第一部

Symposium

室伏鴻と苛烈な無為 Vol.2 「真夜中のニジンスキー」へ

Lecture 10

室伏身体あるいは観念発光体

江川隆男

ダウンロード:配付資料(PDF)


導入

 江川と申します。よろしくお願いします。
 編集者の阿部晴政さんからのお誘いで、今回話すことになりましたが、私は、主にスピノザやニーチェ、ドゥルーズを中心に西洋哲学を研究しております。今日は、まったくの門外漢ですが、室伏の映像を見て考えるところもあり、また宇野邦一さんの言葉を借りるなら、室伏の「分身」としてのテクスト、『室伏鴻集成』(二〇一八年)を読んで、色々と触発されたなかから、なるべくまとまった話をしていきたいと思っております。
 はじめに、スピノザにおける精神と身体の並行論について簡単に説明したいと思います。人間身体は、西洋哲学においては、長い間、十全に考えられてこなかったし、また正当に評価されてもこなかったと言えます。哲学は、ほぼ精神しか、しかも人間の精神しか考えてこなかった。なぜでしょうか。精神は魂として永遠であるが、これに対して身体は精神よりも劣ったものとして、つまり可滅的なものとして考えられていたからです。ところが、スピノザは、一七世紀において、精神と身体は同じ価値を有すると考えました。人間は精神と身体からできている以上、この評価は当然のことではないでしょうか。しかし、この評価は、人間についてだけでなく、スピノザの場合、あらゆる個物について妥当します。身体(=物体)があればそこには必ず精神がある。また逆に、精神があれば必ずそこには身体がある。これが心身並行論の考え方です。自然においては、どちらか一方だけでは、けっして存在しえないというわけです。つまり、精神だけのものとか、身体、物質だけのものは、自然のうちには存在しない。或る個物を物体としてしか理解しないことは、言い換えると、精神がそこには存在しないと考えることに等しい。しかし、並行論は、精神と身体の二つの側面から個物が成立すると考えます。こんなふうに考える哲学者は、誰もいません。重要なことは、身体は延長物であり、精神は非延長的な観念からなる以上、両者は相互にまったく異なっているが、しかし存在論上の価値は対等であると理解することにあります。
 そうなると、当然、人間の精神についての理解もこれまでとはまったく違ったものになります。というのは、精神を考える際にも、並行論である以上、絶えず身体をも必然的に考えなければならないからです。そんな哲学的思考が成立するわけです。しかしながら、並行論というのは、単に人間の精神と身体が、心と体が、単に並行的な対応関係にあるということではなく、むしろこの両者の動きや移行の実在性が並行論的に存立することを意味しています。身体の運動は空間的ですが、では精神における動きや移行はどのように捉えたらよいでしょうか。例えば、感情が精神におけるそうした動きとして捉えることができます。身体の運動と感情の移行。感情は、精神において観念として表現されるものです。身体は、自らの外部に存在する諸物体からの多様な触発がなければその実存を維持することができません。身体は、本質的にこうした外部からの触発あるいは変様のもとに存在する一つの多様体であると理解できます。こうした身体の触発あるいは変様に対応するのが、まさに精神における〈感情‐観念〉だということになる。
 スピノザは、一七世紀に反道徳主義的な〈エチカ〉を書きました。ドゥルーズもまた、アントナン・アルトーの「器官なき身体」という概念を引っ張り出して、スピノザ主義の延長線上に、二〇世紀の新たな〈エチカ〉を創建しようとした。私はそのように考えて、この両方のよいところをさらに引き延ばして、これからの〈エチカ〉を考えたいとつねに思っています。身体を含まない唯物論は、もはや悪しき観念論にしかならないでしょう。観念は、むしろ唯物論における自然の力能と必然性の表現なのです。身体の存在に配慮することによって、人間そのものの理解も劇的に変化することになるでしょう。
 私は、以前に書いた『死の哲学』(二〇〇五年)のなかで〈アルトー問題〉という考えを提起しました。この本の表紙は、アルトーとスピノザの姿が二重写しになっています。両者には身体についての共通の思考がありますが、それと同時にスピノザから遠ざかっていくアルトーが存在するのもたしかです(至福に対する残酷)。今回、この『死の哲学』と他の諸論文を含めた『残酷と無能力』という本を出すことになりました。この表題は、まさにアルトーのものだと思っています――〈残酷〉という情動と〈無能力〉における力能という問題。これらが死のテーマと関係づけられて論じられています。今回は、とくにこの著作との関連で室伏鴻についてお話することになります。

