第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 09

ニジンスキー事件

宇野邦一

「私は心で感じることをすべて理性と呼ぶ」
(『ニジンスキーの手記』鈴木晶訳、新書館、p.80)

01

仮に「ニジンスキー事件」というようなものがあったとしよう。世紀のダンサーの出現と消滅。その軌跡は、二つの世界大戦、そしてロシア革命にもかかわっていた。「狂気」によってダンスを奪われ、姿を消したダンサー。その後二度と舞台に立たないまま、晩年の精神病院での跳躍だけがフィルムに記録されている。しかし「事件」とは、それ自体数えきれない出来事の連鎖からなる。「事件」が「伝説」となり、ニジンスキーがその事件の名前となったとき、すでに出来事はその「名」に吸収され、隠され、抹消され、見えなくなる。天才の、狂気のダンサー、奇蹟のような跳躍、「牧神の午後」のスキャンダル、消滅、そして神話。華々しい出現がなければ、悲劇的な消滅もなかった。しかしこれらの出来事すべてが、彼におしよせたことのすべてが、「運命」というようなそれ自体神話的な言葉によって蔽われはしないとすれば、やはりそれは、一個人の厳密な意志にもとづき、選択された生であったかのようでもある。ほんとうは何が起きたのかわからないが、しかし「伝説」は作られた。「神話」となり「伝説」となったことの内実はもはや知るべくもない。じつは何が起きたのか。何も起きなかったのか。何も起きないかのようにして、何かとても重要なことが起きたのではないか。

 「症状」の発現からまもないとき、ニジンスキーは約四十日(1919.1.19-3.3)、集中的にあの『手記』を書き続けた。あたかも彼がなぜ、どのようにしてダンサーになったか、そしてそのダンスがいかなる成功であり、挫折でもあったか、彼自身が『手記』を通じて、そのような問いのすべてを意志的に引き受けようとしたかのようでもある。「狂気」さえも、狂気の「ふり」をすることによって引き受けたと彼は書くのである。しかも彼に起きたことのすべてが、「神の試練」であり、神との対話のうちに進行したかのようでもある。『手記』の大きな主題は、「感情」を肯定し、「知性」を批判し、「理性」と「感情」の結合を確かめることである。彼にとって「心で感じることはすべて理性」なのである。そしておそらく、もう一つの大きな課題とは、〈死〉を理解することである(「私は死にたくないから死のことを考える」)。そして確かに「感情」にとって、とりわけ「愛」と「性」は大きな問いにちがいないが、「愛」と「性」はつねに葛藤的な関係の中にある。

 これらの問いそのものが、ニジンスキーの精神を引き裂いていたにちがいない。しかしニジンスキーはなぜ狂気に(おそらく典型的な統合失調症に)陥ったのかわからない。そのような問いに引き裂かれた精神がすべて、そのような症状を呈するわけではないからである。はたして彼の精神が、何をどのように生きたか、『手記』を読むものはそのことをかろうじて推測しうるだけである。当然ながら『手記』の読み方は何通りもあるだろう。

 一つはまさに症例として、病跡の記録として(精神鑑定でもするように)読むことである。もちろんこれはニジンスキーが望んだ読み方であるはずがない。精神病理学や精神分析学の見識はもちろん示唆するところがありうるとしても、それがニジンスキーの精神を、狂気を、ニジンスキーとは誰なのかを、本質的に解明したことになってきたかわからない。『手記』の言葉は確かに「病跡」を読み解く手がかりになるだろうけれど、その病のさなかにあり、病と闘っているニジンスキーは、単に病に侵された客体ではなく、ある異様な強度の緊張状態を生きている主体であるかぎり、客体として分析されることを拒否している。『手記』を症例として読むことは、すでに人為的に構成された「読み」である。しかし症候は確かに彼自身によって意識され、同時に彼は症候と戦い、精神を治癒し再建しようとしている(ミシェル・フーコーは症状そのものが、「病因」に対する抵抗の表現でもある、と述べたことがある)。したがって、もう一つの読みとは、正常・異常の判断をまったく排除して、ただ一つの精神の記録として読むことである。ニジンスキーが記録し伝えようとしたこと、その葛藤や相克の過程をまったく「虚心に」読むこと。そういう読み方があってよいはずだが、実は「虚心」ということもあるはずがない。ニジンスキーの思考が引き裂かれていたように、このとき『手記』を読むものの思考も引き裂かれ振動するしかない。

 神が私に命令した。すべては神が望んだことだ。これも『手記』の全体を導く強いモチーフである。しかし神の操り人形だと言うのではない。私は神の中に宿っている。それゆえ私は神である、彼は書く。

