第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 01

ジュラルミン・廃墟・クリナーメン──室伏鴻と身体の戦争

堀千晶

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女神よ、わたしの言葉に永遠の魅力を与えたまえ
私が書いている間は、残忍な戦争ごとを
すべての海と陸とにわたって静かに眠らせたまえ
──ルクレティウス

01

ひとはいかなる情況の下で踊るのだろうか。いかなる身体を、いかなる身体で踊るのか。地を這うときなにが起こっているのか。この問いに直接答えることなどできるはずもない。だが、こうした問いを立てる際の前段階として、いや、さらにその手前にあるものとして、身体を取り巻く時代について問うことにしてみたい──さまざまな迂回を経つつ、室伏鴻から遠く離れて。
 ムージル、ブロッホ、ホーフマンスタール、リルケ、カフカといったドイツ語作家を読み、ときに翻訳しながら、作家としての経歴を歩んでいった古井由吉は、二十世紀を戦争の世紀と見なす。この立場じたいは決して珍しいものではない。だが、八歳のとき空襲を生き延びた自身の経験を、いささか強迫めいたしかたで自身の小説に招来し続けた古井による捉え方は、それでもなお特異なものだ。かれは二十世紀が一九一四年に始まったとし、そこから「世界三十一年戦争」が勃発したと見なす。オーストリア゠ハンガリー帝国の崩壊を目撃しつつ、両大戦間期といわれる時代を生きた先述のドイツ語作家たちもまた、戦争の瘴気をじかに呼吸していたことが思い起こされるだろう。古井によるなら、「国家および資本および科学技術の巨大化ということをさきほど十九世紀後半の事柄として挙げたが、これに権力の集中もふくめて、それらが現実に巨大な「機械」となり、当事者たちの制御を超えて、ほとんど自動的に作動しはじめたのが、この時代ではなかったか。そのもっとも凶悪な例がユダヤ人の大強制収容と大虐殺である」。
 さらに古井は、第二次世界大戦終結後の資本主義の「黄金期」と呼ばれる時期と、その後に訪れた新自由主義の侵襲をふくむ半世紀近い期間についても、「戦争」と見なす。かれにとって資本主義と戦争とのあいだには深い連関があるのである。「少なくとも半世紀にわたるこの国の経済成長も、もう一つの戦争であったと私は見る。武器弾薬こそ使わなかったが、あらゆる「大量(マス)」の方法と技術を挙げての、総動員戦であった、と。戦死者もすくなからず、心身の負傷者に至っては数知れぬことだろう」。「敗戦後の困窮から脱け出したいという願望には切実なものがあった。長命の世こそ実現させたが、何を殲滅したと言うのか」[*2]。一九一四年から一九四五年まで、そして一九四五年から一九九〇年代前半に日本が経済破綻するまで、さらにはおそらく今日まで、古井にとっての戦争はその姿を変えながら、一度も途切れることなく継続した。資本の世紀を戦争が隅々まで貫いているのは、もちろん決して偶然ではない。戦争・国家・経済の共依存、労働/戦争への総動員体制、大量の死体を産出=欲望するコントロール不能の社会機械……。資本主義には死の影が色濃く漂っている。
 むろんこのことは、決して日本のみにかかわる事態ではない。たとえばミシェル・フーコーは、『監獄の誕生 監視と処罰』のなかで、「労働」と「軍事戦略」とのあいだの類似を指摘した『資本論』のマルクスを経由しつつ、労働と戦争の結びつきについて論じている[*3]。つまり職場において人を管理することが戦争の技術と結びついていくのであり、フーコーにおいてはそれが身体的規律の技術と連関してゆく。かれは戦争による動員と、経済による動員とが、手をたずさえ、相互に補完しあいながら進んでいくありようを見つめていた。一九七五―一九七六年度の講義『社会は防衛しなければならない』でも、戦争としての経済を扱っている。この時期のフーコーにとって、経済は低強度でも高強度でもありうる戦争である。
 また、イタリアの労働者運動アウトノミアの理論家マリオ・トロンティは、経済の世界化と、戦争の世界化とが連動することを指摘しながら、一九四五年から一九九一年までの期間を、「第三次世界大戦」と呼ぶことを提案する(世界経済と世界戦争)。冷戦構造のなか、大国が直接の戦場となる事態を回避しつつ、しかし周辺の経済規模の小さな国や地域という「ローカル」な場で、戦争が大量に実行されたというのである[*4]。「小規模」とされたり、「些細」なものとされたりする戦争の暴力は、総計すればおそるべき量に達するだろう。そして、ローカルな戦争で無残に傷つけられる身体、しかし大国においては表象されることすらない死体は、たったひとつの「この」身体である。原因としてはグローバルな体系だが、その効果はつねにローカルな局所で起こる。世界システムの論理と、具体的で個別的な特定の身体とが、短絡回路で結ばれるのである。そうした結びつきを生きる身体は、はたしていかなるものになるのか。グローバルな論理によって産出されつつ、グローバルな表象空間から排除される身体は、どういった矛盾を生きることを強いられるのか。資本、労働、戦争をくぐりぬける身体とはいかなるものか。
 トロンティは資本主義の戦争の具体例として、朝鮮戦争(1950-53)、スエズ危機(1956-57)、アルジェリア独立戦争(1954-1962)、ベトナム戦争(1965-1975)、パレスチナ紛争(1948-)を挙げる。二十世紀後半以降の戦争は、人種主義と暗黙裡に結びついた殺してもよい人びと、その死をカウントしなくともよい人びとというおそろしい概念を、脅迫的に反復し続けているかのようだ。この点は、資本主義も変わらない。トロンティはこの第三次世界大戦の始まりはヒロシマにあると指摘する。つまり第二次大戦末期はすでに第三次世界大戦の幕開けだったということであり、戦争は途切れることなく継続したということである。ここで指摘されている原爆をめぐる問いには、のちほど立ち戻ることにしよう。
 トロンティはとりわけ『労働者と資本』において、労働環境のたんなる改善ではなく、「労働の拒否」を主張したことで知られているが、それは当然、労働の《外》と資本の《外》を見据えてのことだった。そこに辿り着くには、労働者が労働者としてのおのれ自身に対抗しなければならないと、トロンティは主張する。労働へと動員されることへの激しい拒絶。それは、社会的な鎖に絡めとられたおのれ自身との壮絶な闘いであり、それをとおした社会そのものとの対決である。いわば、労働者としてのおのれを殺さなければならない──資本の秩序を転覆させるために。トロンティはこう述べる。「十分にこの段階を劇化させ、この矛盾を組織化すれば、資本主義のシステムはもはや機能しなくなり、資本のプランは逆立ちして歩きはじめるだろう。〔……〕労働に抗する労働者運動、労働者としてのおのれ自身に抗する労働者の闘争、労働力が労働になることへの拒絶」[*5]
 室伏鴻のテクストもまた、自己との、制度との激しい闘いの反復である。かれはいかなるしかたであれ、身体を動員しようとするものから、働かせようとするものから、身体を引き剝がし、離脱しようと繰り返し試みる。「無為」を語るかれは、労働すること、働くこと、社会的に機能することにたいして、舞踏をとおして激烈な抵抗を行うのだ──反転し、顛倒した身体で、地面をこすりつけ、ぎこちなく、痙攣し、うめき声をあげながら歩くことによって。