心身並行論の最小回路

 宇野邦一さんの『土方巽』(二〇一七年)という本がありますが、その副題は「衰弱体の思想」です。これは、衰弱していく身体、焼尽していく身体の思想です。土方の「舞踏行脚」に、「猛烈な衰弱体とでも言うべきものが私の舞踏の中には必要だったんです」という文章がでてくる。「衰弱体の思想」ということで、ここで言えることがあります。それは、並行論には人間の精神と身体との間の回路の最小化への倫理が本質的にあり、これらには加算的な肥大化する精神とはまったく異なる、減算の思想が流れているということです。それは、言わば〈衰弱体の倫理〉です。
 では、お配りした資料の四頁目の左上の図をまず見てください。まずは並行論をこのように表わすことができます。右側の半円は人間身体、左側の半円は人間精神を示している。身体は一つの延長物であり、したがって延長属性の様態になります。身体は、それが存在する限り、つねに外部の物体から触発を受けて変様する必要があります。これに対して精神は、諸々の観念からなり、物を理解し認識する能力であり、また感情や意志の存在するところであり、これらはすべて左側の半円にあります。観念は思惟属性の様態であり、これら観念の集合体が人間精神を形成すると考えられます。スピノザの精神は、したがって「私」やその「一人称性」や「主体性」といった概念とはまったく無縁のものです。デカルトの有名な言説、「我思う、故に我あり」という「私」など存在しません。『エチカ』は、近代の病である人間中心主義、意識中心主義、主体性の形而上学といった思想傾向から完全に逸脱しています。スピノザは、最初から〈非‐私〉としての「自己」を、〈非‐意識〉としての「無意識」を、〈非‐主体性〉としての「身体性」を考えていたと言えます。要するに、スピノザは、人間について身体を大前提に思考を展開したので、一七世紀において、身体の変様の多様体に対応する精神の存在論的無意識を見出していたわけです。
 この点についてもう少し解像度を上げて具体的に考えていきましょう。資料の四頁目の右上の図を見てください。身体は絶えず外部の物体からの触発を受けなければ、自己の身体の存在を維持できません。これ以上、自明のことはないでしょう。私たちは呼吸し、ご飯を食べ、水を飲み、……。今、皆さん、足が床についていますね。これについての触発もあるはずです。身体をもつとは、つねに触発を受け、それによって自己の存在を維持することであり、これがその第一の意味です。しかしながら、自己の存在を維持するとは、単にその保存を意味するのではなく、それが身体の維持である限り、よりよい触発から自己の存在を維持したいという欲望と不可分なのです。例えば、この暑さのなかで自己の存在をよりよく維持するとは、冷たい空気、冷たい水、外を出歩く際の日陰、等々、自己の身体の活動能力が減少しないような触発を欲望することと一つです。それぞれの人間の日常の過程は、すべて自己の身体の活動能力の増大あるいは減少という変化のうちにある。これが、私たちの存在の実在性を作っているものです。実在性は、それが〈ある〉とか〈ない〉とか言われる以前に、身体の内在的な変様そのもののことなのです。実在性とは、より大きくなったり、より小さくなったりするもの、変様の度合を有するもののことです。これを精神において同様に表現するもの、それが感情です。つまり、身体の変様という度合による表現は、必然的に精神における感情という相互に質的な差異を有するものによって表現されるわけです。
 次に一番下の図を見てください。これは、ベルクソンの『物質と記憶』のなかの有名な図です。どういう図かというと、真ん中に〈O〉と書いてありますが、これは対象(Objet)の意味です。或る対象があり、それが言わば知覚され記憶として成立する。それが〈A〉です。〈O〉と〈A〉は一つの回路をなす。しかし、〈A〉が別の記憶と結びつくことで拡張され、〈B〉になると、その回路は新しいものになる。そうなると、〈O〉は、その記憶とともに新たに知覚されることになり、〈B´〉という実在性がともなった対象になります。つまり、記憶の拡張とともに言わば対象の実在性が深みを増してくるということです。記憶は、私たちの現在の知覚のうちに絶えず降り注いでいます。知覚あるいは認識は、すべて記憶のなかでの知覚あるいは認識だということです。
 さて、ドゥルーズは、『シネマII』のなかでこの〈O〉と〈A〉からなる回路を最小回路と呼びました。それは、言わば巨大化した記憶や習慣の秩序に依拠しない、むしろそれらの基盤となる回路のことです。過去という潜在的なものが現在に現働化する秩序としての巨大回路に対して、この最小回路は、現働化なき、潜在的なものと現働的なものとの反転があるだけです。私は、これと同じ意義を、あるいはより実践的でプラグマティックな意味を並行論が有していると考えます。それを表わしたのが真ん中の図です。先ほどのベルクソンの図を横に倒したような図ですが、身体と精神が並行論として存立する場が最小回路として存在しているのがわかります。スピノザは、人間精神を構成する観念の最初の対象は自己の身体だと言います。身体は外部からつねに触発を受けていますが、その変様によって自己の身体と外部の物体の認識が成立するということです。身体が変様し、その観念が精神において形成される。このことを示したのが、真ん中の最小回路としての「精神と身体」です。ところが、この図の左側で示したように、人間精神は、物を一般概念で理解したり、習慣のなかで評価したり、記憶を保存したりすることで、絶えず拡大し肥大化していく傾向にあります。つまり、精神は、絶えず巨大回路を形成して外部の存在を認識しようとする。そうなると、当たり前ですが、身体の外部に存在する事物は、今度は最初から概念や習慣や記憶の秩序のうちでしか理解されないものとなる。これによって最小回路は肥大化した精神のうちで忘却され、身体の変様の差異は概念や習慣や記憶のもとでしか認識されないようになる。しかし、巨大回路は、この最小回路なしには、あるいはこの回路に依拠することなしにはけっして存在しえないでしょう。