 「神と結婚する」と告げてはじめた「最後の踊り」で、彼は「これから戦争の踊りを踊ります」と宣言したということだ。その日(1919.1.19)に書き始めた『手記』の全体が、ある壮絶な「闘い」を繰り広げているともいえる。戦うべき無数の敵がいる。金持ち、貴族、ディアギレフ、批評家、肉食するもの、証券取引所、政治、戦争、ロイド=ジョージ、ボルシェヴィキ、妻の家族……しかし敵はしばしば味方でもあり両価的である。書き手は、ある幻想的な闘争の状態にあっても、あくまで真実を書いていると言い続ける。確かに、幻想なのか事実なのかは、もはや重要ではない。幻想であれ事実であれ、一つの魂が実際に生きたことであり、生きたことでなければ思考されたことの記録であり、それはある戦い、自問自答、対話、宣言、呼びかけ、叫びとして書かれた言葉であり、そのまま読むしかない言葉として読みうるのである。私たちは、読解の観点を決定しがたい状況に身をおくことになるが、ニジンスキー自身がそのような状況のなかで引き裂かれ、揺動しつつ思考し、書いたのである。

 それにしても、まずニジンスキーのバレエがどんな表現であり、出来事であったかをふり返っておくことがどうしても必要である。室伏鴻は、ニジンスキーのダンスそのもの、その技術的側面、そして・演出・振付には、それほど関心を示していないし、それを現代的にリメイクすることも、それを主題とするダンスもめざしていたわけではない。しかし、もちろんその基本的な特徴をふまえながら「真夜中のニジンスキー」を構想していたことは確かなのだ。次のようなメモが残っている。

ダンスが本来持っていた力から どんどん逸れていっている。
実はダンスを放棄したところに ダンスの始まったときの力があるのだ。

我々は どれだけ、いかに、その根源的な力の始原に迫ることができるのか。
その力の始原には 何があったのか。

牧神がいたり スフィンクスがいたり あるいはフェニックスがいたり。

人間の胎児はどこから産まれたかと問う根源的なエネルギーこそが ニジンスキーの  「牧神の午後」という作品が生まれた訳であっただろう。

人とケモノの間にあるもの、
角であり牙であるもの
人間の言葉を失ったもの、 
人間の愛をうしなったもの

──室伏鴻、2014年日記より

ニジンスキーの「伝説的」跳躍が、きわめて印象的なものであったとしても、肝心なことはその跳躍の高さや距離ではなく、もちろん運動能力の問題ではなく、その跳躍そのものがすみずみまでダンスであったことが重要に違いない。妹のブロニスラヴァの記述は、ニジンスキーの動きがどのようなものであったかを鮮明に、本質的に説明している。「ニジンスキーの踊りの驚くべき特徴の一つは、彼がいつ一つのパを終え、いつ次のパを始めたかがまったくわからないという点だった。プレパラシオンは、可能なかぎり最短の時間、すなわち足が舞台の床に触れるその瞬間に、すべて隠されていた。執拗に繰り返されるアントルシャ・シス、アントルシャ・ユイット、アントルシャ・ディスの背景では、振動、震え、羽ばたき、飛翔など、ありとあらゆる動きが彼の身体の中でおこなわれていた。各々のアントルシャの後、ニジンスキーは床に下りて来ないで、上方に向かって羽ばたく鳥のように、上へ上へと飛んでいるかのように見えた。すべてのアントルシャが上方への飛翔に溶け込み、一つの連続したグリッサンドになっているのだった。〔『眠れる森の美女』の〕その青い鳥の踊るイメージには何か魔術的なものが付け加わっていた。〔……〕大きな動きを見せる腕=羽が、閉じたかと思うとまた開き、彼を空中に、彼自身の空気の中に、彼自身の元素の中に、浮かせているみたいだった」(鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』新書館、p.93に引用がある)。

 形式、ポーズ、リズム、幾何学、シンメトリーのような古典美学的規範に対して、何かかなり異質な原理をもつ異質な運動がここでは繰り広げられていた。この運動は、形式にしたがうことのない無形の流動であり、他律的な構成でなく、「彼自身の空気の中に、彼自身の元素の中に」あって、あくまで自律的な生成であり、分割不可能な連続性、連続変化(グリッサンド)である。もちろんあらゆるダンスにおいて高度な技量を駆使する運動(名人芸)は、しばしばこのような側面をもっているにちがいないが、おおむねそれは規範的美学にしたがう副次的装飾的な面である。ところがニジンスキーは、反対にこのようなグリッサンド自体を原理とするダンスを実現していたかのようなのだ。絵画における色彩の自律的「変調」modulation(それは「色価」のように表象の要求に従属する色彩法に対立する)、音楽において音階や調性の秩序を脱し、音そのものが何か物質的過程となるような連続変化を、ニジンスキーは敏感に受け取り、それらに対応するような動きを追求していた。同時代の美学的変容を、必然的で必要な転換として察知し、彼自身の芸術において、それに呼応する技法を発見し洗練していたように思われる。

