第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 08

真夜中の経済学──室伏鴻の〈外〉について

ペドロ・エルバー

01

まず始めに、渡辺さんからご招待いただいたこと、そして宇野邦一さんからご紹介いただいたことに感謝を述べたい。渡辺さんへ、室伏鴻へ、そして、実際のところ、舞踏そのものへの紹介でもあった。しかしこの話は長い話になる。

渡辺さんから、皆さんとご一緒になれる、このシンポジウムに招待されたことは、嬉しいことだった。もともとは、以前のような対面のイベント(しかもマスクなしの!)として企画されていたが(今や、このような状況下では、「ご一緒になる」という言葉さえ正しいのか定かではないが)。渡辺さんから連絡があったとき、私はちょうど東京に戻ってきたところで、大学という空間以外でこのような知的な対話に参加するというのは魅力的な機会だと思った。ついでながら、私は早稲田への通勤の途中、Shyの前を週に何度も通りかかっていたので、親近感もあった。とはいえ、こうした専門家の方々そして室伏の古い友人の方々の仲間に入ることには多少のためらいを抱きながら引き受けた。室伏の残したレガシーについての対話に、私が十分に寄与することができるのだろうかという懸念に対して、渡辺さんからは、大事なことは室伏について、ではなく、むしろ室伏の視点から語ることなのだという、恐らく、それはもっと困難な課題だと思うが、そのような返答があった。

前置きはさておき、私はここにニューカマー、アウトサイダーとしてみなさんとご一緒している。室伏の作品、舞踏、そして学術としてのダンスへのアウトサイダーである。とはいうものの、ダンスそのものについて全く馴染みがないというわけではなく、過去20年間(去年までの1年間半は除く)はダンスは私の人生の重要な位置を占めている。しかし、研究の対象といったものからは離れたところにあった。そして今私たちはすでに問題に徐々に接近しているのである。なぜなら室伏の内省の中で、このダンスと思考との関係というのは中心的な位置を占めているからである。しかしこれについてはまもなく触れることにする。

真夜中のニジンスキー。このタイトルに対する私の最初の応答は、この対話をより自分自身のフィールドに近づけること、あるいは少なくとも私自身の現在進行中の仕事、美学と経済学理論との交差についての文脈に引き寄せることだった。そういうわけでこの発表のタイトルを提案する、「真夜中の経済学」。しかし、道のどこかで、私は脱線し、誘惑され、恐らく魔法をかけられたようである。この真夜中という観念に。したがって、真夜中の(at)経済学以上に、私がここで使わなければならないのは、ある種の真夜中についての(of)経済学、あるいは真夜中経済学というもので、地理的・言語的境界を超えた文化的想像力を発揮し、あるいはそこに絶えず現れてくるものである。

室伏を出発点として、あるいは室伏とともに始めるならば、私たちが受け取った、あるいは授かった一連のノートや日記の記録には、真夜中がさまざまな姿かたちで、まばらにつながり、言及されている。ノートには、マラルメ、ニーチェ、そしてアルトーなどの文章に現われる、真夜中という観念に対する、関心、好奇心、そして室伏のいうところの、愛着の様子が表れている。「そして、マラルメの〈真夜中〉に私はこだわる。それはまたニーチェの〈真夜中〉にも通じ合っているのだ。」[*1]

これらはみな、室伏に継承されている[ここで引用、翻訳すると]。「 私はそれを考えない。自ら思考をへし折り、思考の「外」へ出る。そして、ただ複数のダンサーたちの身体に向き合うだろう、直かに。」[*2]

そして自分自身を外側に投影するという行為は、思考の領域の外側という意味でもあるが、室伏のノートの中で描かれる真夜中の問題にとって鍵となる特徴として現われてくる。「直に・・・ナマに触れ合うこと、それが〈真夜中〉の問題だ」[*3]即時性の時間としての真夜中、魅惑の、逸脱の時間、「ありのままの接触」の時間、そして、そのようなダンスの時間として。

02

マラルメの詩は、この真夜中にまつわる考察の核の中で重要な位置を占めている。室伏にとってだけでなく、ニジンスキー自身にとっても同様で、1912年振付をした『牧神の午後』は、マラルメの詩から題名をとっている。さて、この詩人から、真夜中について私たちは何を学ぶのだろうか? マラルメの詩学における経済のなかで、真夜中はどのようにあらわれ、どのような役割を担っているのだろうか?