減算性並行論

 並行論の〈エチカ〉は、身体と精神の最小回路の並行論を形成することにある。つまり、それは、精神の加算的で加速的な肥大化を徹底的に批判して、それらを減算していく方向をもつ理論であり、それと同時に倫理学そのものなのです。加算的で加速的な精神を批判するために最小回路を作動させることは、まさに舞踏がもつ減算する身体、あるいは衰弱体に帰属するものだと言えるでしょう。しかしながら、私としては、このことを個々の領域にかかわるテーマとしてだけではなく、むしろ日常の至るところで減算する力能による最小化の回路が見出されると言いたい。パンデミックを肯定的に考えるなら、まさにそれは、人間の加算的行為が変様する好機であり、また減算する身体と欲望の変質が生み出されるときだと言うべきでしょう。
 資料の三頁目を見てください。踊る身体、それは減算する身体です。身体にはさまざまな存在の仕方があります。食べる身体、走る身体、寝る身体、絵を描く身体、立ち上がる身体、等々、無数にあります。しかし、それらは、言語の分節に対応した、いくらでも加算可能な身体の状態です。しかし、この踊る身体においては、一方ではそれら身体の諸状態の感覚が落下し、また他方ではそれに対応した言語による理解も雲散していく。つまり、この二つの側面は、相互に反転することになる。減算する身体は、既存の動詞に対応した身体の諸状態を焼尽するとともに、精神におけるあらゆる言語的要素を消尽することで、身体の変形の観念を発光させるのである。これが、室伏の踊る身体から浮上してきた図です。そこには、言語行為を減算させる力を有する身体、あるいはその舞踏がある。言葉を適用しようとしても、その身体の運動と静止をうまく表現することはできないでしょう。何を見ているのだろうか。言語の無力を感じるはずです。私たちは、普段から既存の言語を大前提にして物を見たり聞いたりしています。外部のさまざまな物を受容する能力としての私たちの感性は、実は最初から言語化できるもの、あるいは概念の理解が及ぶものしか捉えていないということです。記憶や習慣や言語の網の目のなかでしか物は、認識されていないのです。
 この問題にどのように応答したらよいでしょうか。ここで言えることは、一般概念や言語行為に言わば障害性を感じ取ることです。こうしたことは日常のうちに絶えず現われることでもあり、それらを採集することです。このことにとりわけ積極的に従事するのが、まさに哲学であると言うこともできます。室伏のこの『集成』のなかの「栞」で舞踏家の笠井叡さんが、「あらゆる言語を障害と感じる」という室伏の言葉から〈言語の障害性〉について触れています。この障害を否定的に捉える必要はありません。というのも、障害はたしかに一つの限界ではありますが、しかし限界は、単に否定的なものを示しているわけではなく、まさに新たな事柄が生成する起点となるものだからです。