「舞踏について話し出すと人生論になりがちだ」と誰かが言っていた。それは踊りが手仕事を越えて、「肉体労働」であるからだろう。そして舞踏は労働を、肉体まるごと越えようとする……。
どこへ向かってと問えば、それはたしかに人生論かもしれない。「働かぬ者食うべからず」だから。ところが舞踏のリミットには「働かぬモノに成ること」や「モノの生命や流動との交通」があるから。[*6]

 ここで室伏鴻は、(語のあらゆる意味で)「働」かないもの──労働せず、機能せず、一貫性をもたず、計画性をもって動かず、人としての重みや力をもたないもの──になることにくわえて、「モノの生命や流動との交通」にふれている。かれはモノ、事物にたいしてきわめて鋭敏にすばやく反応する。とりわけ、身体を取り囲むもの、身体の表層に付着するものにたいして。室伏鴻の蔵書を収めたアーカイヴ「Shy」には一九八六年刊行の『GS』「特集 戦争機械」もあって、そこには精神病理学者・花村誠一による「死・金属・分裂病」が掲載されており、物質と交感する身体のありようが記述されている。つまり物質が流動し、変形し、粉砕され、散りぢりになるといった事象にたいして、敏感に反応する実存のことである。ここで語られているのは、現実を一方で保ちつつ、空想のなかでだけそうした状態を生きる存在ではない。そうではなく、いわば肉体的な直接的な経験、一次的な経験として、流動や粉砕を生きることである。じぶんの身体がばらばらになるということをイメージとして頭のなかで描くだけではなく、「無媒介的な一次過程」としてそうした身体を実際に生きるということだ。花村が語るのは、物質と交流し交感する「分裂病者」についてである。すこし引用を見てみよう。
 「彼は「飛行機で飛ぶと心臓も肺も溶けてしまう」と語りますが、こういう非常な速度の体験が要請されている以上、もはや身体を器官によって整序してはいられないのです。残された道はただひとつ、「飛行機の、ジュラルミンになる」こと、つまり、いかなる分節も許さぬ気息ないし叫びとしての滅裂言語で語ることであり、これによって身体は一挙に全き統一性を取り戻します。ここに見られるのは、無定型に流動的になれば、そのぶん、特異的に統一体になるとでも言うしかない、アンタンシテ──強度──強度の波動であり、これこそ、彼の体現するアポカリプス的な生存の原理に他なりません」[*7]。金属的なものへの生成変化を、想像のレベルでも、象徴のレベルでもなく、無媒介的にリアルに生きること。こうした物質とのあいだの感応は、たんなる物質のみにかかわるわけではなく、「ジュラルミン」という軍事的な素材や、「飛行機」、さらには「艦船や戦車やジープ」といった語が示唆するように、社会、技術、戦争との身体的な共振であり、「戦争機械群」に「身を合わせ」ることでもある。かれの実存も、身体もいわば、世界規模の戦争機械に刺し貫かれ、物質の力動と切り結んでいるのだ。

