理性を疑い、容器としての身体を鍛えることだといえる。さらに言葉を継ぎ足せば、その容器には狂気が呼び込まれる余地があるのだろう。ニジンスキーが舞踏の重要な歴史的参照項であり続けるのは、そのような肉体の熟視の先達だったからである。
分裂病(現在では統合失調症、命名はニジンスキーの主治医だったオイゲン・ブロイラーによる)と呼ばれる精神の病を患ったニジンスキーは[*11]、手記において自身を「神である」「日本人である」「インド人である」「牛である」などと記述した。ドゥルーズとガタリは『資本主義と分裂症』において、ニジンスキーのように言語と身体が区別されることなく連続している分裂病に新たな身体の創設を見出し、あらゆるものへと生成変化する欲望が充満したその身体をアルトーにならい「器官なき身体」と呼ぶ。近代的な身体や精神に課される規範からの逸脱を目指した舞踏とニジンスキーとの接点、親和性は、この概念を通じて強化、強調されるだろう。
02
ニジンスキーになかったもの
土方はダンスを「はぐれる」こと、室伏はダンスを身体の「外」へ出ることと考えていた。そのように考える彼らにとって、狂気や錯乱は理性や規範の「外」へと至る経路と考えられていた節がある。他方で、室伏鴻は、単純にニジンスキーを全面的に信奉していたわけではなかったことにも留意しておきたい。天才舞踊家と称賛されたニジンスキーの動きに関しても晩年の狂気に関してもそれを神格化することを室伏は回避している。
室伏は次のように述べる。
土方が〈死体〉を踊ると決意したことはダンスに革命をもたらしたと思うと、そして、世紀のバレエ及びダンスの革新がニジンスキーの牧神やイサドラの裸足で始動したとするならば、彼らが神の狂気に触れて自ら狂気の道を行ったこと。 もし、ニジンスキーが、私はトルストイの鳥であり、ニホン人であり、アラビア人であり、……神であると、 もし、ニジンスキーの狂気が〈死体〉への変成 Transformation を自ら探求しえていたら、狂気と正気の狭間で絶えざる実験を生きることが出来た筈だ。 狂気の道一つに堕ちることを回避することが出来た筈だ、と。[*12]
ニジンスキーが分裂病/統合失調症のあと、様々なものへと変成するような発言(離切的総合、包括的離切)をしていたことは既にみたが、たしかに室伏が指摘するように土方が舞踏のモチーフとした「死体」についてニジンスキーが言及したことはなかった。室伏はここにニジンスキーと土方の、そして自身の舞踏との明確な差異を読み取っていた。つまり、舞踏にあってニジンスキーに欠けていたものとは、「死体」への生成変化である。死体への生成変化が目指されていれば、狂気と正気の間に止まることができたはずだと室伏は考えた。狂気に接近しつつ狂気から戻る、この間の領域こそが、室伏が「外」や「edge」という言葉で語る場所なのだろう。
動きの観点からいえば、室伏は2012年に書いたテキストで、ニジンスキーに対して次のような疑問を投げかけている。「ニジンスキーはなぜ痙攣のコレオグラフィーを残さなかったか。彼には回転があり、跳躍があったからだろう」[*13]。ニジンスキーの跳躍を称賛する評論は多く残されているが、室伏にとって「回転」や「跳躍」といったダンスの技術は関心の対象ではなかった。それは、先の室伏の発言から判断すればダンスの「内」のダンスであり、「外」のダンスではない。室伏がニジンスキーも実行しなかった「外」のダンスの身振りとして重要視する動きは「痙攣」であった。ただ、本当にニジンスキーに痙攣はなかったのか? おそらく多くの人が思い出すのは、『牧神の午後』(1909)の最後にある半獣神の自慰のシーンだろう。私たちは再現版でしか観られないが、初演時にもスキャンダルを巻き起こした場面である。しかし、室伏は再現版を観たと考えられるが、そこに偽の痙攣しか見出さなかった。
03
「Edge」へ移行するための「痙攣」
閲覧可能な映像で確認する限り、室伏が自身の作品で最初に「痙攣」を具現化したのは1978年に発表した『常闇形Ⅲ 聖カバレー公爵 あるいは彼岸へと打ちつづく痙攣』の木乃伊の踊りにおいてである。この時期の室伏は、修験道や山伏信仰、即身仏、折口信夫の仕事に強い関心を寄せており、その思考を具現化したものが木乃伊であった。1976年の『虚無僧』で初めて木乃伊を踊って以来、木乃伊は繰り返し室伏が踊るモチーフであり、土方巽が「苛烈な無為」と土方流の最大級の賛辞を室伏に寄せたのもその踊りである(おそらく、『虚無僧』においても痙攣の場面があったのではないかと推測されるが、確認はできていない)。また、室伏が「痙攣」について書いたテキストを探っていくと、現時点で見つかる最も古いものとしては1977年に書かれた「常闇形」に遡ることができる。