 言葉の障害は、人間身体の気息へとその痛みは転移していく。身体は、呼吸しています。それは、〈気息〉(souffle)と言われるものです。アルトーは、この気息についてよく言及します。室伏もやはり「息」について書いていますね。現在、私たちは、コロナ禍で自分たちの呼吸を強く意識しています。まさにそれは、〈パンデミック〉による大気の意識化だとさえ言えます。アルトーは、身体の気息を意識し続けました。アルトーが意識する気息は、フランス語の諸形相が身体の現前にあるという認識と不可分です。私たちには、日本語の諸形相、その言葉の形相が前提となって、何の違和感もなく、つねにそこに身体の気息を吹きかけています。どういうことか。例えば、外に出掛けるときに、家族がいれば、「行ってきます」と言う。玄関には「イッテキマス」っていう形相が予めあって、そこに〈ふぅー〉と息を吹きかけているんです。そうすると、「行ってきます」という一連の音が出てくる。発話行為のすべては、至るところでほぼこんな調子です。言語行為は、身体にこうした気息の使用法しか要求していないわけです。ところが、言葉の諸形相とそこに息を吹きかけるだけの身体との間に異様な違和感をもつこと、そして、この特異な、しかし普遍的な問題をまさに身体の気息へと還元しつくすこと、これがアルトー問題だと言えます。身体の気息、それは言わば〈身体の身体〉のことです。俳優は、こうした言葉の諸形相(セリフ)に対して可能な息を吹きかけているだけです。アルトーは、こうした意味での〈身体/気息/言葉〉の間にただならぬ抗争を持ち込んだのです。ドゥルーズは、このことを『意味の論理学』のなかで〈深さ/高さ/表面〉へと転換して論究しました。
 ドゥルーズによれば、アルトーは、気息と言葉あるいは高さと表面を身体の深層へと崩壊させたんだという結論になる。さて、私たちの発話行為が形成する日常は、この三つの位相が調和して共可能的に成立しています。自己の身体は、まさに既存の言葉の諸形相に巧みに息を吹きかけることに終始している。アルトーは、まさにそこに障害を感じて、身体の気息はこうした目的のためだけに存在するのかと問うわけです。これは、別の言語を考えるということなどではありません。それは、むしろ人間にとって普遍的な問題です。何故なら、アルトーにおいては、それら三つの位相の間にむしろ共立不可能な異様な様相を持ち込むことになるからです。言語の障害性は、こうした身体と気息と言葉の問題へと送り返されるということです。いずれにしても、見事に安定した気息と言葉の関係が現に存在する。それが表面と言われるものです。
 室伏の「無能力を踊る」というタイトルの短い文章があります。「無能力」は、冒頭で述べた「衰弱体」と同じものとして理解したい。それは、きわめて重要な減算する力能のことです。私たちは、能力と無能力あるいは長所と短所といった言い方をします。短所は欠点、欠陥ということですね。人間は、一般的には、こうした両側面から形成されると考えられる。しかし、自然のうちには欠如や否定や無はけっして存在しない。スピノザ的な自然主義は、欠如や否定から物を理解したり評価したりしません。無能力や障害ということで理解すべきは、こうした否定性ではなく、つまり積極的に欠如や否定を対象化しようすることではなく、それが有する或る実在性であり、それに固有の変様の仕方です。無能力における力能とは何か。衰弱体とは何を為すのか。言語の障害を起点としてどのようなものがうまれるのか。これこそが、最小回路が有する積極性(スピノザ)あるいは実定性(フーコー)のことです。

