第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 06

痛みの仮構

クリスティーン・グライナー

皆さん、こんにちは。クリスティーン・グライナーです。ブラジルのサンパウロに住んでいて、サンパウロ・カトリック大学で教鞭を執っています。

室伏鴻は2004年に書いた文章の中で、とても興味深い問いを提起しています。なぜ病んだ身体が踊ってはいけないのか、と。障害者のダンスや盲人のダンスを作るとなると、振付という問題に反するように思うかもしれません。室伏鴻はこう語っています。もしダンスのシステムがあるとしたら、私はそのシステムに反抗するだろう、これはいわばアンチ・ダンスなのだと。私も同じようなことを考えているので、とても興味深く思いました。私はシステムの外で、あるいはシステムの外ではないかもしれませんが、抵抗する運動について思考するいくつかの本や研究者に大きな関心を抱いています。このビデオは正確には講義ではありませんが、この一ヶ月間に私が考えたり学んだりしたことを皆さんと共有できればと考えています。

まず、最初のアイデアは「仮構」についてです。今回のプロジェクトでは「痛みの仮構」をテーマにしてお話しするとお伝えしていました。最近読んで大いに感銘を受けたのが、タヴィア・ニョンゴ『アフロの仮構 黒人の生のクィアなドラマ[*1]』です。ニョンゴは仮構のなかでも、特にアフリカ系の人々の仮構について考えている著者で、物語と筋書きの間の脱構築を論じています。現実に対処するためにフィクションをどう作るか。ジル・ドゥルーズも、出現するはずのない世界に命を与える、あるいは可視性を与える「偽なるものの力」について語っています。それを踏まえつつ私は、舞踏について、土方以降の舞踏の経験について、思考を巡らせているのです。舞踏とはおそらくある種の仮構であって、フィクションを創造し、具体的な現実に対処するものであるはずです。これは今後非常に興味深いテーマになるでしょう。

さらにもう一つの興味深い世界として、〈クリピステモロジー(Cripistemology)〉に出会いました。これはすでに何人かの著者が探究している論点で、本当に素晴らしい考え方だと思います。例えば、メル・Y・チェンは、『アニマシーズ 生政治、人種的物象化、クィアな情動[*2]』を執筆しています。この本の中で、メルは自分が水銀中毒によって病気になったことを語っています。メルは、脳に霧がかかったような非常に特異な身体状態を経験しました。歩くこと、例えば道を渡ることさえ、きわめて困難だったのです。いわば主体と客体の間にあるような生を経験したことで、メルは「アニマシー(有生性)」という主題に興味を持つようになりました。病気の身体、完璧に動くことや完璧に考えることができない身体を持っている場合、認識論について、認知の領野についてどう考えるべきなのか、ということでもあります。私は「クリピステモロジー」に関する多くのテクストを読み始めました。これは、異常さや奇妙さを感じる何かについての認識論の一種です。正常なシステムや主流から外れた身体状態を通じて、私たちは知についてどう考えうるでしょうか。これは舞踏や、2004年に室伏鴻が書いた短いテクストに非常に近いことのように思えるのです。
 
私はこうした異なるテーマの間の橋渡しをしています。その一つが、これも非常に興味深い本ですが、パック・ブレッヒャー『奇想の美学[*3]』です。彼は近世日本と、北斎や広重などの浮世絵画家について語っています。この画家たちは、日常生活や芸術上のプロセスにおいても、実に風変わりで奇妙だったことを指摘しています。日本の辻惟雄も、同じく奇想について語っています。日本には舞踏に限らず、こうした風変わりな身体に関する経験が沢山あると思います。もちろん、これは日本だけの話ではありません。私は宇野邦一『The Genesis of an Unknown Body[*4]』を翻訳したのですが、彼もまたドゥルーズや身体の様々な表象について語っています。身体は時に、ある種の闇や未知の現実に対処することがあります。これは生の新たな可能性を創造し、目に見えない知を目に見える世界の新しい動きの可能性に変換するために、本当に重要なことだと考えています。ですから私は「仮構」と「クリピステモロジー」という二つの操作にとても興味があるわけです。クリピステモロジーがきわめてラディカルになるなら、認識論という概念にさえ挑戦し始めるでしょう。なぜなら何かを知るために、知のシステムなどおそらく必要ないからです。

これは今日、非常に重要なことなのです、とりわけ私の暮らしている国では。なぜなら、私たちは様々な形で植民地化されてきたからです。ポルトガルの航海士がやって来てブラジルを「発見」したことばかりではありません。私たちは現在に至るまで何年にもわたって、そして今日に至るまで、北側の認識論によって植民地化されてきました。これは権力関係を意味するゆえに、現在において非常に重要な問題です。土方と室伏鴻が日本の公的システム、つまり天皇や為政者のことを語りながら、別の種類の身体、別の種類の動き、そしておそらく病んだ身体に由来する知を探し求めていることは、私にきわめて鮮烈な印象を与えました。そして、この死体の踊りという比喩はとても重要であると思うのです。
どうもありがとうございました。


参考資料
室伏鴻インタビュー(2004)

  • 1.Tavia Nyong’o, Afro-Fabulations: The Queer Drama of Black Life, NYU Press, 2018.
  • 2.Mel Y. Chen, Animacies: Biopolitics, Racial Mattering, and Queer Affect, Duke University Press, 2012.
  • 3.Puck Brecher, The Aesthetics of Strangeness: Eccentricity and Madness in Early Modern Japan, University of Hwaii Press, 2013.
  • 4.Kuniichi Uno, The Genesis of an Unknown Body . A Gênese de um Corpo Desconhecido, n-1 publications, 2012.

クリスティーン・グライナー│Christine Greiner

サンパウロ・カトリック大学で博士課程終了後、近畿大学、国際日本文化研究センター(日文研)、立教大学、東京大学、ニューヨーク大学などの招聘を受けて研究を行う。2010年よりCNPqのシニア研究員。現在はサンパウロ・カトリック大学身体言語科教授として、同大学東洋研究センターやボディー・リーディングシリーズなど多くのプロジェクトや研究機関のディレクターを務める。