生まれながらにして異形であることの宿命に巣食う、 存在の全的充足とはどのようにしてやってくるのかという問いの渦中で思考の持続を暴力的に切断する、 切断の断面に立つ
〈中略〉
存在の際、縁、隅、鄙へ、常闇へ
死臭が、より生を際立たせるだろう、
必死で際立つもの、 断面に動かしがたい必然として残酷、滑稽に灼き付いた痙攣が舞踏の祖である。 [*14]
室伏は、後に「このテキストが僕の原点なのかもしれない」と述べているが[*15]、おそらく、そう語った理由は、「痙攣」を舞踏の祖と考え、終生室伏が追求した動きだったからだろう。また、「(思考の持続の)切断面」「際、縁、隅、鄙」といった、室伏が後に作品タイトルとカンパニー名にも使用する「edge」に関連する言葉も既にここに現れている。
1979年には「とめどもない痙攣はたれの力なのだ」と書き、『常闇形Ⅲ 聖カバレー公爵、あるいは彼岸へと打ち続く痙攣』を発表した[*16]。2000年代以降の作、たとえば『quick silver』にも、『墓場で踊られる熱狂的なダンス』にも痙攣は見られる。それらは1970年代の室伏のミイラの様相とは一見かけ離れているように見えるが、木乃伊のヴァリエーションだと考えられる。
室伏にとっての「痙攣」は、ニジンスキーの踊りが留まらずに過ぎ去った正気と狂気の間にある、「edge」に立つ舞踏を成立させる動きとして終生探究されていたと言える。
先に引用した、室伏のテキスト「常闇形」は次のように続く。
私は脱出したまま宙吊りになった肉体である。 嗜虐的なまでに痛覚を呼ぶ肉体が、この国の常闇に血統している。緊張と痙攣と破砕への切迫、そして絶対的静寂への……。 忍耐をこえる痛み、陶酔は、私を喪失させる。無我の、呆気の境にあるものもまた、舞踏の祖である。[*17]
痙攣はやがて肉体を宙吊りにし、「私」を喪失させる陶酔をもたらす。室伏が、舞踏の祖にある「無我の、呆気の境」という時、やはり当時室伏が関心を寄せた折口信夫の「ほうとする話」が意識されているのだろう。折口が「ほう」という時(室伏は折口の「ほう」を「呆」に通じるものとして解釈している)、どこまでも広がる地平や水平が見える風景のなかで、茫然自失とした人間がため息をつく様を描写する場合に使われることもあれば、不明瞭な物事に得心がいく場合にも使われている。つまり、思考の中断としての意味も、思考の中断後の思考/主体の変成のプロセスとしての意味も「ほう」は含む。主体の縁への行路、その先は狂気にも通ずるかもしれないが、そこからの帰り道も「呆気」は含むのだろう。そして帰り道を戻った時の主体は元の主体とずれた別物に変成していることまでも含む点で、広さと柔らかさを感じさせる概念である。
室伏は、舞踏に技術はない、といった。それは、舞踏とは、自我の表現ではなく、そのため表現として眼に見えるような技術は身につかない、という意味であるが、呆気と狂気の間に広大な閾を見出し、そこに自身の身体を投げ込む、ということそれ自体が、室伏の踊りの技術と言えるのかもしれない。室伏は次のようにも述べていた。「空を摑め! つねに「間にある」こと! “Edge”境界上の思想的身体であること」。
おそらく、『真夜中のニジンスキー』という作品は、この間の領域に、狂気へと過ぎ去ったニジンスキーの分裂した無数の身体を呼び戻す、そのような試みになったのだろう。マラルメの「真夜中」、ニーチェの「正午/真夜中」、フーコーの「外」、そして室伏の「edge」という思想的な閾において、室伏とニジンスキーと私たちとの邂逅の場が設えられつつあったのだ。
ダンス研究。愛媛大学講師。専門はフランスを中心としたコンテンポラリーダンスに関する歴史、美学、文化政策。編著に『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』(2015)、論文に「ノン・ダンスにおける生存の美学 : フランスのコンテンポラリーダンスにおけるパフォーマンス的転回について」(2016)など。