反転する身体──室伏身体と観念発光体

 減算する身体、踊る身体は、観念の発光体になる。身体の変様は、同時に精神のうちで絶対に表現される。言い換えると、或る一つの事柄が身体と精神において異なって表現されるということです。では、資料の一頁目の(1)を見てください。「人間精神を構成する観念の対象のなかに起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならない。あるいはその物について精神のなかに必然的に観念があるであろう。言い換えると、もし人間を構成する観念の対象が身体であるなら、その身体のなかには精神によって知覚されないような(あるいはそれについて或る観念が精神のなかにないような)いかなることも起こりえないであろう」(スピノザ『エチカ』、第二部、定理一二)。これは並行論の定理の一つですが、ここで言われている事柄そのものは明解です。人間精神は観念から構成されていて、その観念の対象は身体の変様だということ、これは既に述べました。ということは、身体の変様があれば、それに対応する観念が必ず存在することになる。ここがすごい。これがまさに心身並行論です。観念の対象のなかに起こること、つまり自己の身体のうちに生起するすべてのことは、必然的に人間精神によって知覚されなければならない。知覚と言ったときに、何か意識的なことを考える必要はありません。知覚するとは、第一にそれについての観念をもつということです。観念を有することそれ自体が、その対象の知覚を意味しているわけです。身体にあって、精神にないというものはないし、またその逆もない。そのことを言っているわけです。減算と衰弱の舞踏のうちには、こうしたことを意識させるような身体の変形が存在するのではないでしょうか。
 こうした意味での身体の観念は、いわゆる観念論を形成するようなものではありません。並行論における観念は、きわめて唯物論的なものです。室伏の踊ることによる変形の感覚、それはまさに知覚されるべく観念として存立するものです。「1 だから、踊ること、それは単に踊ることではない。感じることだ。/踊ること、それは変形、そしてそれを感じること。最初に私の身体が、いや、最初から最後まで徹頭徹尾、身体が、〈変形〉へとさらされなければならぬ」(「踊ること――変形すること」)。身体の変形、それはいかなる変形なのか。日常の動きにはないような、単に奇妙な動きをするだけなのか。あるいは、ただ日常の動詞では理解できないような、あまり見たことのない身体の運動があるだけなのでしょうか。身体の変形とは、私たちの物の理解の仕方の変形にまでとどかなければならないということではないのか。減算する踊る身体は、言語を消尽して、それによって観念の位相を現前さることができるのだ。そのとき観念は、まさに発光する身体になる。
 観念は、第一次的には身体の感覚についての情動のことです。スピノザが言う「情動」とは〈affect〉のことであり、これは「情緒」(emotion)や「情感」(sentiment)とはまったく異なるものです。身体の「変様」は、〈affection〉です。つまり、変様と情動は、ほぼ同じものの異なる表現なわけです。身体の変様は私たちの活動する力能の増大的あるいは減少的変化として現働化しますが、これらは言わばこの力能の度合の変化ということです。しかし、自己の身体におけるこうした差異的変様の度合を直接に認識することは、ほぼ困難だと思われます。つまり、身体の変様における度合の差異は、精神においてはむしろ情動という質的差異の観念として存立することになるわけです。喜びや悲しみ、愛や憎しみ、希望や恐怖、同情や妬みといった情動――精神における質的な諸差異――を内包するのがまさに観念なのです。このように考えると、例えば、怒りや嫉妬や憎しみといったネガティブな感情も、実はすべて自然の力やその必然性が精神のうちに表現されていることになります。情動のすべては、物の認識の仕方です。そのものが自分にとって良いものであるのか、つまり身体の活動能力を増大させるものであるのか、あるいは私たちを身体の活動力能を減少させて、悲しみへともたらす悪いものなのかというのを、概念的理解に先立って自己の存在に伝えるもの、それが情動なのです。私たちにはこの〈変様/情動〉の最小回路がつねに作動しています。その上に記憶や習慣や一般概念などの秩序が、多層化して積み重なっている。身体においてその変様が本質的な存在の仕方である限り、精神において最初に構成されるのは情動の観念です。
 次にいきましょう。「2 〈変形〉、それはまず、破壊でありそして生成である。/そこには必ず、移行・移動がある」。そうだと思います。それ以外にはありえない。しかし、何がいったい移行するのか。それは、すでに述べたように、実在性が変化することです。破壊と生成の度合、それはいつも実在性の移行の問題であり、それが変形に秘められたものだと言えるでしょう。「3 踊ることは、踊り始める前に、すでにその変形とともにあらわれる。/私が非‐私へと移行しようとするその移行の中に踊りがひそんでいるのだ」。室伏における〈踊ること〉と〈変形〉との間の生成のブロックが徐々に明らかになります。第一に踊ることは、変形のなかにしか存在しない。第二に踊りは、私ならざるものへの生成変化をともなう限りでしか存立しえない。ここには、苛烈な変形をめぐる身体と観念の反転のドラマがあります。