マラルメが1865年頃に執筆した『イジチュールまたはエルベノンの狂気』の初稿段階では、「真夜中」はまず決断の時間として最初に姿を表す、それは任意の、主観的な決断としてではなく、偶然の時間、賽を投げる決断である。「賽の投げられるべき深夜」[*4]まさに、この偶然に対する観念と、予言と宿命との曖昧な関係性が物語を特徴づけ、また構築している。実に『賽の一振り』の初稿の出版から20年も前であるが、この賽を投げることという概念がここにおいて現れていること、この概念がここで正確に真夜中との関連において描かれていることはマラルメの作品のコンテクストにとって重要であり、そして彼の詩作におけるこの真夜中という観念の中心性を示唆している。

数行後、真夜中は再び、イジチュールが「人間精神から」「階段を降りて」、彼が「事物の底へと向かう」時間として現れる。そして彼はそこで何を見出すのか?何の感情も感傷もない、精神さえない、とマラルメは述べる、ただ「灰」「中性的な状態」[*5]なのである。この事物の底へと向かう動きはまさに物語の全体を導き、構造となっているかのようだ──終わり、墓へと向かい、イジチュールは、母の遺言に背いて、灰の中で、星々と彼の一族祖先の灰の中で横たわる。

真夜中の灰は再度、マラルメの詩の中でも最も議論が絶えないひとつである、”Sonnet en yx”(YXのソネ)において現れる。不死鳥と骨壺の間、真夜中はここでもう一度、不確実性、苦悩、そしてまた一方で発見や露わにすることと関連付けられているが、より正確には、苦悩それ自体が真夜中として──そして同時に聖火を運ぶ者として、描かれているのである。「苦悩は、この真夜中、聖火を捧持する者さながらに」[*6]

マラルメ以前、この解明的な、「聖火を捧持する」という真夜中の特色は、テオフィル・ゴーティエの“Pensée de Minuit”(真夜中の思考)において見出すことができる、過去に光を当てる回顧的な眼差しが描かれ、山の頂上に辿り着いた旅人のように、後にしてきた青い平野に最後の一瞥を投げかける。そして、ボードレールの『悪の華』に収められている、『真夜中の反省』という題の詩において、真夜中は再び姿を現す。この詩は、「急いでランプを吹き消そう」という呼びかけで終わる。[*7]

03

このような境界としての性質、過去と未来、光と闇、意識とそれゆえの欠乏との間の分岐点の瞬間であることが、真夜中の重要な特質である。真夜中とはそれ自身、時間でできた限界であり、終焉は新たなる始まりと邂逅し、馴染みのものが未知のもの、予測不可能なもの、そして支配不可能なもの、すなわち「賽のひとふり」に取って代わられるのである。私はこの点について、室伏が真夜中を「むきだしな体験」と表現していることとは無関係ではないと考える。

ここで、真夜中とは奇怪な出現や幽霊の時間でもある。このような点で、真夜中はウィッチングアワー、超自然的な出来事が一番起こりやすく、幽霊、悪魔や魔女などが一番現れやすい夜の時間という観念と密接に関連している。

正確な時間帯でいうと、ウィッチングアワーは必ずしも12時あるいは0時に一致するわけではない。中世ヨーロッパのキリスト教社会では人々はウィッチングアワーを朝の3時から4時の時間帯と認識していた。16世紀当時の人々のいわゆる魔術に対する恐れは、教会をして上記の時間帯のいかなる活動も禁止させるほどであった。