02

室伏鴻によるプロデュースのもと、二〇一三年十一月に開催された「〈外〉の千夜一夜」では、『ヒロシマ・モナムール』が上映された。デュラスがシナリオでまず差しだすのは、つぎのような情景である。「映画の冒頭では、ゆきずりの男女が姿をあらわすことはない。女も。男も。ふたりの代わりに見えるのは切断された肉体である」[*8]。よくいわれるようにキャメラは、フレーミングによって被写体を切断し、対象を断片化する。とりわけクロースアップが、「部分対象」を産出する効果をもつとされるのは周知のとおりだ。だが、デュラスのいう「切断された肉体(des corps mutilés)」は、それ以上の不穏な生々しさをまとってもいる。映画よりもシナリオのほうが、手足を失くし欠損した不具の身体を、おそらくいっそう強く喚起する。
 『ヒロシマ・モナムール』では、この切断された肉体をなにかが取り巻いている。それはもちろん「死の灰」の比喩なのだが、実際にフィルム上のイマージュを見ると、「灰」というばかりでなく、きらきらと輝く金属質の粒子のようでもあって、それが胴体や腕の表層を覆い尽くすとともに、宙に舞っている。このイマージュでは、もちろん身体をくまなく灰が覆いにやって来るのだが、それだけでなく、逆向きの動きを幻視することもできるだろう。逆向きというのはつまり、無数の灰や金属質の微粒子へと向けて、身体が内側から分解していくということである。デュラスのシナリオでは、死の灰とともに、身体の内側から分泌される「汗(des sueurs)」が喚起される。つまり外側からやって来るだけではなく、内側から細かな滴の一粒一粒として出てゆくものがあって、それが灰や金属と混ざりあっているのだ。ここには、フレームによって切り取られることや、四肢を切除されることとは別の、身体の粒子化、原子化のような契機があり、そこで死と生、エロスとタナトスが交錯しているようにおもわれる。皮膚という身体の境界を横断する微粒子をめぐって、ふたつの身体の個体性が希薄化し、混淆し、霧散し、ふたたび凝集するような動きがあるようなのだ。そして原爆をめぐる文脈を踏まえるとき、こうした契機は、原子、原子核、核分裂反応と結びついてゆき、放射線によるミクロレベルでの身体の破断とも結びついてゆくだろう。くわえて原子(論)について付記しておくなら、室伏鴻は、ルクレティウスのクリナーメンについて好んで語っていた。つまり原子の雨が降り注ぎ空間を満たしているなかに、いつしか原子の偏移が生まれて、たがいに衝突しながら出会い、凝縮し、個体を形成し、また分解してゆく。一つひとつの粒の偶然の出会いと別れである。
 デュラスによるなら『ヒロシマ・モナムール』における出会いは、「地理的にも、哲学的にも、歴史的にも、経済的にも、人種的にも、その他の点でも可能なかぎり隔てられたふたりの人間のあいだで」のものだ[*9]。この隔たりによって、たとえば原爆言説のナショナリズムによる囲い込みが、周到に回避されるだろう。この作品においては周知のように、「ヌヴェール」と「ヒロシマ」というふたつの土地の名が喚起され、エマニュエル・リヴァと岡田英次がそれぞれの土地を表象する(岡田英次は映画内で引用される関川英雄『ひろしま』(一九五三年)にも出演している)。この土地の名を文字にするとすぐに気づくのは、「ヌヴェール(NEVERS)」と英語「NEVER」の近接性である。「たがいに打ち明けるべき話もない。もはや身振りもない。/それでもまだ、ふたりは相手に呼びかけはするだろう。どんなふうに? ヌヴェール、ヒロシマ、と(NEVERS, HIROSHIMA)」[*10]。デュラスはNEVERSとHIROSHIMAをテクスト上で文字どおり隣接させ、出会わせる。困難な、すれちがうしかない出会いにちがいない。「決して一度も起こらなかった」と、「ヒロシマ」が出会う、というのは。ある意味で不可能な出会いを、その不可能性において、さまざまな屈曲とともに、『ヒロシマ・モナムール』は繰り返し描きだす。
 ところで、ドゥルーズは『シネマ』において、アラン・レネを記憶の作家、ないしは、物質と記憶の作家として位置づけつつ、記憶の生き遺りや再来の問いを、死者の回帰の問いと関連づける。すなわちレネにおいては死と生が交錯しつつ、死から人びとが舞い戻るというのである。過去は死ぬことも過ぎ去ることもなく、物質として、身体として、ベルクソン的なイマージュとしてそこにあり続け、そしてそれがたえず現在にふれるのである。死をくぐりぬけたものの生が、身体が、レネの映画には立ちすくんでいるとドゥルーズはいう。ドゥルーズは記憶をめぐる問いを、いわば、過ぎ去りながらとどまり、死にながら生きるゾンビ的身体の問いとして立てるわけである。「レネの映画の人物はまさにラザロ的であって、それは彼が死から、死者の国から復帰してくるからである。人物は死をくぐりぬけ、死から生まれ、死に特有の感覚運動的な障害をかかえている。じぶん自身がアウシュヴィッツにいたわけでも、広島にいたわけでもないのに……」[*11]。ドゥルーズが「生ける屍(リヴィング・デッド)」にふれるのは、ガタリとの共著『資本主義と分裂症 千のプラトー』がおそらく初めてだが、この主題は「労働の神話」と交叉させられる。そのとき同時に、強制収容所に掲げられた悪名高い標語をも想起させるかもしれない。
 こうした文脈とどこまで関連するかはまったく定かではないし、ともすればまったくつながりがないかもしれない──ただ、室伏鴻がLIVING DEADに強い関心を抱いていたのはたしかだ。かれは「省略され、隠蔽され、切り捨てられた者たち、すなわち、闇に葬り去られたもの」に呼びかける。