死骸になる前の死

 私や主体性の消尽、それが次の見事な言説で言われていることです。「5 その度毎の変形において、/私とは、死につつあるもののことだ。そして破壊されるかたちと破壊する力の双方を同時に生きつつあるもののことだ。/しかし、私に死の引導を渡す力こそが、私を非‐私の生成へとつなぐ力でもある」。身体を基本にして考えると、死のイメージはつねに付きまとうものです。身体は、つねに〈死のモデル〉になりうるからです。精神だけを特権的に考えている哲学は、魂は永遠だとか不死だとか言って、死をむしろ忘却し排除することになる。あるいは死の意識を媒介とした限りでの生の充実をひたすら訴えかけることになる。これに対して身体の変様は、積極的な意味での死のモデルになりうる。それは、言い換えると、死体になる前の死の存在を肯定すること、あるいは死骸になる前の死に等しいものを評価することにあります。室伏は、このことを、破壊される形相と破壊する力の両方を生きるということで述べているように思われます。
 スピノザは、明らかに死骸になる前の死を認めている。つまり、現代風に言えば、スピノザは、脳死も人の死として認めるでしょう。死体になることだけが死ではないと考えるなら、死体になる前の、つまりそのような死に等しいものは何かという問いも生じるでしょう。スピノザは、死骸になる前の死を多様に考えていたと思います(このことが、私が『死の哲学』で考えていたことです)。室伏の、こうした変形や死の問題、あるいは破壊の問題も、こうした問いのもとで展開可能だと思われます。「6 だから踊りは、それ自身の振動のなかで、生へも死へも結ばれた力の両義性を生きる。変形しつつある身体の痛みを、その変形をもたらす「なにものか」と共有する境界の体験なのだ」。

別の身体へ

 ほとんどの哲学者が考えていたのは、「別の精神へ」という問題です。つまり、精神を高めること、ほとんどの書物がそのために書かれていると言ってもよいでしょう。そして、それらが共通に有しているもの、それが弁証法的思考です。つまり、否定を媒介にしてより価値の高い優越的なものに移行すること、つまりは〈否定性の優位〉の思想です。「別の身体へ」という問題提起など哲学には皆無です。しかし、スピノザは、『エチカ』のなかでこのように問いました。こんな哲学者は他にはいません。アルトーも同じように、「別の身体へ」を絶えず思考していました。室伏も「別の肉体へ」と言っています。これは、別の身体の状態が問題なのではなく、現に存在する身体から別の身体への移行が生起することの重要性を意味しています。この移行過程そのものを生きること、要は室伏の言う絶えざる身体の変形のことです。アルトーの「演劇と科学」というテクストは、私にとってもっとも重要なテクストの一つです。「人間の身体が死ぬしかないのは、ひとがその身体を変形し、変化させることを忘れたからである。/それ以外は、人間の身体は死にもせず、砕かれもせず、墓場に葬られもしないのだ/‥‥/人間の身体は不滅であり、不死である。そしてそれは変化するのである。/‥‥/或る身体から別の身体へ/身体の衰えた無力の状態から/身体の強化され、高められた状態へ」。変形を肯定する室伏は、アルトーと完全に共鳴し合っています。身体に死が到来するのは、身体の変形を忘却したからだというわけです。〈身体への配慮〉は、第一に別の身体への移行にあると言えます。ということで、これによって有機的な身体から非有機的な器官なき身体への移行を捉えることもできるでしょう。ということは、ここで言われる「強化され、高められた」身体は、むしろ有機的身体においてはほぼ無能力の身体だということです。
 次にスピノザの言説を見てください。「われわれは、この生において、とくに幼児期の身体を、その本性の許す限り、またその本性に役立つ限り、もっとも多くのことに有能な別の身体、そして、自己と神と物とについてもっとも多くのことを意識するような精神に関係する別の身体に変形させようと努める」。言い換えると、幼児期の身体から大人の身体への変化は身体の触発の多様化を示していますが、この多様化と並行論的に精神は自己と神と物とについてより多く意識するよう努めると言われている。つまり、こうした意識をもつ精神は、幼児期の身体から大人の身体への変化を、単なる成長としてではなく、まさに〈別の身体へ〉の変形として理解しうるということです。室伏は、次のように述べている。「いつでもない〈今〉、どこでもない〈ここ〉。/肉体の外へ出て行ってしまった肉体。/別の肉体、別の言葉。/あるいは、自己の肉体を自ら喰い尽くし、自己という姿形を消失したまま、〈無という状態で在る〉肉体」(「私にとって〈技術〉ほど無縁の観念はない」)。ここでは、「別の肉体」という問題は、本質的に「外」の存在あるいは非‐存在に、「無という状態で在る」身体に関わるということです。いずれにしても、これらのテクストには身体の変形についての共通の問いが内含されているように思われます。