日本(そして中国)の伝統では、丑三つ時は、午前2時から2時半までの時間帯に対応し、超自然現象との関連において類似した意味を持っている。自動翻訳で「丑三つ時」と打てば、しばしば英語でwitching hourと変換されるほどである。

近代医学はこうした文化間に共通の信仰や信念の起源について人体のサーカディアンリズムに基づき説明する。午前3時は人間の最も深い睡眠の時間にあたり、体内のメラトニンがピークに達する。生理学によれば、この時、人間は最も悪夢及びその他の恐怖体験そして睡眠に関連した障害を経験しやすいという。

私の3歳の息子が、畏敬、興奮そして好奇心の混ざった気持ちで言いたがるように、真夜中は「お化けの時間!!!」なのだ。

一方で、大多数の現代の大人にとっては、ウィッチングアワーはその超自然的なアウラは失われてしまった。とはいえ、この言葉はいまだ大衆文化を生き抜いており、しばしば悪運のとき、あるいは赤ん坊が一見理由もなく泣き出す世の中の時間帯を指している(経験からいうと、赤ん坊が泣くのはいつ何時でも起きることだが…)。金融経済学の世界では、迷信や賽のひとふりが決してかけ離れたものではなく、「ウィッチングアワー」とは、1日の中で株価の変動が増大する特定の時間のことをいう。

ところで、童話やおとぎ話とくれば、どうしてシンデレラ抜きで真夜中について話すことができよう?「模範的」なシャルル・ペロー版のサンドリヨン、グリム童話版のアッシェンプッテル(またもや灰だ!)おそらく他のどんな文芸作品よりも、シンデレラの物語は限界としての真夜中という特徴を表現している。魔法、超自然的な世界と自然、平凡な世界との間、美しい幻想と醜く汚れた現実との間、火花と灰との間の限界である。「いくつ私たちは発見できるだろうか」、室伏は問いかける、「火花を放つ瞬間を?」。これも、また、「真夜中の問題」なのだ。

この限界、この越えられない、越えてはいけない禁じられた境界において、何が問題となっているのか?この禁止とタブー、それは一方で物語の展開のために破られることになるわけだが、その核心はなにか?シンデレラは妖精の忠告に背き、舞踏会に長居することになる、そうして彼女は自分の靴を置き忘れることになるのだ、ちょうどイジチュールが母の言葉に背き、墓場で遊ぶことで、「事物の底」、究極の地へと辿り着いたように。

まさに、この限界を越えて決まりを破るということそれ自体が遊戯の本質的な要素であり、本質的に侵犯的特徴を持つのである。たとえ遊戯の基本的な特徴の一つが、ヨハン・ホイジンガによると、境界に区切られた性質から成り立っていても、境界を越える可能性というのは決して遊戯の行為からかけ離れたものではないのである。どのような遊戯も、その最も原理的な意味において、根本的には限界についての、あるいは限界との遊びであり、遊び心に満ちた越境なのである。遊ぶとは常に、俗に言うように、「火遊びをする」ことなのである。

シンデレラの物語における真夜中の意味について、仮面舞踏会の中世のある種の慣習と関連付ける人もいる。仮面舞踏会では、ミステリアスなパートナーとのダンスを楽しんだ後、真夜中になると各自が仮面をとって、自分の正体を明かすものになっている。この、仮面を外して自分の姿をさらけだす瞬間が、この、幻想と現実の限界の越境が、パーティーの見せ場であり、ダンスのクライマックス、あるいは終幕ではないかと考える人もいるだろう。