〈Living Dead〉「生きている死者」
Formにとどまっても、Formの崩れゆきに身を浸しても、すなわち、unformalな無定形の流れについても、いずれにせよ、それはliving deadではないか。死を生きることではないか。
外と内の身体の感性sensuality、感受性sensibilityを研ぎ澄ませ、さらに深めれば深める程、その行為はNietzscheの言うように〈解釈された〉=〈誤解された〉真理と真理の間に省略され、隠蔽され、切り捨てられた者たち、すなわち、闇に葬り去られたもの、われわれのノイズ、理解不能なもの、死体発掘の作業にそれは似てくるであろう。
まるで、われわれ自身のそれぞれの墓地をひらき、掘りすすむ、その一挙手一投足が、死を通じて、死との交換によって光り輝く、闇の中からわれわれの輝ける胎児、もうひとつの生を発掘するが如く。[*12]

 ところで一九五九年公開の『ヒロシマ・モナムール』は、一九五八年に撮影された。同年は、原爆史において分水嶺のひとつとなる年である。というのも、米軍が長崎に投下した原爆によって破壊されながら、ぼろぼろの廃墟になった壁や柱として、「瓦壁」として立っていた浦上天主堂(Urakami Cathedral)が、人の手で決定的に(再)破壊されたのが一九五八年だからである[*13]。日本におけるキリスト教弾圧は十七世紀初頭から二五〇年以上続き、長きにわたる苛酷な時と、何度もの「崩れ」(一斉検挙・拷問・虐殺)を経験した。それにもかかわらず信仰の地であり続けた長崎に、数十年かけて一九二五年に完成した浦上天主堂は、爆心地から数百メートルのところにあった。一九四五年八月九日の朝、祝福を授けられた米軍の爆撃機が、もともと予定されていなかった長崎に「偶然」投下した原爆によって、天主堂にいた人びとは全員殺害され、浦上居住のキリスト者のうち七割近くが亡くなった。浦上天主堂の遺構は、こうした死者たちの物質=記憶であった。レネが「記憶」の作家だとして、しかし、一九五八年の『ヒロシマ・モナムール』撮影と同時期に、長崎における原爆の記憶としての天主堂の廃墟は、地上から物理的に抹消された。記憶をめぐる戦争は一九四五年以降も継続し、災厄のうえにさらなる災厄が塗り重ねられた。浦上天主堂の遺構の破壊は、この遺構が将来にわたって帯びうる神学・政治的な意味へのおそれとともに、原子力の「平和利用」が主張されはじめた冷戦下の政治・経済・軍事的な情況のもとでおこなわれたものだろう。日本においては原爆の被害を語る言説が度重なる非難にさらされており、反共諸勢力は国境を越えて天主堂「再建」の資金集めに協力した。傷跡は消し去らねばならない。こうした抹消のポリティクスは、二〇一一年以降の日本において反復されることになるだろう。
 ここで同時に注目したいのは、ヨーロッパの諸言語のなかでの「身体」概念の意味上の幅である。« body »(フランス語の« corps »)という語は、「肉体」「身体」ばかりでなく、「物体」を指し、さらには「団体」、「組織」のことも指す。だからこそ、カントーロヴィチの指摘するように、キリスト教には教会を一個の身体と見なすという伝統があるのである。「教会とその構成員を一つの──あるいは何らかの──人体になぞらえる慣例上の擬人的比喩が、これよりもいっそう特殊な比喩、すなわち〈神秘体〉としての教会をキリストの個体としての身体──キリストの真のあるいは自然的な身体──になぞらえる比喩と、並列的に置かれているのである」[*14]。こうした身体概念の伝統に鑑みるなら、破壊されてぼろぼろになった天主堂の遺構を、廃墟としての「身体」がぎりぎりの姿勢で立っていたもの、と見なすこともおそらくできるだろう。「悲しみのマリアの右半分は刻印されたかのように黒く焼け焦げていた。額の左から左目にかけてえぐり取られたような天使像の可憐な顔。鼻筋が通り、形のいい唇がかすかな笑みを浮かべている。顔の上部が吹き飛んだ聖像。立ったまま首から上がまったくない福音史家・聖マルコ像、顔も体も、三分の二が黒く焼けてしまったキリスト像」[*15]。一九五八年には、その廃墟となった身体が、いま一度破壊された。一度目に原爆による破壊がおこなわれ、その破壊の痕跡じたいが、ふたたび破壊されたのである。