 そしてもう一つ革新的だったのは、特に『牧神の午後』において、バレエの古典的運動そのものを拒否し、解体し、減速し、古代エジプトのレリーフのような、ある平面性において「ポーズをつなぎ合わせ」、身ぶりをモザイク状に配置する構成を実現していたことだ。いわばバレエの三次元における有機的運動を、二次元に縮減しながら無機化するかのようにして解体し変形したのである。

 『シェラザード』のニジンスキーのダンスについてフォーキンはこう述べていた。「男っぽさが欠けていて〔……〕、奴隷の役にはぴったりだった。原始的な野蛮人みたいだった。それは体のメークアップのせいではなく、動きのせいだった。半分人間で、半分は猫科の獣になったかのように、音を立てずに大きく跳躍したかと思うと、今度は種馬になり、鼻の穴を膨らませ、全身に漲るエネルギーが溢れだし、まるで蹄がついているかのように、荒々しく舞台を踏みならすのだった」(同、p.142-143)。この獣性、野生の表出は、パリに現れたロシアバレエ団が体現したエキゾチズム、オリエンタリズムと一体のものでもあった。これについては、たとえばアフリカの彫刻、仮面、日本の浮世絵などが、西洋近代美術にどのような創造や変形をもたらしたか、想像してみるだけでいい。

 そしてこの平面性、無機性、断片的な身ぶりのモザイクは、『牧神の午後』の最後の場面の、もはやバレエとかけ離れた、緩やかな例外的身ぶりに収斂することになった。「もはやそこには跳躍もなく、名人芸の見せ場もない。ここにあるのは、半ば人間の意識にめざめた獣の身振りと仕種だけだ。彼は立ち上がり、身をかがめ、ひざまずき、うずくまり、ふいに体をのばす。時にはゆっくりと、時にはピクリと、神経的に、ぎこちなく進み、後ずさりする。目は獲物を求めて、胸を大きく広げ、手が開き、閉じ、頭はぐらりと傾き、後ろに反り返る。肉体のあらゆる部分が、彼の心をよぎる動きを表現する」(ロダンの評言、同p.194)。こうしてもはやロマン主義的精霊ではなく、肉それ自体の重さと濃密さに密着するかのような身ぶりの舞踏が実現された。

02

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』はまさに〈ニジンスキー事件〉の唯一の文書として『手記』を引用している。「反キリストは、〔排他と制限の師匠である神とは〕逆に一主体が可能なかぎりあらゆる述語を遍歴することを規定する変身の王子である。私は神であり、神ではない。私は神であり、〈人間〉である。ここでは派生した現実の否定的な離接を、〈神-人〉という根源的な現実において超越していくような総合が問題なのではない。むしろ一項から他項へと漂流し、その間の距離に応じて、それ自体で総合を実現するような包含的離接disjonction inclusiveが問題なのである。」(『アンチ・オイディプス』上、河出文庫、p.131)

 要約するなら、『手記』の三つの書法、論理はとりわけ次のようなものである。

(1)「私は泣き声をあげるが、私は牛ではない。私は泣き声をあげるが、殺された牛は泣き声をあげない。私は神であり、「牛」だ。私はエジプト人だ。私はヒンドゥー教徒だ。私はインド人だ。私は黒人だ。私は中国人だ。私は日本人だ。私は異邦人であり、よそから来た。私は海鳥だ。私は陸鳥だ。私はトルストイの木だ。私はトルストイの根だ。トルストイは私のものだ。私はトルストイのものだ。トルストイは私と同じ時代に生きた」(『手記』p.67-68)。これはまさに「述語の遍歴」にあたる論理、Aであり、Bであり、Cであり、……というもの。

(2)「私は牛ではない。私は牛だ」。Aであり、Aでない、という包含的離接の論理、その追求。むしろAになること。牧神であるのではなく、牧神でないのでもなく、牧神になること。狂人になること。生成変化(なること)の論理でもあるこの「離接」は、排中律のない別の次元に言葉を導く。それは決してカオスではない。Aであり、Aでないことによって、言語の別の平面を実現することが必要なのだ。