セーレン・キルケゴールにとっても、真夜中の意味は明らかに後者のようなものであったが、最初の著作『あれか、これか』では、この真夜中の描写に数行を捧げている。「君はいったいだれも彼も仮面をぬがずにいられない真夜中というものがいつかやって来ることを知らないのか?人生がいつまでも冗談ごとに甘んじているとでも思っているのか?それとも真夜中少しまえにこっそり忍び出て、真夜中から逃げ出せると思っているのか?それともそんなことは少しもこわくないというのか?[*8]」ここでもまた、真夜中は限界として出現する。生活における美学的領域と倫理的領域の間の限界、これをキルケゴールは互いに明瞭に区別しようと試みたのである。真夜中は、この場合は、仮面をぬぎ捨てる瞬間として、パーティーの終幕、純粋な満喫の時間の終わり、そして倫理的な生活の開始を表象する。バタイユの言葉を用いれば、日々の「限定経済[*9]」へ戻ることである。おそらくシンデレラもまた、真夜中がくるまえにこっそりと忍び出てしまいたかっただろう、あるいは逆かもしれないが。

つまるところ、日常生活の閉じた領土からこっそり去ってゆくことと戻っていくことへの間の、そして現実逃避と絶対的な義務との間の、この選択というのは、そもそも必要なのだろうか?室伏の方に戻すと、こっそりと忍び出てゆくのではなく、むしろ自分自身を〈外〉に投影する、とは一体、実際何を意味するのか?

おそらくは、室伏の真夜中に対する思考、あるいは彼が言ったように、真夜中についての「思考をへし折る」こと、思考の限界について思考すること、舞踏の限界について舞踏することというのは、正確にはこの選択肢を再構成し、彼がいう「身体の零時、真夜中の身体、零時の思考」における「外」を再考察するための方法である[*10]。ひょっとすると同様の刺激が、バタイユの経済取引における「呪われた部分」、欠乏や生産的消費という限定的なパラダイムを超えた、非生産的浪費、贅沢、侵犯に基づいた経済の考察にも影響していたのかもしれない。

偶然ではなく、彼が〈外〉の意味することの説明を試みる時に、オリジナルのテキストで強調されていたように、室伏は私たちをミシェル・フーコーの『外の思考』へと案内するのだ。[フーコーは述べている]「誘因作用(attirance)は、ブランショにとってはきっと、サドにとっての欲望、ニーチェにとっての力、アルトーにとっての思考の物質性、バタイユにとっての侵犯にあたるものにちがいない。純粋な『外』の体験、それもいちばんむき出しな体験である[*11]

この一連の対応関係は、〈外〉の普遍的な経験として現れるものについての異なる思想体系の間で翻訳、全体的な等価性を見出そうとするフーコーの試みを表しており、ここから多くのことが語られるだろう。ひとまずは、フーコーにならい、〈外〉に対する同様の経験が、とりわけダンスの経験を構成するものであるという仮説で締めくくりたいと思う。

  • 1.室伏鴻「Nijinski à minuit」(室伏鴻アーカイブ)
  • 2.同上
  • 3.同上
  • 4.ステファヌ・マラルメ「イジチュールまたはエルベノンの狂気」
  • 5.同上
  • 6.ステファヌ・マラルメ「YX のソネ」
  • 7.シャルル・ボードレール『悪の華』
  • 8.セーレン・キルケゴール『あれか、これか』第1巻(Princeton: Princeton University Press, 1971)
  • 9.ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』(Editions de Minuit, 1949)
  • 10.室伏鴻「Nijinski à minuit」(室伏鴻アーカイブ)
  • 11.ミシェル・フーコー『外の思考』

ペドロ・エルバー│Pedoro Erber

早稲田大学国際教養学部及び国際コミュニケーション研究科准教授。著書に『Breaching the Frame: The Rise of Contemporary Art in Brazil and Japan』 (カリフォルニア大学出版2015)、『マーティン・ハイデガーの思考における政治と真実』(Loyola/PUC-Rio, 2004)、その他、芸術と美学、文学、哲学、政治思想に関する多数の考察がある。