墓場

 さて、死を考えると、墓場を意識せざるをえなくなります。つまり、葬られるということです。アルトーは、墓場に葬られることのない身体の変形を肯定していました。室伏は、「真夜中のニジンスキー」というテクストのなかで面白いことを言っています。「生きるとは、身体=力の「切実さ」の〈運動〉である。それは、その切実さによって感染する。エフェメラル、はかない。はかないとは、〈墓がない〉ことなのだ。自身の身体が墓である」。いいですね、感染すること。これは、今や系統的な系列を完全に否定する新たな組合せの観念です。ドゥルーズ=ガタリは、生殖による系統的発生に対して、感染によって他のものと組み合わさることを肯定的に論じました。ところで、この身体の切実さの運動とは何でしょうか。しかも、それが生きることである、と言われている。考えるべき問題だと思います。ちなみに、室伏においては、すでに自己の身体が墓場である以上、その身体はそれ以上に葬られることはないと言えるでしょう。
 古代ギリシアの思想ですが、〈ソーマ・セーマ〉(soma sema)説というのがありました。ギリシア語の「ソーマ」は身体、「セーマ」は墓場という意味です。つまり、「身体は墓場である」ということです。身体が死体になったら、精神はその墓場としての身体から出て、魂として永遠の世界に戻っていく。つまり、身体は可滅的であるが、魂は永遠である、と。その意味で身体は墓場だということになる。ピタゴラス派はまた、死骸としての身体から出ていけない魂もあるという意味で、身体は墓場であると捉えていたようでもあります。これらは、いずれにしても、前哲学的な常識のうちで、つまり身体を否定的な存在として最初から評価したなかで成立する思想です。
 ところで、ギリシア語の「セーマ」は墓場という意味ですが、これは何の語源か。それは、記号(sign)の語源です。記号は、そもそも墓場だということです。記号は、まさにすべての物の墓場(しるし)なのです。というのも、物は、すべて記号のうちに固定化され、あたかも死を迎えているようです。記号は、生成変化とはまったく相反するものです。私たちは、身体だけではなく、至るところに物の墓場を作って、そのすべてを記号化して理解しているわけです。ということは、記号論は墓場論なのです。それゆえ記号論に対してその破壊を企てようとする反記号論の思考があるわけです。スピノザもアルトーも、あるいはドゥルーズ=ガタリも、こうした意味での記号論の破壊者です。反記号論は、まさに脱墓場論になるわけです。
 そこで、〈ソーマ・セーマ〉の双方に否定の接頭辞を入れると、〈アソーマ・アセーマ〉(asoma asema)説がただちに成立します。つまり、これは、〈非身体的なものは、非記号である〉という初期ストア派の考え方でもあります。非身体的なものは、並行論で捉えると明確にわかりますが、人間精神における観念になる。非身体的なものは、非意味的作用を有していて、それがまさに観念の作用です。これらを引き出すことが身体の存在の仕方にかかっているわけです。記号の意味から観念の作用へと変移する一つの動因となるような身体の触発、それが身体の変形だということです。どのような速さと遅さ、あるいは運動と静止をもって自己の身体を変形させるのか、それはいかにして観念が発光するのかと問うのと同じことです。それが知覚するということです。〈別の身体へ〉の知覚をもつ者たち、スピノザ、アルトー、ドゥルーズ、土方、室伏、等々。あたかも異なる過程が、一つの同じ共通概念を形成していくかのようです。

変形のなかの無限

 最後に、「無限」についての考察に触れたいと思います。「肉体はここにあって届かない。一番近くにあって無限の遠さにあるもの」。「無限の近さと無限の遠さにあることは、距離を生きることだ。いつもそれが隔たりとして在るということだ。/私たちは無限であることからは、無限に隔てられている。/私たちは隔たりを無限に数え、無限に意味づけることができるだけだ。/つまり私たちは終わることが無い、終わることができない、/近さや遠さを数えたり、意味づけしたりしつづける/私である限り、隔たりこそ無限である。/私とあなたが、切り放たれてあること、そのことが無限である。/ところで、無限とは何か? 無意味である。いかなる意味も数値もそれにとどかない無意味である。/有限であるとは、意味であることだ。/そして、私たちが有限であることが、もう一つの無限である。/えっ、無限が二つ?」([肉体はここにあって‥‥])。私自身、この後を書きたくなるようテクストです。「えっ、無限が二つ?」、そんなことはない、無限はむしろ無限にあるはずだ。第一の無限は外部にある無限ですが、第二の無限は有限なもののうちに存在する無限のことです。しかし、第一の外の無限、つまり距離の無限あるいは無意味の無限が、この後者の有限のうちにある無限だと考えられます、要するに、人間身体という有限な様態のうちにしか存在しえない無限の変化である、と。すなわち、有限なものにおける無限の変化。それは、有限のうちでこそ存在しうるような、無限がより大きくなったり、より小さくなったりするような変化のことです。有限な身体は、この無限な内包的変様を表現する形相だということです。私がここまで述べてきた、「減算する身体」、「別の身体へ」、「身体の変形」、「衰弱していくこと」といったものは、すべて有限なものにおけるこうした無限の変化の、あるいはそのリアリティの問題だと言えます。無限の変化が、知覚され、リアリティをもつということです。室伏のテクストから、身体における無限の量、無限の度合、無限の変化、等々の観念に触れることができるように思われます。