 こうした廃墟としての身体に、また別の身体様式をめぐる挿話を連ねることができる。日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエル──ロヨラとともにイエズス会を創始したメンバーの一人──は、一五五二年に亡くなったあとにミイラ化され、死後およそ六十年経ってからその右腕を切断された。ローマに保管されほとんどその外に出たことのなかったザビエルの右腕が、キリスト教伝来四百年記念ということで、原爆投下を背景としつつ、一九四九年に長崎を訪れた。バスク地方出身のザビエルは布教のためにインドに行き、その後中国に渡り、日本に行ってからふたたび大陸に戻り、最終的に中国で亡くなり、遺骸がインドに運ばれ、その遺骸から右腕が切り取られてローマに行くというふうに、生前も死後も「移動」を繰り返したが、その右腕が日本にやって来たのである。古井由吉は、その体験についてつぎのように語っている。「そしてその四百年後の一九四九年、昭和二十四年に、ザビエル来日四百年祭が行われたその機会に、ガラスの容器に納められた、ザビエルの右腕が日本を「再訪」した。その写真を新聞で見て、小学校六年生の私は仰天したものだ。つい四年前の空襲の際に私を怯えさせた、西洋人の徹底性がここにも表れているように思われた。〔……〕教会建立の「基(もとい)」であった聖遺物信仰〔……〕」[*16]
 古井のいうように、たしかに「徹底」している。ザビエルの身体は右腕ばかりでなく、さまざまな箇所が切り取られて、世界中に散らばった。こうした身体の断片が聖遺物、つまり聖なる遺骸ないしミイラとなり、教会の「基」となる。こうした身体の切除と分散をとおして、聖性のシンボルが輸送され伝播していくとともに、そのシンボリックな身体断片が、それぞれの散種された土地において、文字どおり一個の身体として、教会=身体として立ちあがっていくのである。キリストの身体が、全世界的な教会と信徒の組織として、巨大な一箇の身体となって広がっているように、ザビエルの身体もまた物理的に、肉体的に切り取られて、色々な場所に散らばってゆき、神聖な基礎を提供している。複製技術時代において、たとえば一本の映画は、その複製品が一気に全世界に分散して駆け巡り、世界中で同じ作品が異なる文脈、異なる場、異なる時間に観られることになるだろう。だが、ザビエルの身体は複製品ではない。かれの身体そのもの、たったひとつしかない身体そのものが千切られ、散らばってゆくのである。そしてこの肉体の同一性によって支えられながら、時間的かつ意味上の連続性と伝統が、さまざまな土地に有機的に伝えられてゆくのだ。ミイラ化した身体がそこに現前するという戦慄的な明証性とともに。
 そのいっぽうで室伏鴻が、聖なるものについて語る際にはむしろ、同一性と有機性を断ち切られた身体を考えているようだ。「聖なるもの」じたいが、「聖なるものから切り離たれ」てあること、そして「共同的」な「輪」が「千切れ」ること。かれの「身体」概念は共同体をも射程にとらえているが、そこに有機的に組み込まれることを課題にするわけではない。かれは人間的共同体ばかりでなく、「ヒト」であることからも零れ落ちてゆくことを指向する。そして、不具の身体、不具の共同体へと接近してゆくのだ。以下の引用では、主語が省略されている箇所が目立つが、それはまさに、「私」という主語そのものが剝がれ落ちていく過程じたいが、テクスト上で実演されているのではないか。

聖なるものから切り離たれた聖なるものについて考えていた。間チガイや気チガイや擦れチガイについて。あるいは、不具性、片手落ちというようなものの権利に身をよせるようにして踊ってきた。なにか充全に報償されたもの、補償されたものに対しては、いつも懐疑的であった。
たとえば、そこでは音楽にのせて充全に踏まれるステップは、崩折れる。共同的陶酔の輪舞の輪は、千切れる。そこからはぐれて、傾いた斜角で、ヒトともケモノともつかぬ美貌になって跛行しているダンスがあるのだ。[*17]