(3)そして「私は牛だ、と私は書く」。ニジンスキーは、つねに自分が「書いていること」を強く意識している。手記に書かれる言葉自体によって、ひとつの言語面が創造されている。もはや命題(真偽の判断)のために書くのではない。「あらゆる言葉を話したい。だができない。それで私は書く」。「私は……である、と書く」。こうして、まったく異なる用法(文法)をもつ、異なる言語の地平を実現している。同時にそれは、私は狂っているのかどうか、そのことを慎重に計り、理解しようとする言葉でもある(ニジンスキーの「神経の秤」)。こうして精神の葛藤をくぐりぬけ、愛の肯定か否定か、真実か虚偽か、正義か悪かといった排他的「離接」を脱すること。そのための試行、闘争が続行され、言語・思考の平面が解体され、同時に別の平面が実現されている。 

 最初に出版された『手記』では、あからさまな性的言及や、人物に対する中傷に類する部分が、そしてきわめて簡素な語彙で書かれた詩が、妻ロモラの配慮によって、ほとんど削除されていた。当然、ニジンスキーが娼婦を買ったというくだりも削除されていた。そしてバレエ学校の有望な生徒であり、金持ちの男爵の愛人になった少年時代。やがて次の愛人ディアギレフとの出会いが、ニジンスキーの運命を決定することになったことにも触れている。どうやら「売春」は、ニジンスキーの『手記』の強迫的主題のひとつである。「私は神の道具である」、「私は金持ちが好きだ」(『手記』p.83)、「私はディアギレフを愛していなかったが、彼と一緒に暮らした」(p.162)、「ディアギレフが傷つけたのは私であって、あなたがたではなない」(p.164)。ニジンスキーはその肉体とダンスの才能と「ひきかえに」、芸術、富、栄光を手に入れることになる。しかしディアギレフと別れ自立しなければ、彼にとって芸術家として、人間としての完成、そして愛の完成はありえない。ニジンスキーは、そこまで彼自身の性的芸術的状況をつきつめていたと想像できる。こうしていくつものダブル・バインド(愛の理想-性的罪悪感、自由人-被支配、成功-挫折)の状況が重なりあっていた。ロモラとの突然の結婚(愛の実現)により、その状況から一気に脱出しようとしたのか。結局、彼はバレエ団を解雇され、ダンサーとして破滅の道を歩むことになった。この一連の出来事は、病跡の追求(または精神分析)にとっては重要な手がかりになりうるが、むしろニジンスキーを悩ませた葛藤の中心には、「交換」という問題があったのではないか。

 資本主義的交換は、労働と貨幣の等価交換の次元をはるかに超えて、性的、肉体的、美的な次元に及ぶものである。「売春」は、単なる例外的周縁的交換ではない。「成果oeuvreを生み出し、価値に変える労働は、これに正比例して、その行為者の価値毀損dépréciationを増大する」(マルクス『経済学・哲学草稿』、これはデリダのアルトー論の注に引用されたマルクスの一行である)。肉体、魅力、美は「生ける貨幣」(クロソウスキー)であり、普遍的商品でもあり、あらゆるものと交換可能である。美的芸術的詩的価値もまた交換や取引の対象となり、たえず価値の創造をうながし、また価値の体系を混乱させている。この次元で等価性の原則は無効である。つまり資本主義的交換の原理的等価性はたえず破綻し、価値の基準は錯乱し、この破綻、錯乱は常に進行している。交換の増殖、加速、交換からの逸脱、交換の脱領土化が起きている。ランボーは、市場を混乱させる「新しい肉体」の売買についての詩を書いていたのである(『イルミナシオン』の「大安売り」、そして詩を棄てて商人となったランボー)。ディアギレフとの金銭をめぐる「訴訟」についてニジンスキーは書いている。証券取引所に行き、株で大儲けし、市場を破壊し、無制限の贈与をしたいと『手記』で繰り返し書いている。神、愛、そして交換価値の破壊をめぐる幻想は、ニジンスキーの葛藤の中心に位置していたようなのだ。

 しかし神とダンスは区別されなければならない。「私はキリストとは異なった習慣を持っている。彼は不動を愛した。私は動きと舞踏を愛する」。交換は本質的に不等、不均衡、そして不当、不正である。そのことを暴くこと、交換によって交換を破壊すること、ニジンスキーの舞踏はその真っただ中に立ち、横たわり、そこに別の舞踏が始まる。交換の狂気、狂気の交換、その闘いの只中、真夜中のニジンスキー。

宇野邦一│Kuniichi Uno

1948年、松江市生まれ。フランス文学者・批評家・前立教大学映像身体学科教授。身体論、身体哲学を焦点としながらエセーを書き続けている。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『映像身体論』(みすず書房)、『政治的省察』(青土社)、訳書にドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』、アルトー『神の裁きと訣別するため』(河出文庫)、ドゥルーズ『フーコー』『襞』、ベケット『モロイ』、『マロウン死す』、『名づけられないもの』(河出書房新社)などがある。