終わりに──器官なき身体について

 最小回路あるいは衰弱化を器官なき身体について言えば、それは、むしろ〈落下すること〉にあります。舞踏の身体、踊る身体は、たしかにこうした器官なき身体の擬態になりうる。器官なき身体は、それ自体としてはけっして存在しえない。それはまた、イメージなき身体だとも言えます。しかし、器官なき身体の強度的部分は、感覚あるいは知覚のなかに含まれているものです。
 例えば、四五度のお湯に手を入れて、しばらくしてお湯から手を出したとします。そうすると、手の感覚のなかの四五度という度合は、徐々に変化して、自分の元の体温の三六度の感覚に下がっていくと考えられます。しかし、ここには、この感覚可能な系列とは別に、感覚不可能な、しかし感覚されるべきものがあります。それは、四五度という温度そのものがもつ強度です。つまり、その四五度という感覚の度合そのものの消滅、言い換えると、〈強度=0〉への落下のもとでしか存在しえない度合、それが強度なのです。第一の系列にはまさに有機的身体における感覚の変化の総合があります。しかし、第二の或る感覚の強度そのものの落下は、むしろ非有機的な無限に変化する身体を備給し形成するものです。器官なき身体それ自体はあらゆる強度の原理としての〈強度=0〉ですが、しかしそれは、無限に多くの強度を産出し、かつそれら強度が無限に落下する限りでそのように考えられなければならない。落下は、距離の変化の観念を要求していると言えます。室伏の「無限」というとき、それは明らかに距離ということが考えられていました。この距離が、ここで言う感覚されるべきものです、身体の変様は一方では系列的感覚からなりますが、身体はもう一つの別の感覚されるべきもの、すなわちすべての感覚それ自体が強度として〈強度=0〉へと落下する感覚不可能なものをも有するのです。
これは、唐突な話ではなく、実はカントが真剣に考えていたことです。『純粋理性批判』のなかで、或る感覚の度合は、徐々に漸近的に零になっていくと考えました。カントは、これを〈否定性=0〉と表記して感覚の差異を捉えていくわけです。しかし、結論だけ申しますと、カントの〈否定性=0〉は、いわば相対的な零のことです。これに対して〈強度=0〉は、絶対的なものです。このことは、内包量(質)であれ外延量(量)であれ、それらに対するその感覚そのものが落下していくことです。これによって形成される身体、それが器官なき身体の存在だと言えます。〈私〉の有機的な身体とは別の、〈自己〉の触発の多様体をまさにダンスによってそれらの感覚から構成すること、それは、その都度の反復されるべきものとして、まさに「器官なき身体を作ってやること」(アルトー『神の裁きと訣別するため』)になるのではないでしょうか。
 以上になります。ご静聴、ありがとうございました。

江川隆男│Takao Egawa

1958年生まれ。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。著書に『存在と差異──ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)、『死の哲学』『超人の倫理──〈哲学すること〉入門』『アンチ・モラリア──〈器官なき身体〉の哲学』(以上、河出書房新社)、『スピノザ『エチカ』講義──批判と創造の哲学のために』(法政大学出版局)、『すべてのつねに別のものである──〈身体–戦争機械〉論』(河出書房新社)ほか。
訳書に、アンリ・ベルクソン『ベルクソン講義録 III──近代哲学史講義・霊魂論講義』(共訳、法政大学出版局)、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社)、ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)、ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『対話』(共訳、河出書房新社)[文庫版]『ディアローグ──ドゥルーズの思想』(河出文庫)などがある。