 「片手落ちというようなものの権利に身をよせるようにして……」。しばしば室伏鴻は、文字を文字どおり読む。比喩や慣用句を字義どおり読む。「片手落ち」という表現においても、かれは字義どおり「片手を落として」、「片手を失くして」ということをも考えているようだ。すると片手を失くした身体と、落下した片手とが、それぞればらばらに、バランスを欠き、揺らめきながら、落下のさなかで踊るところが幻視されてくるにちがいない。もとの身体の一体性や同一性を失い、集合的な身体の共同性から「はぐれ」た状態で。音楽にのったステップとその充全性(音楽への身体の集団的な服従)は、それとともに解体され、「崩折れる」だろう。身体の分節=関節(articulation)もまた「崩」れ、折れるべきでないところで「折」れ曲がり、折れるべきところが硬まって曲がらなくなって、不具合で不揃いな「身体」があらたに構成されてゆく。

私の身体技法のなかに、筋肉・骨・皮を硬直させ、バラバラに解体してしまう、あるいは全身を極限まで硬直させたところで一気に弛緩させる、内部と外部に隔てられた皮膚感覚をメビウスのように還流させ反転させてしまう、というようなものがあるが、毒薬の致死量や、絶対的な速度はいつものんでみないとわからない……一回のみの永遠?[*18]

03

室伏鴻は、「ヒトともケモノともつかぬ美貌」という、境界の地帯に向かっていく。その地帯は、どの領土にも、どの領域にも属さないような、ねじれた時空である。そのかれのきわめて重要な主題に、コスモスとカオスがあり、そのあいだでの往き来がTransit(トランジット)といわれる。コスモスとカオス、秩序と混沌のあいだ。あるいはニーチェに引きつけていうなら、ディオニュソスとアポロンのあいだ。混沌とした千切られたものと、形態原理をもつもののあいだ。室伏鴻は、こうした対比のなかで、コスモスとカオスが互いに力をあたえあうような往還形態を考えている。コスモスはカオスに、カオスはコスモスに乗り換える。その乗り換え、切り替えの過程のなかでのみ、移動が持続するのである。

秩序に命をそそぎこむものこそ混沌であり、混沌に形を与えるものこそ秩序であるとすれば、形式とその外は、とりあえず、共にあるものだといえる。
では、次に、その境界とは……いつでも、ご承知のようにTransit状だ。Transitとは、移行する形態だ。その常態は、ひとつの/あるいは無数の、激動する事態、変容する事態によっているだろう。
それは、運動するものだ。
そしてそれは、事、である。
出来事である。
〈カオス・モス〉といった事態!
未だ、形式の定まらぬ、それゆえ未だ名の定まらぬもの、移りゆく状態にあるものの、その運動性によって、われわれの生は、現実と超現実の流動を生きて来た。[*19]

 Transitとはカオスとコスモスのあいだの移行であり、あいだにつねに留まるものだ。境界を越えた移動があるというより、境界そのものが移行であり、その移行にともなって境界の両岸──秩序と混沌──が変形されてゆく。秩序は微分的な痙攣を繰り返すなかで同じものではなくなり、混沌もそれぞれの時と場でたえずつくりなおされる。室伏鴻におけるTransitは、単純な場所移動の問題ではおそらくない。たんなる場所移動は、保守された秩序内を移動することにほかならないからだ。かれが重視するのは、秩序のなかではぐれることというより、秩序じたいをはぐれさせることである。メビウスの輪のように秩序そのものを混沌へと反転させるとともに、混沌そのものが秩序となる瞬間を見究めること。まるでこの地球上のいたるところを、秩序と混沌のせめぎあう波打ち際に変えるためであるかのように、室伏鴻は移動し続ける。
 ここで言語学者エミール・バンヴェニストによる「言語上の用例における「リズム」の概念」(一九五一年)と、美学者アンリ・マルディネによる「リズムの美学」(一九六七年)というふたつのテクストを見ておくことにしたい。バンヴェニストは、ギリシャ語のさまざまなテクストのどういった文脈で、「リズム」という言葉が使われているのかを丹念に辿ってゆく。この意味で、かれのおこなっているのはたしかに言葉の用例をめぐる史的な研究なのだが、しかしその途上で、かれはリズム概念じたいの転覆を試みている。というのも現代における一般的なリズム概念、すなわち規則的な拍としてのリズム、運動を従わせる尺度としてのリズムというのは、プラトン以降に出来た概念にすぎず、それ以前の用例にまで遡ると、「リズム」の語義としてまったく違うものが見いだされるというのだ。そうした用例のなかには原子論も含まれる。
 バンヴェニストの議論の要点を手短に見てゆくことにしよう。第一に、「人間の秩序を越えて、われわれはリズムを事物にも出来事にも投影する。かくなる「時間」、間隔、回帰にかんする考察をもとにした、人間と自然のこの壮大な融合」[*20]。バンヴェニストは、人間と自然の境界をまたぐものとして、あるいは、動物・植物・鉱物の境界、有機的なものと無機的なものの境界、生ける自然と死せる自然の境界、思考と身体の境界をまたぐ横断的なものとして、リズムを考えている。リズムはあらゆる境界を横断してゆきながら、この境界の揺らぎそのものになるだろう。第二に、バンヴェニストによれば、「リズム」(「ῥυθμός」)が指し示しているのは、「動きやすく可動的で流動的なものによって、一瞬だけ引受けられるフォルムであり、有機的な一貫性(consistance organique)をもたないもののフォルムである。〔……〕それは即興的で、瞬間的で、変容しうるフォルムなのだ」[*21]。バンヴェニストが目指しているのは、いわゆる規則的な拍子としてのリズムを、概念的にずらすことである。かれのいうリズムとは、流動的で、即興的で、瞬間的で、変わりやすいフォルムとそのたえざる変形であり、「有機的な一貫性」をもたない身体が帯びる即興的な越境性なのだ。
 バンヴェニストの提起するこうした論点を受けて、美学者マルディネは、リズムをさらに別の次元へともたらす。すなわち「カオス」をめぐる議論である。マルディネは、パウル・クレーを参照しつつ、カオスからコスモスへの移行を成し遂げるもの、そうした移行を可能にするものを、「リズム」と呼ぶ。リズムはいまや、カオスとコスモスとのあいだに位置づけられるのである。「視線がつかみどころを失ってしまうような、彷徨う線がもつれあう束──パウル・クレーはこれをカオスの例とする──と、飛躍によって一息に創設される起源から光を放つように広がりでる空間とのあいだには、《リズム》以外のなにものも存在しない。リズムによって、カオスから秩序への移行が成し遂げられるのである。ハンス・フォン・ビューローは「はじめにリズムありき」という。《リズム》とは深淵への第二の応答なのだ」[*22]
 この引用につけ加えるべき点があるとするなら、室伏鴻においては、「カオスから秩序への移行」ばかりでなく、秩序からカオスへの移行も同様にリズムだろう、ということである。形態原理の「崩折れ」、そのなかではじめてあらわれる「形態」、そのあいだにある異貌のものを、かれは繰り返し問うのである。カオスへと下降することが形態への上昇であり、あるいは逆に、形態へと崩れ落ちることがカオスへの上昇であるように。ちょうど肉体の飛躍のさなかで、いわば落下しながら上昇し、上昇しながら落下するように。

かたちは 崩折れる
すべてのかたちは、その崩れの只中であらわになる。[*23]

崩壊とともに立ちあがるもの、立ちあがりながら崩折れてゆくもの/危機、それが舞踏である。〔……〕
男たちが ただ崩れる/熱い息とともに 崩れおちる
崩れ落ち 骨を打つ/ただそれだけ[*24]

 最後に、駆け足でルクレティウスについて付記しておきたい。『事物の本性について(De rerum natura)』においてルクレティウスは、身体の器官はなんらかの目的のためにつくられたものではない、たとえば、眼というのは見る「ため」につくられたものではないと述べる。かれは目的論を宙吊りにする、そしてそれによって、身体の各部分を有機的に組織する原理を罷免するのである。ニーチェの系譜学と同様に、ルクレティウスは目的因を解体する。耳についても、舌についても、脛と腿についても、手についても、同様のことがいえるだろう。道具についても、武器についても同様であろう。聞くために耳があり、しゃべるために舌があり、歩くために足がある、というのは、かれにしてみればおかしいのだ。ルクレティウスによれば、事後的に「眼」や「足」と呼ばれることになるような身体がまずある、それはまだ「見る」や「歩く」といった使用目的をもたない。その身体をある一定の仕方で動かすことのなかから、いつしか「見る」や「歩く」という機能が出来てくる。どのような機能が生まれるかはあらかじめ決まっていない。つまり見る「ため」、歩く「ため」にあるとされる器官の発生の前に、見るのでも歩くのでもないしかたで動いていた、用途以前の身体、用をなさない身体、使いみちのない身体があったというのである。ルクレティウスはこうして、決まった用法が剝がれ落ちた器官と、用をなさない身体の動きをもぎとってくる。「なぜなら役に立つようにと体に何か物が生じるのではなく、生じたものが役に立つのだから。〔……〕舌ができて久しくたったのち、始めて言葉ができたのであり、音がききとられるよりもずっと前に耳ができたのである。たしかに体のすべてもその用が生じるより先にできていたものと私は思う」[*25]
 慣習にひたされた身体が所与となっている以上、用をなさない身体は、一種の叛逆、叛乱として、つくりだされるべきものとなるだろう。具体的な情況下での労働の、機能の、有用性の拒否として。それは、徹底的に働かず、機能しない身体であるだろう。いっぽうでこの身体は、既存の用法から逸脱する器官の別のつかいかたを創出し、それをとおして器官の変成をうながすものになるかもしれない。何物とも知れない身体が、ものを見る器官、歩く器官になるのは、尋常ならざる出来事である。そうだとするなら、あらたな用法の創出は、身体の組成じたいを、関節の位置を、ラディカルに変更するはずだ。身体は脱線する、そして、あらたな用法を創造する、ただし、それじたい用をなさない用法を。いわば、無用と用途のあいだでのリズムである。この身体のかたちは、用途の崩折れのなかでしかあらわれないだろう。永遠にはぐれ続ける身体、落下しながら跳びあがり、痙攣する言葉を語る身体。それはリミットでしか、境界でしか踊らない「無為」の身体である。

あらゆる形態への嫌悪があって、それは何か? むしろそれは愛着ではないか──愛着が嫌悪とない交ぜの攻めぎ合い、形態と非形態の間にあって揺らいでいるもの。コトバやカタチになる手前で、すでになにか他のものであるもの。すでにいつも生きられ、交流されている「無為」というようなものにとどけば、と思いつつ踊るのでしょうか。
〔……〕
クリナーメン、よじれる、いつも外れ、別の線上へと偶発するように斜交すること、衝突すること、混成すること。[*26]

  • 1.二〇二一年四月三日の口頭発表時、室伏鴻の引用とほかの著者の引用は、別々の紙に印刷され物質的に分離された。
  • 2.古井由吉『始まりの言葉』岩波書店、二〇〇七年、一六—一七頁。
  • 3.ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳、新潮社、一九七七年、一六五―一七一頁。Michel Foucault, Surveiller et punir. Naissance de la prison, Gallimard, 1975, pp. 164-171.
  • 4.Mario Tronti, De l’esprit libre. Fragments de vie et de pensée, trad. A. Savona, Éditions la Tempête, 2019, p. 112.
  • 5.Mario Tronti, « Lutte contre le travail » (1965), in Ouvriers et Capital, trad. Y. Moulier avec la collaboration de G. Bezza, Christian Bourgois, 1977, p. 322.
  • 6.『室伏鴻集成』河出書房新社、二〇一八年、二七〇頁。
  • 7.花村誠一「死・金属・分裂病 もうひとつのカタトニア論」、『GS・たのしい知識 vol. 4』所収、UPU、一九八六年、三六一頁。
  • 8.マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』工藤庸子訳、河出書房新社、二〇一四年、一〇頁。Marguerite Duras, Hiroshima mon amour, Gallimard, 1960, p. 2.
  • 9.デュラス『ヒロシマ・モナムール』前掲書、一〇頁。Duras, Hiroshima mon amour, op. cit., p. 4.
  • 10.デュラス『ヒロシマ・モナムール』前掲書、一六頁。Duras, Hiroshima mon amour, op. cit., p. 9.
  • 11.ジル・ドゥルーズ『シネマ2』法政大学出版局、二〇〇六年、二八八頁。Gilles Deleuze, Cinéma 2. L’Image-temps, Minuit, 1985, p. 270.
  • 12.『室伏鴻集成』前掲書、一九三頁。
  • 13.『長崎 旧浦上天主堂1945-58――失われた被爆遺産 Nagasaki Urakami Cathedral, 1945-1958 : An Atomic Bomb Relic Lost』高原至・写真、横手一彦・文、ブライアン・バークガフニ英訳、岩波書店、二〇一〇年参照。
  • 14.E・H・カントーロヴィッチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』小林公訳、ちくま学芸文庫、二〇〇三年、上・二六五頁。Ernst H. Kantorowicz, The King’s Two Bodies. A Study in Mediaeval Political Theology, Princeton University Press, 1957, p. 201.
  • 15.高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社、二〇〇九年、二〇頁。
  • 16.古井由吉『始まりの言葉』前掲書、五—六頁。
  • 17.『室伏鴻集成』前掲書、二九一頁。
  • 18.『室伏鴻集成』前掲書、二九〇頁。
  • 19.『室伏鴻集成』前掲書、一四七頁。
  • 20.Émile Benveniste, « La notion de « rythme » dans son expression linguistique » (1951), in Problèmes de linguistique générale, Gallimard, 1966, p. 327.
  • 21.Ibid., p. 333.
  • 22.Henri Maldiney, « L’esthétique des rythmes » (1967), in Regard Parole Espace, Cerf, 2013 [1e éd. 1973], p. 206.
  • 23.『室伏鴻集成』前掲書、九九頁。
  • 24.『室伏鴻集成』前掲書、二七一頁。
  • 25.ルクレティウス『事物の本性について』藤沢令夫・岩田義一訳、『世界古典文学全集 第21巻』所収、筑摩書房、一九六五年、第四巻、八三四―八四二行。Lucrèce, De la nature, trad. Alfred Ernout, Les Belles Lettres, 1920, IV, 834-842.
  • 26.『室伏鴻集成』前掲書、二九〇―二九一頁。